「序論」クリス・ボルディック/下楠昌哉訳
ゴシックの系譜を「ゴート族」にまで遡って定義しようと試みたもので、「ゴシック」小説というときの、中世(的なるもの)に対するアンビバレントな感情を明らかにしていて、これはこれで非常に説得力がありました。
「第一部 はじまり」
「サー・バートランド――断片」アンナ・レイティティア・エイキン/下楠昌哉訳(Sir Bertrand: A Fragment,Anna Laetitia Aikin,1773)
――夜になり、サー・バートランドはその邸宅のノッカーを打ち鳴らした。光が滑るように消えてしまった。鐘の音が塔から鳴り響き、死人のように冷たい手が卿の弓手に触れた。
第一部には歴史的価値から選ばれた作品が並びます。台詞もなく次から次へと新たな出来事が到来する本篇を読んでいると、さながら古いサイレント映画を見ているような感覚に陥りました。
「モントレモスの毒殺者」リチャード・カンバーランド/藤井光訳(The Poisoner of Montremos,Richard Cumberland,1791)
――ドン・ジュアンというポルトガル人が腹違いの妹に毒を盛ったかどで裁判にかけられた。殺人・自殺・事故を否定し犯人を知っていると言いながら頑として口を割ろうとしなかった。
序論がなければ意味不明なところでしたが、拷問を弾劾する人殺しというのは、どうやら教会に対する批判という側面を持っている模様です。
「修道士による物語」作者不詳/藤井光訳(The Friar's Tale,Anonymous,1792)
――貧乏人のアルベールに恋をしたマチルダは修道院に入れられ、財産はすべて甥のコンラッドに贈られた。父親は死に臨んでマチルダを許したが、コンラッドの奸計によりマチルダは修道院に送り返され、気が触れてしまう……。
連載もので、その回の終わりには語り手と聞き手に用事が出来て席を外すので物語はまた今度、という工夫が為されていました。マチルダが修道院から脱出する際の雰囲気が現在の目から見ていかにもゴシック小説でした。
「レイモンド――断片」若者《イウヴェニス》/大沼由布訳(Raymond: A Fragment,Iuvenis,1799)
――レイモンドは妻と幸せに暮らしていたころのことを思い返していた。物思いに耽っていると、心を引き裂くような悲鳴が聞こえた……。
これはゴシックとか中世とかいうより年代も国籍も不明瞭な感じの作品で、わたしは何となく伊勢物語を連想してしまいました。
「罰せられた親殺し」作者不詳/大沼由布訳(The Parricide Punished,Anonymous,1799)
――ヴィルダックの古城で開かれた令嬢の婚礼に出席した私は、北の端の部屋に案内された。うとうとしかけた時、鎖を引きずる音が聞こえた。老人が振り返った。「誰じゃ?」「お前こそ誰だ?」
古城に鎖で幽閉された囚人という、「待ってました!」と言いたくなるようなゴシックな舞台設定。げにおそろしきは因果応報、親殺しの報い。そして以外と近代的な構成。
「フィッツ=マーティン大修道院の廃墟」作者不詳/大沼由布訳(The Ruins of the Abbey of Fitz-Martin,Anonymous,1801)
――バロンは修道院を我がものにするため、修道女の不貞を訴えた。まんまと手に入れたものの、バロンは病みつき、訴えられた修道女は姿を消した。一世紀半後、継承者が訪れ、塔を訪れると……。
後半は廃墟の由来にまつわる手記で構成されていて、19世紀になって額縁を用いなければもはやゴシックを描けない……というわけでもないのでしょうが、手記の内容はおなじみの恋愛と裏切りと監禁。
「復讐の僧あるいは運命の指輪」アイザック・クルッケンデン/下楠昌哉訳(The Vindictive Monk or The Fatal Ring,Isaac Crookenden,1802)
――養子のカリーニは何者かに拐かされ監禁された。アレクサをめぐる恋敵ホルブルツィが雇った刺客の仕業だった。カリーニが死んだと思い込んだホルブルツィは、アレクサを攫い、関係を迫った。ホルブルツィから報酬を拒まれた刺客は復讐を誓い……。
恋愛をめぐるごたごたに、父子の再会という要素を組み込んだのが新機軸です。むしろタイトルにもあるように僧侶が主人公であり、ホルブルツィやアレクサなど完全に刺身のつまでした。
「第二部 19世紀」
「占星術師の予言あるいは狂人の運命」作者不詳/大沼由布訳(The Astrologer's Prediction or the Maniac's Fate,Anonymous,1826)★★★☆☆
――占星術師の老人はレジナルドに向かって予言した。「凶運の定めの子よ! そなたは生まれぬ方が良かったのだ!」時は過ぎ去り、レジナルドはヴェネツィアで運命の女性に出会い、結婚した……。
狂気の家系に生まれた男が発狂するまでを、占星術師の予言という形で詩的に描いた作品で、なるほどこうした行き方が洗練されるとポーになるのかとも思いました。
「解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス」ペトリュス・ボレル/下楠昌哉・大沼由布訳(Andreas Vesalius the Anatomist,Petrus Borel,1833)★★★☆☆
――マリアは夫であるヴェサリウスに告白した。「私は罪を犯してしまったの、アンドレアス。恋人たちを部屋に連れ込み、あなたを笑いものにしていたんです」ヴェサリウスは決然としていた。「ついて来るのだ。これが誰だかわかるか?」
創元の『怪奇小説傑作集』でお馴染みの作品です。
「レディー・エルトリンガムあるいはラトクリフ・クロス城」J・ワダム/金谷益道訳(Lady Eltringham or The Castle of Ratcliff Cross,J. Wadham,1836)★★★☆☆
――レディー・エルトリンガムの注意はラトクリフ・クロス城の監獄に向けられた。レディー・エルトリンガムの声を聞いて、弱り果てた男が叫び声を上げた。「声があの人に何て似ているんだ! 誠実ではなかったが美しかった、初恋のあの人!」
暴君の妻が、夫の犠牲者のなかに初恋の男を認めて、哀悼を示す……という、珍しく女に都合のいい作品でした。結婚によってやはり囚われているとはいえ。
「アッシャー家の崩壊」エドガー・アラン・ポー
邦訳では割愛。付録として巻末に日夏耿之介訳あり。
「ティローンのある一族の歴史の一章」シェリダン・レ・ファニュ/下楠昌哉訳(A Chapter in the History of a Tyrone Family,Sheridan Le Fanu,1839)★★★☆☆
――私の前に現れた女は、自分こそがロード・グレンフォーレンの妻だと言い張りました。夫に問いただしたところ、あれは気が狂った女なのであり、もう二度とこのことは聞くなと仰いました。
田舎の司祭パーセルが集めた地元の怪談集という設定のシリーズより。レ・ファニュの作品はどれも正統派ゴシックともいうべき雰囲気に満ちています。
「ラパチーニの娘」ナサニエル・ホーソーン
本訳書では割愛。
「セリーナ・セディリア」ブレット・ハート/下楠昌哉訳(Selina Sedilia,Bret Harte,1865)★★★★☆
――エドガルドとセリーナは結婚の約束を交わした。自分に夫がいること、嫡子と父なし子がいることなどエドガルドには言えない――セリーナは塔に閉じ込めている我が子を殺す決意をした。
ゴシック小説のパロディ。山のごとき量の隠め事や裏切りや不道徳がテンポよく発生します。早送りの映像を見ているようなおかしみが生まれていました。
「ジャン=アー・ポケラン」ジョージ・ワシントン・ケイブル
本訳書では割愛。ハンセン病が出てくるという政治的配慮によるもの。
「オララ」ロバート・ルイス・スティーヴンソン/金谷益道訳(Olalla,Robert Louis Stevenson,1885)★★★★☆
――私が療養に訪れた家には、由緒正しく美貌を受け継いでいたが近親結婚によって狂気の生じた母親と息子と娘が住んでいた。ある嵐の夜に叫び声を聞いた私は、娘のオララの姿をまだ見ていないことに気づいた……。
美貌ゆえに男を虜にする魅力を持ちながら、敬虔なキリスト教徒ゆえに男を遠ざけるが、一族の美貌と狂気ゆえに地元民たちからは悪魔呼ばわりされている――とも言い切れない、あまりに俗世間やこの世を超越した佇まいを持つ女性でした。
「グリーブ家のバーバラ」トマス・ハーディ/金谷益道訳(Barbara of the House of Grebe,Thomas Hardy,1891)★★★★★
――バーバラは美貌に惹かれてエドモンド・ウィローズの妻となった。だがエドモンドは火事で大けがと大やけどを負ってしまい、二目と見られない姿となってしまった……。
二人の男と一人の女をめぐる、不幸な結婚と嫉妬と復讐。あべこべな言い方ではあるけれど、まるで横溝正史のような、と思ってしまう道具立てで、彫像の美にさえ囚われてしまう妄執がただただ魅惑的です。
「血まみれブランシュ」マルセル・シュウォッブ/大沼由布訳(Bloody Blanche,Marcel Schwob,1892)★★★★★
――子爵の一人娘ブランシュは発育不全だったが、口は女性のもので、青白い顔を血まみれの切り傷のように横切っていた。ギョームは財産目当てにブランシュを娶った。ブランシュは理解しなかったし、できなかった。
白つながりというわけでもないけれど、口を手に変えてリチャード・マシスン「ビアンカの手」を連想させるような、無垢と美と嫌悪に彩られた文章とブランシュには、悪酔いするような酩酊を誘われました。
「黄色い壁紙」シャーロット・パーキンス・ギルマン/石塚則子訳(The Yellow Wall Paper,Charlotte Perkins Stetson,1892)★★★★★
――医者である夫によれば私は病気なのだと言う。壁紙のいやらしい黄色が我慢できない。壁の向こうに女が囚われ、こちらを覗き込んでいる。
狂気を描いた名作中の名作。
「斑の紐」アーサー・コナン・ドイル
本訳書では割愛。
「ハーストコート屋敷のハースト」E・ネズビット/石塚則子訳(Hurst of Hurstcote,E. Nesbit,1893)★★★★☆
――学生時代の友人だったハーストは黒魔術に凝っていた。ハーストの結婚を機に私たちは旧交を温めた。だがしばらくするとハースト夫人が熱を出して寝込んでしまった。医者である私の見るところでは、もう長くはない……。
シュオッブ、ギルマンと続いたモダンな作品のあとに、先祖返りしたような超常的ホラーで19世紀が幕を閉じます。ただ「黒魔術」とはいっても、魔術というよりは心霊的な書かれ方をしており、そういう意味では本篇にも近代的な萌芽が見て取れます。
「第三部 20世紀」
「蔓草の家」アンブローズ・ビアス/藤井光訳(A Vine on the House,Ambrose Bierce,1905)★★★★☆
――ハーディング夫人が実家を訪ねに行ったその二年後、ロバート・ハーディングは残りの家族とともにその地を去った……。
蔓草が揺れたことや形を成していること、夫人が出かけたことや家族が立ち去ったこと……一つ一つの事実は明らかにされますが、決定的なことが明記されることはありません。その事実をつなぎ合わせて「怪異」を感じてしまうのは、読者が想像力をふくらませただけなのかもしれません。
「ジョーダンズ・エンド」エレン・グラスゴー/石塚則子訳(Jordan's End,Ellen Glasgow,1923)★★★★☆
――夫の具合が心配だからとジョーダン夫人に呼ばれて、私はジョーダンズ・エンドを訪れた。土地の古老によれば、一族のご婦人たちはみな精神に異常をきたしているという。
ビアスに続いては、読者以前に語り手が想像力を逞しくする作品です。いったい何が起こったのか、あるいは起こらなかったのか。
「エミリーに薔薇を」ウィリアム・フォークナー
上記二篇とも本訳書からは割愛。
「アヴェロワーニュの逢引」クラーク・アシュトン・スミス/下楠昌哉訳(A Rendezvous in Averoigne,Clark Ashton Smith,1931)★★★☆☆
――魔物がいる噂される森で逢引をしていた二人は、シュール・デュ・マランボアと名乗る男たちに導かれ、城に招待される。尖ったシデの杖を執拗に気にする城主の正体は……。
ゴシックという言葉から連想されるよりもB級感の強い作者ですが、そう感じることこそ、わたしが「ゴシック」という言葉に何某かの固定観念を抱いている証なのでしょう。最後があまりにもあっけなく、退治よりも経過に重きが置かれているのがよくわかります。
「猿」イサク・ディーネセン(アイザック・ディネーセン)
本訳書では割愛。
「アシャムのド・マネリング嬢」F・M・メイヤー/大沼由布訳(Miss de Mannering of Asham,F. M. Mayer,1935)★★★☆☆
――アシャム・ホールには気の狂ったド・マネリング老嬢の幽霊が出ると聞かされていました。亡くなる前の晩には「ああ、私の赤ちゃん。一瞬でさえも生きていてくれたら」とうわごとを言っていたそうです。もちろん本物の「淑女」でいらしたあの人のことを疑う者などおりませんでしたけれど……。
フェミニズム系のゴシック譚で、怖いのではなく物悲しい幽霊、というのも、たとえ幽霊みずからは語らずとも、幽霊に語らせているようなものでしょう。
「カルデンシュタインの吸血鬼」フレデリック・カウルズ/金谷益道訳(The Vampire of Kaldenstein,Frederick Cowles,1938)★★★☆☆
――カルデンシュタイン伯爵は吸血鬼だから城には近づかない方がいい、という村人の忠告を無視して、私は好奇心から「自分の意思で」城を訪れた……。
ここまでくるとパロディかと思えるほどの、笑っちゃうくらいの吸血鬼小説。繰り返される「自分の意思で」というフレーズが怖い。
「クライティ」ユードラ・ウェルティ/藤井光訳(Clytie,Eudora Welty,1941)★★★★★
――ミス・クライティは午後のこの時間になると屋敷から出て走り回り、つけで買い物をしていた。家には姉のオクタヴィアと弟のジェラルド、全身不随の父親が暮らしていた。弟たちの顔のほかに、ずっと昔に見た顔があった。今ではそれがどんな顔だったか思い出せない。
語り手の内的な狂気を、心理的に描くのではなく、奇矯な一家の言動と、「顔」の思い出によって、幽霊屋敷でもあるかのように忌まわしく描く、不気味かつ繊細な物語。スプラッタのようでもあり幻想小説のようでもあり、なかなか懐の深い一篇でした。
「サルドニクス」レイ・ラッセル
邦訳書では割愛。
「血まみれの伯爵夫人」アレハンドラ・ピサルニク/藤井光訳(The Bloody Countess,Alejandra Pizarnik,1968)★★★☆☆
――かつて存在した「鉄の処女」と呼ばれる器具は、バートリ伯爵夫人が拷問のために購入したものだ……。
バートリ・エルジェーベトについてのエピソード。テーマごとに短くまとめられて連なるエピソードは、さながら架空の百科事典を読んでいるようで、実際のところ伝説や伝承とは、筋の通った一つの物語なのではなく、エピソードの集成なのだろうということがよくわかります。
「マルコ福音書」ホルヘ・ルイス・ボルヘス
割愛。
「愛の館の貴婦人」アンジェラ・カーター/藤井光訳(The Lady of the House of Love,Angela Carter,1979)★★★★★
――古風なガウンに身を包んだ吸血鬼たちの美しき女王はひとり、暗い館で座っていて、頭がおかしくて残虐な先祖たちの肖像画が彼女を見下ろしています。今世紀も思春期のころ、金髪で青い目の若い士官がルーマニアの高地を巡ることにしました。
吸血鬼譚とお伽噺のパロディにして、吸血鬼譚でもお伽噺でもあるという稀有な作品。笑いと幻想がどちらも味わえます。
「ヤギ少女観察記録」ジョイス・キャロル・オーツ/藤井光訳(Secret Observations on the Goat-Girl,Joyce Carol Oates,1988)★★★★★
――父さんの土地にある使われなくなったトウモロコシ小屋に、ヤギ少女が暮らしている。今、月明かりで見えるヤギ少女は恐ろしい。わたしは何度もベッドから出て、彼女を見下ろしていた。
ヤギ少女の記録に隠れて、母親と家庭について何らかの問題が存在していそうです。Goat-Girl――ヤギ少女であると同時に、生贄の少女。家畜としての女。闇に浮かぶ白い目が恐ろしい。歪んだもう一人の自分。だから成長するはずもなく。でも女にはなってゆく。姿を見せない母親の存在が翻って父親をあぶりだす――と思いたいのは、オーツ作品のパターンに病んだ穿ちすぎの妄想か。
「血の病」パトリック・マグラア
「心に触れる音楽」イサベル・アジェンテ
上記二篇は邦訳版からは割愛。
「アッシャア屋形崩るるの記」エドガア・アラン・ポオ/日夏耿之介訳(The Fall of the House of Usher,Edgar Allan Poe,1839)