『ナイトランド・クォータリー』vol.01 吸血鬼変奏曲

 休刊していた

『ナイトランド』が新装復刊しました。創刊準備号に続いての2冊目です。
 

「Night Land Gallery」清水真理
 表紙にもなっている吸血鬼人形。人形はわたしには今一つピンと来ない――というよりも、偏見に近い嫌悪を持っています。いや、だって、こんな表紙の本、人前じゃ読めないですよね。。。
 

「魔の図像学(1) エドヴァルド・ムンク《吸血鬼》(一八九五)」樋口ヒロユキ
 もともとは「愛と苦しみ」と呼ばれていたこの作品が、ムンクの「不幸な恋愛の結晶」であることが説かれています。「吸血鬼」というタイトルを先にしってしまうと、どうしても先入観のある目でしか見ることができなくなってしまいますが。
 

「塔の中の部屋」E・F・ベンスン/中野善夫訳/藤原ヨウコウ画(The Room in the Tower,E. F. Benson,1912)★★★★☆
 ――この十五年のあいだ同じような夢を見続けてきた。赤煉瓦の屋敷に、ジャック・ストーンという同級生がいるのだが、誰もが黙りこくっている。やがてストーン夫人が「ジャックがお部屋に案内しますよ」と話しかけ、私が塔の部屋に入ったところで終わる。かれらは現実の人間と同じように年を取っていった。

 無言のままの陰鬱な家族と、夢を見るたびごとに少しずつ変わってゆく家族に、エドワード・ゴーリーの絵を連想しました。コマごとに誰かがいなくなったり喪服を着ていたり、というちょっとした変化が恐ろしく、また想像力を掻き立てられるのです。そういった静かな恐怖が、突如として実体を持って襲いかかってくる緩急が見事でした。
 

「血の約束――ドラキュラ紀元一九四四」キム・ニューマン/植草昌実訳(Promiss to Keep: Anno Dracula 1944,Kim Newman,2013)★★★★☆
 ――開戦前でさえ、トランシルヴァニアは死者の国だった。少年はヴァンパイアを恐れてはいなかった。ドイツ兵やロシア兵と同じように。少年は山道を登る。もっとも敬い恐れる者からの召集があり、今夜城塞に行かねばならないのだという。ヒトラースターリンのような道化など足元にも及ばない者――ドラキュラが帰ってきたのだ。

 てっきり三部作かと思っていた『ドラキュラ紀元』の続編が2013年に刊行されていたとは。オムニバス長篇の序章に当たる作品です。
 

「闖入者」井上雅彦 ★★★★☆
 ――招待状の無いパーティーに紛れ込むことが私の趣味だった。「御覧戴いているのが、チスイコウモリモドキです。いわゆる吸血蝙蝠とは別種です……」どうやら学術系の上映会のようだ。「しかしどうして吸血鬼はヴァンパイアとして広がったのでしょうな」「ヴァンパイアが世界標準になった理由。それは――」

 ヴァンパイアという呼称をめぐる蘊蓄と、ひとひねりある展開を味わえる、ショート・ショート。
 

「かはほり検校〈一休どくろ譚〉」朝松健

「ヴァンパイア・カルト」柳下毅一郎
 現代の吸血鬼カルトが広まったのは、アン・ライス夜明けのヴァンパイア』の影響、とのこと。
 

「復讐の赤い斧」エドワード・M・アーダラック/植草昌実訳(Killer of the Dead,Edward M. Erdelac,2008)★★★★☆
 ――リボルヴァーの銃身を頭に振り下ろされ、少年は失神する。かすむ目に、母親が映る。母は振り向き様に、父の戦斧を白人男の顔に振り下ろす。だが男は立ち上がる。こいつは怪物だ。目を覚ますと、狩猟から帰ってきた祖父たちがいた。「奴らは人ではない。邪悪なものだろう。仇を討つのが先だ。弔いはそのあとでいい」

 ネイティブ・アメリカンと白人吸血鬼の戦いです。襲撃時に少しだけ吸血描写があるものの、あまり吸血鬼属性は目立たず、吸血鬼というよりは「不死者」との肉弾戦が手に汗握らせます。アメリカには「ウィアード・ウェスト」即ち「幻想と怪奇の西部もの」とでもいうべきサブジャンルがあるのだそうです。
 

「ヴァンパイアの情念、理性への叛逆――カーミラとジュヌヴィエーヴ、神話的な思考とリアリズム」岡和田晃
 

「ホイットビー漂着船事件」レイフ・マグレガー/牧原勝志訳(The Tired Captain: An Armchair Adventure,Rafe McGregor,2009)★★★★☆
 ――拘束衣を着た私を相手にするのは主治医にも重荷になっていたらしく、私は海辺の町で療養しながら、ロンドン警視庁での体験をもとに冒険物語を書くことにした。舵輪に腕を括りつけたまま死んでいた船長の記録によれば、船内に「何か」を見た日から、船員が一人また一人と姿を消した。最後に残った一人は「いたぞ! 正体を見たぞ!」と叫んで海に飛び込んだという。船が漂着した際、巨大な犬が飛び降りたという目撃情報もあった。

 著者はシャーロキアンということで、むべなるかな、冒頭の依頼人とのやり取りなどはホームズを思わせます。自分は正気だ、そうでなければ犯人は魔物である、というジレンマは、「どんなにありそうにないことでも……」という原典へのオマージュと受け取ることもできそうです。
 

「太陽なんかクソくらえ」ルーシー・A・スナイダー/中川聖訳(I Fuck Your Sunshine,Lucy A. Snyder,2014)★★★☆☆
 ――吸血鬼? ええ、もちろん知ってる。わたしは夢魔で、吸血鬼の競争相手じゃないの。だって、欲しいものが違うから。ペニスはペニスだし、血は血というわけ。男爵のことは前から知っていた。たまに首筋を吸わせてあげるのは、ごく公平なこと。

 吸血鬼の男と夢魔の女の、持ちつ持たれつという発想が面白い。いきなり爆発してしまうのも、オチのための強引な展開というよりは、スラップスティックなのでしょう。
 

「長い冬の来訪者」ウィリアム・ミークル/甲斐禎二訳(Out With The Old,William Meikle,2001)★★★★☆
 ――今日、余所者が来た。この厳しい冬も五度目だ。燃料も食料もない。ピックアップ・トラックから降りてきた男に笑いかけられて、俺は銃を下げた。「いいものを持ってきたんだ」後部座席には、山と積まれた缶詰があった。男のことは気にくわないが、おかげで町が良くなってきたのは確かだ。また冬が来る。誰もが不安がっている。男は言った「必要なものは調達してこよう」「何を見返りに求めるのか知らないが、こっちには返すものがない」

 「昔のやり方」。なるほど、結果的に出来上がったシステムは、太古の神の、生贄と保護のやり取りに近いのではないでしょうか。しかも昔話なんかの生贄だと、生贄=怪物の食料が人間である必然性はないのですが、吸血鬼である以上は「血」が見返りになるのだから、この作品は昔話をなぞりつつむしろ昔話の改良型でさえあると思います。
 

「吸血鬼小説ブックガイド」牧原勝志

「In the gathering dusk」石神茉莉

「名訳と新訳――二つの『吸血鬼ドラキュラ』」植草昌実
 平井呈一による『吸血鬼ドラキュラ』と、角川文庫の新訳ドラキュラ、読み比べ。
 

「エイミーとジーナ」セシル・カステルッチ/小椋姿子訳(Best Friends Forever,Cecil Castelluci,2011)★★★★☆
 ――いつものように二人は笑みを交わした。「本気?」エイミーがたずねる。「本気よ」ジーナが答える。初めて出会ったのは二年前。夜間高校でのことだ。エイミーは獲物を探しに来ていた。「ここの生徒?」「卒業資格を取るの。わたし、ジーナ」結局、この日からエイミーも卒業資格の取得をめざすことになる。ジーナは日光アレルギーだった。ヴァンパイアであるエイミーよりも顔色が悪いのだ。

 見るからにガーリーな、死(あるいは生)への憧憬がかいま見える、自分にはないものを補い合おうとする少女たちの友情の物語です。何気なく置かれた薔薇の花束のために身体が動かなくなり、エイミーが初めて怖さを感じる場面に、不意打ちを食らったような鮮やかな恐怖を覚えました。
 

「未邦訳・吸血鬼小説セレクション」植草昌実

「家族の肖像」スティーヴ・ラスニック・テム/牧原勝志訳(Vintage Domestic,Steve Rasnic Tem,1992)★★★★☆
 ――あなたが動けなくなったら口移しで食べさせてあげるわ、と彼女は言った。だが病状が悪くなっていくのは彼女の方だった。娘たちには鼠やゴキブリをつかまえてやった。ある日、息子がベッドから抜け出し、クローゼットの中に立っているのを見つけた。見開いたままの目には蛾がたかり、両手は強張っていた。口の中が傷だらけで咬むなくても、ジャックは口移しで妻に血を与え続けた。

 吸血鬼の最後、です。いや、厳密には最後ではなく、次の目覚めまで棺のなかで眠らずに、普通に暮らしているうちに……ということなのでしょうけれど。最後に二つ続けて、吸血鬼のなかの人間らしい感情が描かれた作品で締められていました。
 

  


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