「42立ちのぼるみなみの果に雲はあれどてる日くまなき頃の虚」〜「59たちばなの花ちる里の夕月夜そらに知られぬかげやのこらむ」塚本邦雄(『定家百首/雪月花(抄)』より)

 42「立ちのぼるみなみの果に雲はあれどてる日くまなき頃の虚《おほぞら》」

 ほとんど勇み足といってもいいくらいの読みをおこなっているという意味では、本書中でも印象深い文章の一つ。「この歌の南のはては焦熱地獄聯想させ、雲は救済の豫兆とでもこじつけたくなるくらゐ『あれど』の歎きは深い。」とのこと。

 43「旅びとの袖ふきかへすあきかぜに夕日さびしき山の梯」

 なるほど「屏風歌の趣」と「その遠景遠望が『袖ふきかへす』の第二句でたちまち掌上にひきよせられる」というのはその通りで、これだけ簡潔にこの歌の魅力を断定しているのには恐れ入ります。

 44「なぐさめは秋にかぎらぬ空の月はるより後もおもかげの花」

 45「三代までに星を戴く年ふりてまくらに落つるあきのはつ霜」

 46「大空はうめのにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月」

 この歌は塚本も「心と詞が華やかに伯仲し、志と技法とが相和して、まこと天馬空を行くやうな歌境を示してゐる」としか言いようのない傑作です。けぶる梅の匂いと春霞が渾然一体となって、白い霞そのものがけぶる匂いそのものであり、匂いそのものが白く色づいているような、嗅覚と視覚が一つになったくらくらするような胸苦しさ。

 47「春の夜の夢のうきはしとだえして嶺に別るるよこぐものそら」

 定家作品中でもかなり人口に膾炙した一首。「事實などかけらもない。虚で始まり虚で終るいはば聖なるいつはりの世界である。」という一言が、この歌の、そして定家の、塚本の本質を突いているようでぞくりとします。

 48「霜まよふそらにしをれし雁が音のかへるつばさに春雨ぞ降る」

 わたしは上の句の冷たさと対比されるせいで下の句の「春雨」に温かさを感じたものですが、塚本はこれを「雁を送る人の惜別の心に翼が濡れる」と説きます。

 49「夕暮はいづれの雲のなごりとてはなたちばなに風の吹くらむ」

 塚本以前はいざ知らず、塚本以後の現在となっては、「どの雲の一ひらが風に變つて」という前衛的な読み方よりも、むしろ「どの雲を吹いた名殘の風」とする『尾張廼家苞』の解釈の方がかえって新鮮なような気もします。でも塚本の読みにしたがうと、雲(煙)と風と匂いが一つになるんですよね。そこがいい。ところで橘の花が雲のなごりという受け止め方は問題外なのでしょうか。

 50「うちなびくしげみが下のさゆりばの知られぬほどに通ふ秋風」

 同じ「仁和寺宮五十首」にある「わくらばにとはれし人も昔にてそれよりにはの跡は絶えにき」という歌は、「手法はともかくまことめかせた心境が却つてそらぞらしい」という評。

 51「いづみ川かは浪清くさす棹のうたかた夏をおのれけちつつ」

 「泡沫が飛び散つて夏を消し去るといふ大膽な省略法は、むしろ後世の俳諧の妙趣に通じるものがあらう。涼しさを生むとは言はぬところに定家の意圖はあり、表現は屈折してゐる。」とあります。確かに「夏の暑さを消して涼しくする」では普通の表現であり、「夏を消す」だと俳諧どころか現代詩に近い。

 52「大淀の浦に刈りほすみるめだにかすみにたえて歸るかりがね」

 恥ずかしながら、「霞に隱されて見えぬ雁を、さう言はずに聲だけかすかにひびかせる手の込んだ構成はさすがである」と指摘されてそのことにようやく気づいた。それよりもこの段で目を惹くのは、「その時桐火鉢を抱いてゐること自體を作品化するのが寫實の眞髓と、現代歌人すらなほ信じてゐるのなら、それは怪談にすぎぬ。」という宣言でしょう。

 53「契りおきし末の原野のもとがしはそれもしらじよよその霜枯」

 54「思ふこと空しき夢のなか空に絶ゆとも絶ゆなつらき玉の緒」

 (「空しき」「つらき」の)「二つの形容詞は無用である。定家の手腕によるなら、これを省いてもさらに空しくつらい心情は吐露可能である。その無用に近い念押しをあへてせねばならぬのが、彼の詞と心の間の修羅であつたとも言へる。」というのは欲目とも思えなくもないのですが、こういう深読みこそが塚本の真骨頂です。

 55「大方の日かげにいとふみな月の空さへをしきとこなつのはな」

 「いとふ」「をしき」は現代語の「厭ふ」「惜しき」ではなく「避ける」「愛しき」という意味である、という語釈をしつつ、この場合の「とこなつ」も「撫子」ではなく「くれなゐ鮮やかな」常夏という別の花のことであることを指摘しています。指摘された途端、オセロの石がくるくるとひっくり返されるように、色が反転して歌のイメージが一瞬にして変わりました。

 56「秋ならで誰もあひ見ぬをみなへしちぎりやおきし星會のそら」

 実際に男郎花《をとこへし》という花もあるそうなのですが、それを抜きにしても「女郎花」という名前だからこそ、必然的に対になる「男」の存在(不在)が浮かび上がり、それゆえに男と女が離ればなれの七夕(星会)に繋がっています。

 57「槇の戸をたたく水鶏のあけぼのに人やあやめの軒のうつりが」

 58「山吹の花にせかるるおもひがは浪のちしほはしたにそめつつ」

 せき止められた思いの、その底に流れる思いの強さが伝わってくる、これだけでも名歌なのですが、塚本の解説はもちろんそれだけに留まらず、文字にされていない部分にまで読み込んでいて、感服せざるを得ません。「『ちしほ』は千入《ちしほ》、すなはち千度染、數限りなく色に浸して染上げることで、色名にかかはりはないが、これまた血潮《ちしほ》と懸詞になつてゐると見てよい場合が多多ある。『した』は、心の底、あるいは單に心であるが、浪の色ならば碧と考へるのが妥當であらうか。色彩語はことさらに用ゐてゐないにもかかはらず、濃緑、黄金《こがね》、青、あるいはかすかに紅も入りみだれて、歌の底に彩《あや》なすやうなうつくしさがある。」

 59「たちばなの花ちる里の夕月夜そらに知られぬかげやのこらむ」

 橘を歌ったものとしては例外的に「香」ではなく「白」を詠んだこの歌を、しかし「これは繪ではない」と言い切り、「歌の世界でのみ感得できる微妙な、淡淡しく冱えた夢幻の風景である。」と説いています。
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