『le grandiose avenir ; anthologie de la science-fiction française les années 50』Gérard Klein et Monique Battestini編(seghers)

 フランスSFのアンソロジー。フランスのSF――といってもピンと来ません。調べてみても終末ものや幻想小説ばかりで本格的なものがあまりなさそうなので、実際に作品を読んでみることにしました。ガイド本や通史からは抜け落ちてしまう作家の良作が読めるのは、アンソロジーのいいところです。本書で扱われているのは黎明期〜過渡期の40年代・50年代。アメリカ作品の影響を受けたマルセル・バタンやジュリア・ヴェルランジェといった掘り出し物から、黎明期の幻想・諷刺・ファンタジー小説まで。
 

「Préface」Monique Battestini(序文)

 1950年代からのフランスSF史。1953年『フィクション』誌の創刊を「フランスSF」の一つのエポック・メイキングと捉えています。(日本で言えば『SFマガジン』創刊のようなもの?)。当初はネルヴァルやノディエやメリメやロートレアモンに代表されるような、幻想作家や哲学的コント作家に作品を呼びかけていたそうです。やがてファンによるファンジンも創刊され、また創作・翻訳・評論のいずれにも力を入れ始める――というのは、どこの国でも一緒のようです。
 

「Béni soit l'atom」René Barjavel原子力の讃えられんことを,ルネ・バルジャべル,1945)★★☆☆☆
 ――Valentin Durafourはパリ‐ニュー・ヨーク間の航空バスの操縦士だった。ニュー・ヨークに着陸しようとした矢先、強烈な光と煙が上がった。事故か、戦争か? 直後、キノコ雲が見えた。戦争だ……。

「文明人の日記」神は原子であり原子は神である。地上では無人の工場が稼働している。人間は生まれると一つの部屋とお金を与えられ、何もする必要はない。原子力のおかげだ……。

孫の日記」たいへんなことが起こった。冥王星が独立を主張して、容れられなければ戦争を起こすというのだ。地球はミサイルを発射したが、冥王星の方も応戦してきた……。

 ルネ・バルジャヴェルは『荒廃』などいくつか邦訳もあるSF作家。解説には「écologiste」の傾向があると書かれてあります。終末ものなどが得意な作家のようです。核戦争が勃発し、一夜にして世界は滅んでしまうが、残された人々が原子力を有効活用して理想の世界を作りあげるが……というのが本篇。正直にいってかなり古くさい作品です。世界が火に包まれるのを航空バスから目撃するというパニックもののような発端こそ引き込まれるものの、描かれている未来世界が凡庸で退屈でした。
 

「Le contretype」Gil Madec(複写,ジル・マデク,1955)★★★☆☆
 ――Laurent Pinelあ地下鉄で拾った鞄をSabatier教授に届けたところ、黒猫が徐々に見えなくなるのを目撃する。教授は複製の研究をしていたのだ。教授によれば原理は写真と同じだという。そして驚くべき提案をする。人間で実験したい、ついては君に――。Laurentは複製を利用した強盗を企み、実験に同意する。だが複製たちは互いに自分が本物だと言い張った。困り果てて博士を再訪すると、猫が柱時計とくっついて時刻を告げていた。さらに教授は拡大や縮小も計画しているという。不安になって逃げ出したLaurentは、翌日新聞で教授が変死したことを知る。拡大した猫に襲われたのだろう。定着液をつけられていない猫は時間が経つと消えてしまったはずだ。【以下 伏せ字 反転】Laurentは故郷に戻り、幼なじみと愛を語らった。翌日になってふたたび会いに行ったLaurentは、もう一人の自分が幼なじみと抱き合っているのを目撃する……。後日、壜で頭を割られた遺体が発見される。身許はLaurent Pinelだと判明した。だが壜からは本人の指紋しか発見されず、容疑者不明のままとなった。【伏せ字お終い】

 Gil Madecはさまざまな職業を渡り歩いた(おそらくは)アマチュア作家。この作品を書いたときには写真技師だったそうです。ウェルズによってSFに開眼。フランスSFの伝統に忠実な、論理・アイロニー写実主義に基づく作風。モーリス・ルヴェルの名前が挙げられていることからもわかるとおり、日本でいう「SF」とはちょっと違います。

 物体を複製するのに写真と原理は同じ、という発想だけならともかくも、ピントや定着液など、細かいところまで本当に写真とまったく同じというアイデアが面白い一篇です。くすねた煙草がふにゃふにゃだった、という導入も、何だかわけがわからない不気味な不思議さがあって引き込まれました。教授の飼い猫がチェシャ猫のように消えるところもニヤリとする場面でした。
 

「Vie et métamorphise de Peter Finch」Yves Gandon(ピーター・フィンチの生活と変身,イヴ・ガンドン,1949)★★★☆☆
 ――退役したPeter Finchは酒場で出会ったDave O'Rregans教授の研究室に招かれ、石のような蛙や生き物のように動く植物を目にする。物質を構成する原子は共通であり、その流体(霊魂)を組み替えることでものの性質を変えることができるのだという。危険はないし人間に戻ることもできるのだが、敬虔な人間は動物になどなりたがらない。以前から変身願望のあったPeterは実験に同意する。Peterは青く美しいクシクラゲを選んだ。群れとともに海を泳ぎ……だがやがて鮭の群れに襲われ――目が覚めると人間の身体になってヨットに戻っていた。翌日はヒナギクに変身した。視覚も聴覚も人間とは違っていた。モグラに地面を掘られ、牛に食まれそうになった……。最後には鉱物になった。地球の歴史にも匹敵する古い夢を見た……。

 イヴ・ガンドンは1949年に『Ginèvre』でアカデミー・フランセーズ小説賞を受賞したこともある、小説家・詩人・評論家・エッセイスト。SF作品としては三冊の長篇と二冊の短篇集があるそうです。

 人生に絶望していたPeter Finchが、さまざまなものに変身してその生活を体験する、リアル版の夢応の鯉魚というか胡蝶の夢というか。「変身」といっても、「意識を転送する」というのに近いようです。クシクラゲ(動物)、ヒナギク(植物)というのも風変わりですが、なかでも鉱物の一人称というのが、発想として面白かったです。
 

「Le danger des classiques」Boris Vian(クラシックは危険,ボリス・ヴィアン,1950/1964)★★★★☆
 ――わたしは知識を貯め込むことのできる新型ロボットを開発した。明日届けられる『ラルース』を実験に使うつもりだったのだが、憎からず思っている学生Florenceが、読みかけのジェラルディ『きみとぼく』をロボットに読ませてしまい……。機械は愛の言葉をささやきながら暴走し始めた。

 おそらくは本書中でもっとも有名な作家によるSF作品。「クラシックは危険」の訳題で邦訳があります。内容自体はわりと他愛ないコメディなのですが、ペシミスティックで暗い作品が多いなかにあっては、この読みやすさとメリハリのよさは際立っています。
 

「Mission à Versailles」Marcel Battin(ミッション・ヴェルサイユ,マルセル・バタン,1958)★★★★★
 ――Iroquoisキャンプで疫病が流行っているから調査に行くよう委員会から命令を受けたのは、1997年4月30日のことだった。病気で働ける人間がいないため、収穫もおぼつかず、病人を隔離しようにも隔離小屋を建てる人手も足りない状況だという。

 デビュー作「Un jour comme les autres」には(リチャード?)・マシスンの影響とエッフェル塔への憎しみ(^ ^)が見られる、と書かれているだけあって、かなり英米SFに近い作風でした。短篇作家で、作品集はまとめられていません。編者によれば、英米でなら成功しただろうがフランスでは駄目だった、とあります。フランスSFには珍しい作風だけに、残念ですね。シェクリイ、ディッシュ、ファーマー、ベスターの仏訳者でもあるそうです。

 核戦争後、人類はセクションごとに分かれて暮らしており、子どもが実権を握って大人は奴隷のような扱いを受けていました。あるセクションで疫病が流行り、別のセクションに属する語り手が視察に向かいます。その語り手の報告書と、その後の政府広報という形が取られた作品です。同じディストピアでもフランスSFというと、スウィフト的な諷刺や幻想小説的なものが多いのですが、本篇はしっかりと別世界が構築されていて、それでいながら情報は最小限に抑えられて読者の想像に委ねるという形が採られており、SFどうこうよりそもそもの小説の完成度が違いました。やがて語り手のセクションにも疫病が発生しますが、パウダーを塗れば病気は防げると政府は断言し、医者を含む大人たちと口を利いた者は追放するというおふれを出した――命よりも意地や面子を選ぶ、争いの愚かさを描いた作品です。
 

「Les bulles」Julia Verlanger(泡,ジュリア・ヴェルランジェ,1956)★★★★★
 ――今日「よそびと」を見た。口を動かしているが何を言っているのか聞こえない。私は日記をつけている。「未来のためだ」と父は言った。「泡」と戦うことはできないし、死ぬか「よそびと」になるしかないことがまだわかっていなかったころは、たくさんの人が死んだそうだ。昔だったら外に出られず飢え死にしていたことだろう。父が言うには、昔は「従僕」や「子守」(父はたまに「ロボット」と呼んでいた)もおらず、自分たちで食糧を取っていたのだ。母は何もわかっていないようだった。私に話しかけたこともない。ときどき「外に出して!」と叫び出す。「泡」が現れたときのショックに耐えられなかったのだ、と父は言っていた。「いいか、Monica。もし俺がいなくなったら、母さんの面倒を見てくれよ」。でも私は約束を守らなかった。父が出て行ったとき、母は死んだ。まだどこかに生存者がいると、父は信じていた。今日、今まで映らなかったテレビが映った。老人が「泡」について話をしていた。人が核戦争を繰り返し、そして「泡」が生まれたのだ。まだ「泡」を倒す方法は見つかっていないが、希望を捨ててはならない――と。

 編者解説によれば、この人もリチャード・マシスンに影響を受けているということです。フランスでは一時期マシスンが流行っていて、それはおそらく「テクノロジー」ではなく「日常」や「感情」というSFの別の可能性を指し示していたからではないか、と編者は書いています。本書に収録されているのはほとんどが40年代50年代のSFであることもあって、テクノロジー系の作品は箸にも棒にもかからないようなものが多いのだから皮肉なものです。マルセル・バタンとは違い、ジュリア・ヴェルランジェには数冊の著作があり、著者の名を冠した文学賞も設けられていることを考えれば、フランスではまずまず成功したSF作家だと思われます。ただしamazonの書影やあらすじなどを見るところでは、その作風はSFというよりファンタジーに近そうです。

 本篇は核戦争後に一人生き残った少女の手記。町には「泡」が出没して人間を襲っているために外に出ることもできず、一緒に生き残っていた父もある事情から「外に出て」しまい、今はいません。父から聞かされた昔の地球や未来への希望についての回想と、現在モニカの周りで起こっていることが、雑然と語られて、徐々に事情がはっきりとしてきます。無為な少女の日常と、「泡」や「よそびと」の謎、過去や未来への憧憬、父に対する愛情や母への複雑な気持――全編を覆う不安がにじむように伝わってきて、最後はディック的な結末が待ち受けていました。

 翻訳してみました →「こちら」です。
 

「Le retour」Boileau-Narcejac(帰還,ボワロー=ナルスジャック,1958)★★★☆☆
 ――地球の未来を賭けて火星に向かった宇宙船から、一年ぶりに連絡が届いた。「目的は達せられた。すべて積載した」。だが何をたずねてもそれを繰り返すだけ――。

 ミステリ作家として著名な作者による、SF小咄。科学者たちが何事も正確に伝えようとするあまり、火星のことはどれも「地球の言葉では表現できない」と言って何一つ説明できませんでした――という話。
 

「Persévérence vient à bout de tout」Jacques Sternberg(我慢をすれば福が来る,ジャック・ステルンベール,1959)★★★☆☆
 ――ついに人類は宇宙に進出した。だが火星だけは手つかずだった。地表の金属が固すぎてどんな器具を使っても掘削できないのだ。おまけに暑くてすぐに水分が足りなくなった……。

 ジャック・ステルンベールはいくつか邦訳のある作家。『笑いの錬金術』所収の「代表取締役」を読んだことがありますが、コテコテの落とし咄でした。本篇もあらすじを読むだけでオチが予想できると思います。
 

「Un rêve de pierre」Philippe Curval(石の夢,フィリップ・キュルヴァル,1958)★★★☆☆
 ――私がその町に到着したその夜に、その隕石が落ちてきた。私はしばらく前からスランプに陥っていたが、この何億キロもの彼方からやって来た石を前にして、無限の霊感がほとばしるのを感じていた。私のなかに圧倒的なイメージが流れ込んできて……私は石の夢を見ていたのだ。

 フィリップ・キュルヴァルは日本でもいくつかの作品が翻訳されている作家です。解説によればフランスSF界の大家らしいのですが、少なくとも本篇はSFというより幻想小説に近い作風でした。
 

「Le retour de Yerkov」Michel Demuth(Yerkovの帰還,ミシェル・ドミュート,1959)★★★☆☆
 ――Yerkovが宇宙に旅だったのは二十年前のことだ。それから地球では世界戦争が起こった。Irvinは今もときどきYerkovのことを夢見る。Clangeauxとトラックで移動中に攻撃を受け、二人は放射能汚染地域を通って逃げようとする。途中で砂嵐に遭い、ひとまず避難する。その夜、空を見上げていたIrvinは光が移動するのを見た。「Yerkovだ!」その後ミュータントに襲われながらも、どうにか逃げ出した。やがて、Clangeausxが叫んだ。「終わった!」「何が?」「戦争だよ! Yerkovが戻ったんだ」

 Michel Demuthは1939年生まれ、19歳でデビューした早熟の作家です。その後は雑誌の編集者として活躍しました。この作品はどちらかというと英米系の作風ですが、いかんせんやや古くさいところがあります。
 

「Les voix d'espace」Gérard Klein(宇宙からの声,ジェラール・クラン,1958)★★★★☆
 ――私が初めて宇宙からの声を聞いたのは、地球と月のあいだの人工衛星の上でだった。それはこれまでに聞いたどの音とも違った。確かに「声」だった。火星にも人類がいるのでは――私はそんな期待を捨てられなかった。やがて人類が訪れた火星は一面の砂漠、木星も海ばかりだったが――またあの「声」が聞こえた……。

 ジェラール・クランは本書の編者の一人。本書収録作家のなかでもフランスSF界でメジャーな部類に入ると思います。どことなくレムの『天の声』を連想してしまうタイトルですが、「空間の声」と訳すべきかもしれません。我々は孤独ではない、広い宇宙のどこかにはほかの人類がいる、と信じて探検を続ける語り手たちと、未知の空間・時間・存在とのファースト・コンタクト。古き良き一昔前のSFらしさが詰まった、英米SFもしくはソ連SFに近いテイストを持った作品でした。火星に人類がいたなら戦争も国境もなくなる――というオプティミズムもご愛敬です。
 

「Ceux d'Argos」Martine Thomé et Pierre Versins(アルゴの人々,マルチーヌ・トーメ&ピエール・ヴェルサン,1959)★★★☆☆
 ――聞いてくれ、婆ちゃん、アルゴを離れたとき、彼らは花をつけた菩提樹の下で踊っていた。ぼくは第三次隊のメンバーだった。第二次隊が訪れたときには老人の死体しかなかったのに、何が起こったのかわからない。言葉は通じない。踊ることしかできないようだ。ぼくはVrâという少女に恋をした。やがて探検隊は町を離れた。惑星に大嵐が訪れた。ぼくはVrâのいる町に戻ったが、死体が見つかるんじゃないかと思うと怖くて仕方なかった……。

 ピエール・ヴェルサン単独名義「人間」の邦訳あり。本文中に「シャンブロウ」の名が見られることからわかるとおり、恋愛メインの話です。前回訪れたときには死体ばかりだった謎の真相の見当はつくものの、それを祖母に語る独白とオーバーラップさせて、なおかつ喪失感の余韻の残る最後の繰り返し「Ne partez pas, grand-mère」にはしんみりとなりました。
 

Au pilote aveugle」Charles et Nathalie Henneberg(盲目のパイロット,シャルル&ナタリー・アンヌベール,1959)★★★☆☆
 ――その店には盲目のNorthと足のないJackyの兄弟が暮らしていた。Jackyはステレオスコープで古い映画を見ているうちに、それが現実のもののように思われて、思わずよろけてドアにぶつかった。客から怪しげな箱を預かって金を融通したが、翌日、その客が溺死したというニュースがあった。倉庫には天球図やロケットのエンジンが置いてあった。Northは二度とそこに入ることはなかった。Jackyはロボットにたずねた。「その星には生物はいないのか?」「lamantinがいます。草食性セイレーン型哺乳類です」夕食の時間になったので食堂に行ったが、食事もNorthもいない。Northの部屋に行こうとしたところ、海の匂いがして……Jackyは何も聞こえなくなった。一方、声に導かれるようにNorthは……

 SFマガジン1977年12月号に邦訳あり。いかにもフランスSF風の、幻想に傾いた作品でした。セイレーン型宇宙生物に取り憑かれる話です。「gosse-tronc」「enfant-tronc」という表現がすさまじい。
 

「Les naufrageurs」Arcadius(舟幽霊,アルカディウス,1958)★★★★☆
 ――「まただ」。ロケットは上空で傾き、金星の炭素ガスのなかに沈んだ。黒い錆びが広がっている。不思議なのはガラス化がはじまっていることだった。その夜、艦内を見回っていたRichardとLionelは、悲鳴をあげた。部屋から廊下の明かりの下に出てきた「それ」は、なめくじのようで、三本の足を動かしていた。慌てて銃撃を加えると、「それ」は暗闇のなかに姿を消した。翌朝、「それ」が大量に押し寄せてきたものの、何とか一匹を捕獲した。「こいつはヘリウムガスの海に住んでいるんだ」Richardは捕獲した一匹にロープをつけて、巣穴を見つけようとした。上空。街だ! こんな生物がどうやって建物を建てたというのだ? Richardは様子を探った。そこでは蟻のように、女王が頭脳となって働き蟻を手足として動かし、食糧と町造りを司っていたのだった。ロケットはその材料にされたのだ。Richardは女王を倒そうと決めた。

 本名Alain Hilleret。主に短篇を発表。ウェルズとガストン・ド・パヴロウスキーの影響を受けた作家です。タイトルの「Les naufrageurs」とは「船を難破させるもの」の意。金星探検隊が謎の生物に遭遇するという、古き良き味わいたっぷりのSFです。謎の難破、透明な怪物、特異な生態……新事実が次々と明らかになる飽きさせない展開で、ペシミスティックなところは微塵もなく、宇宙探検が輝いていたころのお話です。
 

「Le suicide」Claude François Cheinisse(自殺,クロード・フランソワ・シェニス,1958)★★★★☆
 ――窓の外をミサイルの飛ぶ音が聞こえたが、「教授」は顔を上げもしなかった。1914年6月28日、オーストリア皇太子の車がサラエボを通過し、何も起こらなかった。その後、各国がこぞって大量殺戮兵器を開発し、何百万人もが死んだ。世界の終わりだ。だが……過去とは蓋然性の高さに過ぎない――。

 いくつかの邦訳がある短篇作家です。掌篇といった方がいい長さのこの作品は、オーストリア皇太子が「暗殺されなかった」ために終末を迎えそうになった世界を救うため、過去に遡って原因を取り除こうとするかつての「青年」の物語です。あまり昔に遡ってしまうと、若くなりすぎて行動を起こせないため、その年齢が選ばれた、というのが面白い発想でした。よくあるタイプの内容ではありますが、本書のなかではよくできた作品です。
 

「Une nuit interminable」Pierre Boulle(果てしない夜,ピエール・ブール,1953)★★★☆☆
 ――トーガを着た男が隣のテーブルに座り、古代ラテン語でたずねた。「今は何世紀ですか?」。男は古代ローマを経由して、八千年前の過去からやって来たところだという。古代ローマの時点で時空旅行の技術は失われていた。二十世紀が旅行の限度なのだという――。

 邦題「果てしない夜」で邦訳あり。『猿の惑星』でお馴染みのピエール・ブールの作品です。タイトルからもわかるとおり、タイム・パラドックスが扱われています。
 

「L'Intrus」P. A. Hourey(侵入者,P・A・ウーレー,1956)★★★★☆
 ――「ご自由に」と書かれた工事現場に好奇心を覚え、Vanudは足を踏み入れた。だが誰もいない。建物があったのでなかに入ってみると、壁と廊下しかない。廊下の先の階段を上ると、ドアがあった。なかに入ったが誰もいない。留守なのか……だがそれならどうして明かりがついている? 戻ろうとしたがドアが開かない。馬鹿な! きっと勘違いだ……別のドアを開けると、そこには階段がなかった。腹が空いて来た。食堂には料理が用意されていた。テーブルに近づくと……Vanudは落下していた。気絶から醒めると真っ暗だった。誰かの悪戯なのか? 壁伝いに出口を探すことにした。もし手を離すと、真っ暗ななかで何もわからなくなってしまいそうで、怖くて思い切った行動は取れなかった。ようやくたどり着いたエレベーターに乗ると、どこからか声が聞こえる。外国語? 独り言だろうか? 声を頼りに進んだが、たどり着いたと思った途端に声は消えてしまった。もうたくさんだ……どうにか出口までたどり着き、家を出た。自由だ……だが、木々はどれも裸で……さっきまで春の緑にあふれていたのに……人もいない……ひとりぼっち……永久に……この地獄で……

 別名義で作品を発表していたP・A・ウーレーが、SFを発表したのは六十代になってからだといいます。長篇『Vuzz』と数篇の短篇を残すのみ。本篇は、ふと入り込んだ家から出られなくなってしまうという、SFというよりは「幻想と怪奇」と呼ぶに相応しい作品です。方向のわからない闇、聞き取れない声、気配のみで姿を見せない人……嫌なところを突いてくるのが上手い、怪談の秀作です。
 

「Qu'est-ce qui se passe après la mort?」Jacques Goimard(死後に何が起こるのか?,ジャック・ゴワマール,1959)★★★☆☆
 ――宇宙には死ぬとガス状になって再生する生命もいれば、不死の石人間もいた。終末研究センターでは、死後についての研究を始め、興味深い宇宙人とコンタクトする。死ねば考えずに済み、生きていれば死のことを考えざるを得ない。生とは喧噪であり死とは平和である。

 人類とは異なる生態と思想を持った宇宙人の登場する、王道といってもいいような内容ですが、寓話めいた話になります。
 

「Premier empire」Francis Carsac(最初の帝国,フランシス・カルサック,1960)★★★☆☆
 ――発掘現場からは最終戦争前のことを記された本が見つかっていた。ボヴァリーやスカーレットという女性についての「記録」や、アシモフという著者による宇宙旅行の「記録」だ。私たちの祖先には宇宙を旅する技術があったのだ――と信じていた。

 そのまんまの話で人類がっくり――のはずが、なぜか最後には超空間を越えることに成功してしまいました。
 

「Le grandiose avenir」Jean Porte雄大なる未来,ジャン・ポルト,1958)★★★☆☆
 ――未来の数学は、科学はどうなっているのだろうか。世界各国から集められた科学者である私たちは、西暦五十世紀の未来へと旅立ったが……。

 これ一作きりの経歴不肖の作家。さぞや進歩しているだろうと期待していた未来は、まったく変わっていませんでした。出迎えてくれた歴史学者の老人が言うには――(優秀な科学者はみんな未来に旅立って、いなくなってしまったのでした)。フレドリック・ブラウンのようなオチが楽しいショート・ショートでした。

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