『黒耀宮 黒瀬珂瀾歌集』黒瀬珂瀾(ながらみ書房)

・夜への餞別

「The world is mine とひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に」

 じっと眺めていると、呟きを修飾する「ひくく」という副詞が、ぼやけて全体と混じり合って、まるで空がひくくなるようにも感じられてきます。いずれにしても空が自分に近づいてくるという歌のはずなのに、なぜか宙に浮いて空に近づいていくような感覚を抱いてしまいます。どうしてだろうと考えてみると、「world」とは地上ではなく空も宇宙も含めた「世界」なのだと思いいたりました。
 

「地下街を廃神殿と思ふまでにアポロの髪をけぶらせて来ぬ」

 「けぶる」という言葉には「煙たくなる」というような意味があることしか知らなかったので、辞書を引いてみると、「かすんで見える」「ほんのりと美しく見える」という意味がありました。となるとこの歌は、これ以後の歌にもあるような、どうやら同性愛的な歌のようです(語り手が女であっても構わないわけですが)。髪を照明に霞ませてやって来た「我がアポロ」を見て、周りの風景が一瞬にして変わってしまったことを詠んだのでしょう。あまりにも自己陶酔的な歌に見えながらも、「廃」神殿というところに、一歩引いた視点を感じます。
 

「咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり」

 これも同性愛的な歌です。シャツの襟がはだけてくしゃくしゃになっているところを、薔薇の花びらに見立てているものと思われます。もちろんこの歌も男女の歌であってもいいしそもそも性的でなくてもいいわけですが、薔薇になぞらえる以上は深紅のシャツに違いなく、そんな色のシャツを汗ばんではだけているというのは、それだけでもうそっち系の人としか思えません。
 

「鶸《ひは》のごと青年が銜へし茱萸を舌にて奪ふさらに奪はむ」
 

「僕たちは月より細く光りつつ死ぬ、と誰かが呟く真昼」

 僕という一人称、そしてこの一連の流れで読むと、どうしてもこの「誰か」は「美少年」に思えてしまいます。美童から美青年にいたるまでの間の、月より細く光り輝く「美少年」としての儚い命。しかも輝くのは夜。あ、でも自分を「僕」と呼ぶ少女の歌でもいいような気もします。
 

「懐かしき死に会ふごとく少年は闇夜の熱き腕に抱かれ」
 

「眼には海、空には雨月、寝台には頸青き少年二人の夜会《ソワレ》」

 目に海が映っているということは、この「寝台」とは寝台列車だと思われます(海沿いの家という可能性もありますが)。夜行列車に揺られる少年二人――。しかし冷静に読み返してみると、どうも現実の風景とは思えません。雨月というからには夜、しかも雨天、月が出ているとはいえ窓が閉まっていれば列車から夜の海はほとんど見えないでしょう。それとも窓を開けて雨に打たれているのか。わからないといえば頸「青き」という表現もわかりません。「青白き」ではないんですよね。列車の常夜灯? 寝台列車という解釈が間違っているような気が。
 

「明け方に翡翠のごと口づけをくるるこの子もしづかにほろぶ」
 

風狂ふ夜の身を打つもみぢ葉の秋の……光だ、信用できぬ」

 「風狂ふ」ほどの強風に吹かれて「もみぢ葉」が「身を打つ」その紅葉の「秋」――というように、前半部分は「秋」を導くための伝統的和歌の常套手段なのでしょうが、普通であれば「風狂ふ夜の身を打つもみぢ葉の秋の光の○○○」と続くべきところを、「……光だ、信用できぬ」と続けるところに、何だか和歌の形式そのものも信用などしないぞというような、反抗的で挑発的な意図さえ感じてしまいます。さて秋の光といえば月光のことだと思いますが、それが「信用できぬ」とはどういうことなのか。それは例えば「月やあらぬ」と詠まれた気持なのか、いやそういう気持すら信用できないということなのか。
 

「語られてゆくべき大災害《マグナ・ディザスタ》はひめやかに来む秋冷の朝」

 明らかに9・11を詠んだであろう一首です。「秋冷」という一言が、嵐の前の静けさをいっそう際立たせます。まさか別れの朝を詠んだ歌ではありますまい。でもこのあと末代まで語り継がれる痴話げんかが起こったのだと思えばそれもまた面白い。
 

・月齢十五/典礼

「男権中心主義《ファロセントリズム》ならねど身にひとつ聳ゆるものをわれは愛しむ」

「遠い岸を夢に見ました 錠剤はテーブルの上に光はなてど」

「十代の儀礼にかかり死ぬことの近しと思へばわれは楽しも」

「うるはしく汚名がわれに立つことも寒の世界のよろこびとせむ」

「混迷の意味の世界へ さんぐわつの光あふるる岬より飛べ」

「大衆に入りゆく覚悟にほはせて友は霜夜の麦酒をあふる」

 収載されている歌は一つ一つが独立した歌とはいえ、どの歌に引きずられて読むかでがらりと風景が変わってしまいます。例えば「錠剤」のイメージが強く残っていると、「十代の儀礼」や「汚名」が自殺願望のことにも思えて来るし、「男権中心主義」がちらつくと、「十代の儀礼」や「汚名」が精通や性行為のようにも疑えて来ます。「混迷の意味の」の歌も「岬より飛べ」なんて書かれているからどきっとしますが、続く「大衆に」と併せて読めば何のことはない社会人への第一歩でした。
 

「フランスの語彙を学べるわが上にああ月《リュヌ》といふ此岸の出口」

 なぜ「ツキ」や「ムーン」ではないのかと考えてみると、「ルナティック」を連想させるからかな、とも思ってみました。フランス語でなくてはならない理由にはなりませんが。
 

「空をゆく銀の女性型精神構造保持《メンタルフィメール》は永遠をまた見つけなほすも」

 「空をゆく銀の女性型精神構造保持」とは月にほかならなく、となると一首目にあった「男権中心主義《ファロセントリズム》」というのも、何やらスケールの大きなものなのかもしれません。
 

・月の婚礼

「吾はかつて少年にしてほの熱きアムネジア、また死ぬまで男」
 

曼珠沙華を蹴るごと歩む 我が恋を蔑む者のありて初霜」

 絵になる、というのは変な言い方ですが、曼珠沙華を蹴散らすのは確かに絵になります。「ごと」とあるように曼珠沙華というのは飽くまで譬喩ですし、「初霜」であって「霜柱」ではないのですが、曼珠沙華のあの独特の花びらと、霜柱の細い棒状の連なりが、蹴散らされている光景が重なって目に浮かんでしまいました。
 

「誰も見ぬ月を荒野の道連れとして渡りゆく今日、懺悔火曜日《マルディグラ》」

「ささやかな地球に種子《たね》が落つる夜の月が背中をなぞるひとり寝」

 「地球に種子が落つる」というのは受胎のことだと思われます。恋人たちがむつみ合っている時刻に独り寝をしているところなのでしょう。ところが直前の歌に「懺悔火曜日」などとあるものですから、こちらもキリスト教に引きずられて、受胎告知に限定してしまいたい誘惑に駆られます。
 

「密葬に父不在なり望月の眸《まみ》が射抜けるピエタの季節」

 ここで言う父とは父なる神ではないし、ピエタというのも聖母マリアに限定せずに子を失った母の悲しみだと捉えてもいいと思います。とは言うもののピエタと書かれると反射的にミケランジェロピエタ像を思い浮かべ、それが月に照らされている光景は確かに絵になりますが、同時にそこに神がいないということに気づかされてぞっとします。
 

「悪人はいづこにおはす金無垢の龍頭をひねり続くる真夜に」

 金無垢の龍頭というのは満月のことでしょうか。あまりうまい譬喩には思えないのですが……。
 

・針を持つ天使の歌

 目に見えて麻薬の歌ばかりが収められていますが、どれも直接的すぎて面白くありませんでした。ただ一つ、「満ち満てる月と重なる思ひとは一つ、貴女《あなた》の子を汚《けが》すこと」の歌だけが心得ません。章題になっている「針を持つ天使」という表現自体が麻薬そのものを表しているようにも思えます。
 

甘い生活

 あからさまにホモ短歌ばかりですが、「『巴里は燃えてゐるか』と聞けば、『激しく』と答へる君の緋き心音」は男女かかわらず鑑賞できる歌です。他人に取られるくらいなら、ということでしょう。
 

・水の季節

「吾が触れし耳翼ほのかにあからめて汝にデボン紀の水ぞ流るる」

 唐突に出てくるデボン紀というのが何を意味するのか正確にはわかりませんが、太古の昔から変わらぬ感情、というくらいの意味でしょうか。一生に一度どころか地球規模の恋のようです。
 

「やはらかに彩づく歌と水生の少年の手に季節を託す」

「その腕が我が水平線たりし日の陽射しを残す汝の首筋」

 こうして見ると一首目の「デボン紀」とは水生動物の謂なのでしょうか。「その腕が〜」の歌は、海水浴などでよく見かける光景だと判断しました。大人が片腕を横に伸ばして「ここまでおいで」と泳ぎを教えている場面です。となるとこの歌では大人と少年がほかの歌とは逆転していることになりますが……。
 

「朝刊を訃報から読む我が癖を知らずに眠る少年の息」

 冒頭の句からは老人の姿が目に浮かびます。本書の同性愛的な歌のなかには青年同士と思しき歌が多かったのですが、ここにきて『ヴェニスに死す』になりました。「少年」という他者的な表現である以上、祖父・祖母と孫という関係ではなさそうです……。
 

「線路にも終りがあると知りしより少年の日は漕ぎいだしたり」

 少年の「日が漕ぎ出す」というのがわかりづらいのですが、線路にも終わりがあると知ってから、少年の日が「終わる」のではなく「始まる」と捉えていいのだと思います。ゴールを目指して冒険に漕ぎ出した、のかな?
 

・黄金時代

「斬られたる己の首を運びゆく聖ドニの手で吾を抱き締む」

 こういうふうに書かれると、己の首を運ぶという奇跡に関するエピソードのはずが、妄念のようですね。
 

・転生の歌

「季節なき……花、一つあり。狂女《オフェリア》はあらぬ薫りに御髪飾りき」

「音楽聖女《セシリア》の守護をうけつつ狂王がゆく回廊に春のにほひは」

「黙礼をして過ぎてゆく碧眼の武将はリラを馬上に抱くさ」

絶唱を知らずラクリマ・クリステのかつて宴に賭けし青年」

「月を刺すビル群のはて名を持たぬ青年王の国ありといふ」

「常に何かの凶事近づく気配して吾を捕らへてゐる蜜と罰」
 

「てのひらに孔ある人とすれちがひ見失ひたりこの繁華街」

 シティーハンター
 

・晩餐

・夏の闇

「夏草を燃やせば灰の舞ひあがる匂ひにジル・ド・レエ ジル・ド・レエ」

 ジル・ド・レエという名前がまるで呪文のようで、燃やされているのが夏草とは思えなくなってしまいます。
 

第三新東京市、そして

「交差点少年群れて睡蓮は咲く燦々とはるか政変」

 エヴァンゲリオンとは無関係に鑑賞できた一首。政変が起こっているのははるか遠いはずなのに、何かがやばい。
 

・劇場の男

・冬の貴族たち

「タクシーの後部座席が祭域となる 沈黙のぼくらを乗せて」

 この歌が『幽』で紹介されていて著者を知りました。一首だけ取り出されるとすごく幻想的な歌なのですが、クリスマスの歌が並んでいるなかに混じっていると、ただのエロい歌に見えるのだから面白いものです。
 

「伝言の乙女を闇に聞き分くる遊びして冬沈みゆくかな」
 

・月のかけらを

「結晶の夜に月咲く 透明の命を分くるごときくちづけ」

「遠雷のごと汝《な》が声を耳にして眠り上手にならむとすれど」

いづれ病む精神を抱き歩みたり雨後に裂けたる無花果の下」

「聖母被昇天祝祭日にて背の君よおきてはならぬおきてはならぬ」

「霜月の沖には月の奔るゆゑ我が恋人は人殺しかも」
 

「汝《な》は母を殺して産まれ吾《あ》は姉を殺して産まれ 夜の黙礼」

 姉を殺すというのを字義通りに解釈すれば、一つには双子の姉だけが死産だったという可能性、また「母を殺し」と対比するなら、父に犯された姉から産まれて姉は産褥の床で死んだという可能性、あるいは前世という可能性もあり得るでしょうか。いや、二つ目の可能性を採るなら、「汝」も「吾」も一人の人間であり、夜中に鏡に向かって黙礼している光景が目に浮かびます。
 

・最後の曲へ

・神託

・結晶

・誰かの風の跡

「朝には蛾 昼には胡桃 夜には塩 わが掌上には杳《とほ》き手紙を」

「薔薇のみが知るわが戦火 皇帝は月夜に御輦《ぎょれん》もて流されぬ」

 前後の歌を見るかぎりでは、神話やファンタジーをモチーフにしているようなので、これも何か具体的な典拠があるのだと思います。
 

・われらは乾いてゐる

・この世のすべて

・塔の街、その他

  


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