文豪怪談の完結編はアンソロジー三冊。
「百物語」三遊亭圓朝 ★★★★★
――内藤新宿に玉利屋と申す貸座敷がございましたが、ここへしげしげ通いました法華寺の和尚が自殺をいたしました。それが夜な夜なこの和尚の妄念が出るというので玉利屋の店の客が減ってまいりましたから、田川という代言の先生にその話をいたすと……
小品ながら、古き良き日本語と語りの魅力が詰まった名品です。個人的には「妄念が出る」という表現に、ぐっときました。
「子規小品集」正岡子規 ★★★☆☆
「妖怪談」「夢」「夢の国」
「夢」
――その夜の夢にある岡の上に枝垂桜が一面に咲いていてその枝が動くと赤い花びらが粉雪の様に細かくなって降ってくる。
「赤」
――余は子供の時から天然界の現象がひどく好きであった。その美しい現象の最要素は色である。赤色の無い天然の色は如何に美しくても活動する事が無い。
「墓」「ランプの影」「犬」「死後」「蕪村寺再建縁起」
エッセイから落語まで千差万別。なかでは赤のイメージが美しい二篇が印象に残りました。
「見知らぬ人」「遺伝的記憶」
「幽霊の接吻」
――劇場は満員だった。うしろをふり返って見ると、顔、顔、顔の海がひろがっているのが見えた。そのまんなかに、大きなランプが一つ、月のようにかかっていた……見物はみな白ずくめだった。白ずくめ! なぜ、みんな白装束なのだろう? ぼくの前に、女がひとり坐っていた。すると、この唇に接吻したいという願望がぼくのなかに起こってきた。
「黒いキューピッド」
――部屋のなかに、小さな絵が一枚かかっていた。赤みのさした頬、なかば閉じた目の潤んだ光、太陽のように輝かしい髪の毛、肉色のくちびる、面長な輪郭。よく見ると、左の耳たぶに、珍しい耳飾りをつけている。黒い玉に彫った小さなキューピッドだ。発つまえに、ぼくは宿の主人に、絵のことを尋ねてみた。「旦那、あの絵は狂人が描いたものですよ」
「石に書かれた名前」「こがねの泉」「鳥と少女」「ある扇のはなし」
「MDCCCLIII」
――鉄の大門をくぐると、門のなかに敷いてある貝殻が、熱気にかすかな汐の香をはなちながら、足の下でカリカリ割れくだけた。鉄の鐘が不吉な余韻をひきながら、一つガーンと鳴った。生命がまた一つ、永久に消えていった。「なにか御用がおありなのですか?」と看護婦は、見なれない客と見て、低い声でたずねた。
「死後の恋」
どことなく『新青年』ふうの「幽霊の接吻」、禍々しい美しさをたたえる「黒いキューピッド」、あの世とこの世の交流所のような「MDCCCLIII」のほか、ゼノグロッシアや偽の記憶のような怪異に「遺伝」という説明をつけた「遺伝的記憶」、オルフェウス神話やハーヴィー「炎天」を連想させる「石に書かれた名前」など、知られざるハーンの幻想作品の数々を楽しめました。
「響(抄)」「怪談」「怪談会」水野葉舟 ★★★★☆
「響」は葉舟版『夢十夜』のような作品ですが、一話目「老婆」の最後の一文ですとか、「一夜」の「今(中略)魂を自由にしている様な眼」とか「私はただ『悪魔!』と口にまで出かかった」ですとかいう、言わずもがなの一言が作品を台無しにしてしまっていてもったいない。
「怪談」は明治の実話怪談、三篇。「一、女の顔」は枝の先に女の顔が見える怪談ですが、死んだ知り合いの顔だったという因縁のある落ちになるところが、現在の実話怪談に通じます(が、そのせいで怖くなくなってしまっています)。「三、影の人」は、「影のような人だ。影のような人が偶然と立っているのを見た人がある。」という一文がさりげなく怖いうえに、そのものずばり「影のような人」という存在が不気味このうえありません。
「怪談会」も同じく明治の実話怪談。怪談会に集まった三人の知り合いが語った話、という体裁。一話目、Iの叔父が死んだ話が、支離滅裂すぎて怖いというより気持ち悪い。三話目、Sの知り合いが聞いた引っ越し話。火の玉がもつれ合っていたり、家に入った見知らぬ人がそれきり出てこなかったり、江戸怪談のようなどことなくのどかな趣のある怪異でした(少女の半身が真黒になるというのは怖いですが)。五話目、Sの叔父が海嘯《つなみ》にさらわれ、失ってしまった妻子の幻を見るという、いかにも心霊的な話。六話目は狐の話。ばかされる話=狐という共通理解が生きていたのだなァと感慨深いものがあります。
「長靴」は長靴を軸に連想が働く悪夢とも何とも言えない小説。「縁女綺聞」は異類婚にまつわるあまりにも普通の民話なので、本書に収録されているのには違和感があります。「夢日記」は口語体と文語体が入り乱れているところがあるのを考えると、いわゆる日記文学ではなくどうも本当の日記のようです。
これはまた馬鹿馬鹿しいというか、やりたい放題のボーナス・トラックでした。