『ちくま文学の森5 おかしい話』(筑摩書房)

「おかし男の歌」長谷川四郎 ★★★★☆
 ――おかし男 詩人だった/町角から ふいと出て/it rains cats and dogs/パイプに 火つけて/火と水の 音楽きかせ/ふる雨とのぼる煙と 空にローマ字かいた/o my lonelyhat/おかし男 もういない

 これで全文。「音楽きかせ」るってことは、もしかすると、ジューッと音たてて火が消えてる?
 

「太陽の中の女」ボンテンペルリ/岩崎純孝訳(Donna nel sole,Bontempelli)★★★★☆
 ――僕の方へ向って飛んで来る一台の飛行機に出逢った。僕は接触しないように、少し方向を変えた。すると向こうの方でもかえって同じ方向によけて来た。「おい、右によけることを知らないのか?」その時返事があった。「ごめんなさい、度忘れしてたのよ」僕はドキッとした。それが女の人の声だったから。

 ロマンチックな(と語り手の方は感じてしまう)状況から、生まれないロマンス。特殊な状況だとのぼせあがってしまうだけに、普通の状況であれば当たり前に過ぎない女の応答が、ちょっぴりコタえる。
 

「死んでいる時間」エーメ/江口清訳(Le temps mort,Marcel Aymé)

 何度も読んだので今回はパス。
 

「粉屋の話」チョーサー(The Miller's Tale,Geoffrey Chaucer)★★★☆☆
 ――宿の亭主には結婚したばかりの女房があって、この女は若い上におてんばで、亭主は年をとっていたから、どうも男ができそうで心配していた。下宿人に一人の大学生がいて、亭主の留守にこっそり女のかくしどころを押さえながら、「この願いがかなわなければ、ぼくは死んでしまいますよ」と。

 『カンタベリ物語』より。くすりとおかしい話というより、発想がぶっとんでいて何が何やらわからない(下品な)笑いが炸裂します。鉢に吊されてからお尻を出したり復讐したりの一連の流れは、完全なドタバタ喜劇です。
 

「結婚申込み」チェーホフ米川正夫(Предложение,Аитон Чехов)★★★★☆
 ――「わたしはお宅のお嬢さんを……」「あっ、それはそれは……わしもどんなに嬉しいかしれませんよ、いやはやどうも、といったようなわけで。ひとつナターシャを呼んでこよう」……「あら、あなたでしたの」「ご機嫌よろしゅう。ご承知のとおり、わたしどもの牛ガ原は……」「あなた『わたしどもの牛ガ原』とおっしゃいましたね……」

 久生十蘭の「隣聟」って、これの狂言化だったんですね。「足が」「顳顬が」という合いの手が可笑しすぎます。
 

「勉強記」坂口安吾
 

「ニコ狆先生」織田作之助 ★★★★☆
 ――このたび感ずるところあってニコ狆先生の門弟となった。ニコ狆先生またの名を狆クシャといい、甲賀流忍術の達人である。ニコ狆先生の顔は狆に似ている。

 どう見ても駄洒落のタイトルなのに、それをオチに持ってくる余裕が潔い。口から出任せのホラ話のような語り口ながらその実けっこう細かく張りめぐらされてます。
 

「いなか、の、じけん(抄)」夢野久作 ★★★★☆
 ――漁師の一人娘で生まれつきの盲目がいた。三味線なら何でも弾くのが自慢だったので、芸者代りに重宝がられていた。ところが馬方が寄り合いにたどりつくと、うしろには座布団だけしかのこっていない。坐っていた女は消えていた。

 タレントがバラエティ番組で話すような「うちの田舎はスゴイ」。それがあんなふうに下品ではなく、フィールドワークの民話のように語られます。
 

あたま山」八代目林家正蔵 ★★★★☆
 ――お月さま、お日さま、それに雷さまが、下界へ下りて来まして……朝、目が覚めて……「相棒はどうしたい?」「お月さまとお日さまでございますか?……もうお発ちになりましたよ」「ふゥゥん。月日の経つのは早えもんだ」

 もともと短い話なので、枕だけの小咄集のような作り。どう頭山につなげるのかと思ったら、「手と足」。それだけで無関係にも思える話題がつながってしまうのだから面白い。
 

「大力物語」菊池寛 ★★☆☆☆
 ――昔、朝廷では毎年七月に相撲の節会が催された。日ある時、越前の佐伯氏長が、相撲の節会に召されることになった。途中近江の国を通っていると、色白の美人がいた。心が動いて女の手をとった。いっしょに歩いたが、しばらくして手をぬこうとしたが、放さない。

 力持ちの話は今昔物語なんかにたくさん収録されているけれど、再話にしてもやっつけ仕事すぎ。
 

「怪盗と名探偵(抄)」カミ/吉村正一郎(Le bébé roug/Le retour de l'incinéré,Cami)★★★★☆
 ――「皆さん、大へんなんです。今さっき、私は赤ん坊に襲われました」「赤ん坊に?」「へえ。そこに死んでおります御婦人が、つい今赤ん坊の化物を生みましてね、巨人の赤ん坊なんで!」

 ナンセンス・ミステリの傑作。本末転倒というか、牛刀を用いて鶏を割くというか、思えば怪人二十面相という人も、スペクトラと同じくコスト・パフォーマンスよりも奇想を大事にする人でした。
 

「ゾッとしたくて旅に出た若者の話」グリム兄弟/池内紀(Märchen von einem, der auszog das Fürchten zu lernen,Brüder Grimm)★★★☆☆
 ――おそろしい話をすると兄が言った。「まったく、ゾッとするぜ」。下の息子はとんと話がのみこめない。「ゾッとするとは、どういうことだろう」

 落語かなにかかと思っていましたが、グリムだったんですね。
 

「運命」ヘルタイ・イェネー/徳永康元(Fátum,Heltai Jeló)★★★☆☆
 ――アラビアの詩人の言葉によれば、すべての女性の口には、彼女と接吻する運命をもった男の名前があらかじめ記されているのだそうだ。十年まえのわたしには、まだ世のなかのこういう定めがわからなかった。

 ポンテンペルリの「太陽の中の女」といい、こういう泣き笑い恋話は編者の好みなんだろうな、きっと。
 

「海草と郭公時計」シオドー・フランシス・ポイス/瀧口直太郎訳(The Seaweed and the Cuckoo-Clock,Theodore Francis Powys)★★☆☆☆
 ――ヘスタア・ギッブスは動物の営みを見て、結婚なんてつまらないと思うようになり、異質な物同士を結婚させようとした。

 ファンタジーっていうより、実際にいそうな頭のおかしい人みたいで気持悪かった。
 

「奇跡をおこせる男」H・G・ウェルズ阿部知二(The Man Who Could Work Miracles,Herbert George Wells)★★★★★
 ――フォザリンゲー氏は議論好きだった。自分の異常な能力をはじめて意識したのも、奇跡的な能力などありえないと主張しているときだったのだ。「いいですか。あのランプにむかっていったとする。『こわれずにさかさになれ、そして燃えつづけろ!』とね。すると――おやっ!」

 奇跡というものをSFの視点で捉えたファンタジー。実はやたらとスケールのばかでかいスラップスティックでもあります。奇跡というものを単なる超常的な意味ではなく宗教的な意味で受け止め、牧師さんに相談に行くあたりの生真面目さが可笑しい。
 

「幸福の塩化物」ピチグリッリ/五十嵐仁訳(Cloridrato di felicità,Pitigrilli)★★★☆☆
 ――お嬢さんが十八の春を迎えると、親父は「お前ぐらいな年になると、亭主をもつか、男狂いをするか、どっちかに定めないといけないなあ。」と言った。かくして娘は有名な昆虫学者である中年の学者と結婚することを承知してしまった。読者諸姉はおっしゃるでしょう。「愛人をつくらないの?」よくいってくださいました。

 昭和11年の翻訳作品。恋のかけひき、というよりはずるずると。
 

「美食倶楽部」谷崎潤一郎 ★★★★☆
 ――美食倶楽部の会員たちが美食を好むことは彼等が女色を好むのにも譲らなかったであろう。彼等の意見に従うと、料理は芸術の一種であって、詩よりも音楽よりも絵画よりも、芸術的効果が最も著しいように感ぜられたのである。

 食にかぎらず高じるとおかしな次元に到達してしまう。とてもではないが美味そうには思えない。グロテスクな美、というところであろうか。
 

「ラガド大学参観記」牧野信一
 

「本当の話(抄)」ルキアノス/呉茂一訳('Η ΑΛΗΘΗΣ 'ΙΣΤΟΡΙΑ,Lukianos)

 


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