『英国短篇小説の愉しみ』全32篇より選ばれた17篇に、新訳作品3篇が追加された文庫版。
「1」
「後に残してきた少女」ミュリエル・スパーク(The Girl I Left Behind Me,Muriel Spark,1957)
新訳。異色作家短篇集『棄ててきた女』に表題作として若島正訳、スパーク短篇集『バン、バン! はい死んだ』に「捨ててきた娘」として木村政則訳が収録されています。
「ミセス・ヴォードレーの旅行」マーティン・アームストロング(Mrs. Vaudrey's Journey,Martin Armstrong,1934)★★★☆☆
――「ヴォードレー夫人が失踪したことは知っているだろう」「聞いてみたいな。その話を作家としてどのように作りあげようか。ぼく自身の経験として語られるべきだ。庭があって、二人の悪たれ坊主が楡の木に登りはじめた……」
新訳。小説家の創造/想像だったはずの話が、徐々に迫真性を帯びてきて……という作品なのですが、語られる話自体がおよそ「ありそう」とは言い難い内容で、せっかくの人称の変化もさして効果的とは言えない結果となっていました。
「羊歯」W・F・ハーヴィー(The Fern,William Fryer Harvey,1910)
元版『英国短篇小説の愉しみ1』で既読。
「パール・ボタンはどんなふうにさらわれたか」キャサリン・マンスフィールド(How Pearl Button was Kidnapped,Katherine Mansfield,1924)★★★★★
――パール・ボタンは箱のお家の鉄の門をブランコ代わりにして遊んでいた。ふたりの女が道をやってきた。「お嬢ちゃん、あたしたちと一緒にくる? あんまりきれいなんで、あなたに見せたいものがあるのよ」
元版『2』所収。「真珠のボタン」という名を持つ少女が見た外の世界を、お伽噺の手法で描いた作品。女ふたりの赤や黄・緑の服装に始まって、少女を連れ戻しにやって来る警官たちのことも最後まで「小さな青い服の人たち」と表現し切る感性に、しみじみとした気持に打たれます。マンスフィールドのこういうところが好きなのです。
「決して」H・E・ベイツ/佐藤弓生訳(Never,Herbert Ernest Bates,1928)★★★★☆
――娘は出て行くつもりだった。午後のあいだに何回となく口にした。「出て行こう。出て行こう。もう我慢できない」。今まで実行したことはなかったけれど。「何を持って行こう。薔薇模様の青いワンピースがいいかしら」。とうとう娘は階段を降りた。列車は六時十八分発。
元版『2』所収。マンスフィールドに続いて多感な少女の繊細な心を描いた作品です。「決して」という父親の言葉に対する「いつかきっと」という娘の言葉が、けれど希望ではなく諦念のように聞こえてしまうのは、大人であるわたしが、「決して」なことの方が多いことを知ってしまっているからでしょうか。
「八人の見えない日本人」グレアム・グリーン(The Invisible Japanese Gentlemen,Graham Greene,1967)
元版『英国短篇小説の愉しみ1』で既読。
「豚の島の女王」ジェラルド・カーシュ(The Queen of the Pig Island,Gerald Kersh,1953)
元版『1』所収。北村薫アンソロジー『謎のギャラリー』やカーシュ短篇集『壜の中の手記』で既読。傑作中の傑作です。
「2」
「看板描きと水晶の魚」マージョリー・ボウエン(The Sign-Painter and the Crystal Fishes,Marjorie Bowen,1976)
元版『英国短篇小説の愉しみ1』で既読。
「ピム氏と聖なるパン」T・F・ポウイス(Mr. Pim and the Holy Crumb,Theodore Francis Powys,1929)★★★☆☆
――教会の下働きであるピム氏「タッカーさんが教えてくれたんだ。この世を創った神さまは酔っぱらいたちからキリストって名前をつけられて、その神さまは、みんなが一口ずつ噛みきるジョンソンさんとこのパンに変わっちまったんだ」
元版『2』所収。聖なる馬鹿に連なるタイプの作品。宗教とは関係なく日本の昔話にもこの手の作品はありますが、どちらも苦手です。
「羊飼いとその恋人」エリザベス・グージ/高山直之訳(A Shepherd and a Shepherdess,Elizabeth Goudge,1937)★★★☆☆
――子供達は今や自分の子供達の面倒を見、両親はこの世を去った。自由になったミス・ギレスピーは地方のホテル、友人の家、ロンドンを訪れたが、惨めな思いをしただけだった。ロンドンを離れる前に骨董屋で置物を買い、田舎で屋敷を購入した。
元版『2』所収。長い長い回り道の果てに、然るべきものが然るべき場所に治まりました。今では少なくなったお節介で善良なおっかさんも、見捨てられたもの、の一つなのかもしれません。
「聖エウダイモンとオレンジの樹」ヴァーノン・リー/中野善夫訳(St. Eudaemon and His Orange-Tree,Varnon Lee,1907)★★★☆☆
――新しい葡萄園を造ろうと地面を掘っていたときに、鍬が大きな丸い石に当たった。大理石の女神像だった。小作農たちは怯えて逃げ去った。古の邪神ヴィーナスのものだと恐れられたが、聖エウダイモンはそれを蜜蜂の巣箱の近くに立てたのである。
元版『2』所収。「イールのヴィーナス」を連想させる内容です。まつろわぬものを排除するからこそ敵となる――権力者の論理には容れぬ、博愛に満ちた原初の聖が描かれていました。
「小さな吹雪の国の冒険」F・アンスティー(The Adventure of the Snowing Globe,F. Anstey,1906)★★☆☆☆
――名付け子に贈るクリスマスプレゼントを買おうと立ち寄った玩具屋で、私はスノウドームを見つけた。気づいた時には囚われの王女を邪悪な伯父から助け出すはめになっていた。弁護士である私は法律的な瑕を突こうと考えたが、魔法使いである伯父には無益だという。
元版『2』所収。第二部の多くはファンタジー作品が占めています。大人の人間がふとしたことからお伽の世界に入り込むという、典型的なファンタジーでした。
「コティヨン」L・P・ハートリー(The Cotillon,L. P. Hartley,1931)★★★★★
――マリオンは友人のマニング夫妻から夜会に招かれていた。ハリー。あの人を傷つけるつもりじゃなかった。でもあの人は生真面目すぎたのだ。マニング氏と何曲か踊りおえた。「寒くないかい?」「そうみたいね」「寒いはずだ。窓が開いてる」マスクをつけた男たちを鏡越しに選ぶ時間がやってきた。
元版『3』所収。仮面舞踏会の余興で起こる怪異譚。断片的な情報、物憂げな主人公、開いた窓から吹き込む雪と冷気といった要素が、悲劇的で恐ろしげな雰囲気を盛り上げます。冒頭の段階で「仮面」「暑くって死んじゃう」「いまは十二月よ」「雪片の柔らかい砲撃から二人を護るのは唯一そのガラス窓だけ」というように、舞台造りの道具立ては出揃っているところに舌を巻きました。そして結びには、はっきり書かれる恐ろしさともはっきりと書かれない恐ろしさとも違う、簡にして要を得た最小限にして最大限の恐怖が、窓の外に続く白い世界のように、いつまでも尾を引きます。
「3」
「告知」ニュージェント・バーカー(The Announcement,Nugent Barker,1936)
元版『英国短篇小説の愉しみ1』で既読。図書館にあるのは本だけではなく……たぶんこの人はこれまで何度もその棚の前を素通りして来たんだろうなあ。
「写真」ナイジェル・ニール(The Photograph,Nigel Kneale,1949)★★★★☆
――「早く服を着て、レイモンド。今日は写真を撮ってもらうのよ」長いあいだベッドに寝込んだままだったレイモンドの眼窩は抉れ、足の関節はどこも痛かった。「お医者さまがずいぶん快くなったって云ったのよ」姉のグラディスもレイモンドをぎゅっと抱きしめた。
元版『3』所収。長く患って寝込んでいる人にとって、写真を撮られるということは――レイモンドがことさら病的で繊細すぎるというわけではなく、こういう弱気で不安な気持になってしまう感覚というのはよくわかります。この作品の場合、弱気というだけではく文字通りそうなってしまう(ようにも解釈できる)のですが、果たして……。
「殺人大将」チャールズ・ディケンズ(The Captain Murderer,Charles Dickens,1860)★★★☆☆
――殺人大将の人生における主たる関心事は結婚である。そして人肉に対する嗜好を若い花嫁で満たすことである。美しい花嫁は云う。「わたしの殺人大将さん、これは何のパイですの?」「肉のパイさ」「肉はどこにも見えません」「鏡のなかをご覧よ」
元版『3』所収。語り手が幼いころに聞いたお伽噺、という体裁。なるほど「青髭」と「赤頭巾」と「牛と蛙」を組み合わせれば残酷なうえに不気味な話にもなりうるのですね。
「ユグナンの妻」M・P・シール(Huguenin's Wife,M. P. Shiel,1911)★★★★☆
――久しぶりに会った我が友ユグナンの黒い髪は白さを湛え、死んで何日も経つ男のようだった。「僕に妻がいるといっても信用しないかね?」邸に入ると、ユグナンが何かを求めるように床に視線を走らせていた。紅い糸だ。部屋の前には女の肖像画がかかっていた。
アッシャー家にアリアドネが住んでいたら斯くやあらんという、愛と滅びと異教に殉じた耽美譚。アポロン信仰のような古代ローマ教にはまった挙句、ピタゴラスの転生説に基づいて「何か」に生まれ変わるという、何だか凄い内容です。
「花よりもはかなく」ロバート・エイクマン(No Stronger Than a Flower,Robert Aickman,1968)
元版『英国短篇小説の愉しみ1』で既読。これも傑作。
「河の音」ジーン・リース(The Sound of the River,Jean Rhys,1968)★★★★☆
――「こわいってどういうことだ?」「ただの気分。雨が止んだらまた好きになるかもしれない」「松が多すぎる。松はきみを閉じこめる」でも黒い松じゃない。星のない空でもない、細く薄い月でもない。河だ。「そういう気分の時でもこわくないものはあるのか?」「あなた」
新訳。「懐かしき我が家」の作家さん。言葉に出来ない漠然とした「こわさ」に怯える女と、会話する男。ほとんどが会話体で成り立っているだけに、男の返事がなく女の台詞だけになった場面にはぞっとします。文字通りの語らない怖さでした。一滴の水の音に怯え、「あそこ」で聴いていた大きくなった河の音。「あそこ」というのがランサムの部屋のことであり、水音が凶兆であるのなら、即物的に解釈すればランサムが殺人犯ということだよなあ。
「輝く草地」アンナ・カヴァン(A Bright Green Field,Anna Kavan,1958)★★★★★
――旅行をするたびに決まってある草地が私の眼の前に現れる。草地はいつも鮮やかな緑だ。薄闇のなかではまるで光るように見える。私は幻を見た。夥しい草の葉、増えつづけるそれら。草はその生命力で闇を脅かすだけでなく、抑制しようとする動きに油断なく警戒している。
元版『3』所収。ジーン・リースに続いて、「見えてしまう人」の作品です。満開の桜にも似た生きるものの過剰な生命力を、小説の技巧としてではなく実際にこうして感じ取ってしまうのだとしたら、さぞかし生きづらかっただろうと思うのは、著者の生涯を知っているから感じる穿ち過ぎた見方でしょうか。
「英国短篇小説小史」「ファンタジーとリアリティー」「短篇小説とは何か――定義をめぐって」西崎憲
元版3冊に収録されていた編者論考もすべて収録されています。〈実話〉「ヴィール夫人の幽霊」から始まり、そもそも短篇小説とは何かにまで至る内容で、普段は改まって考えないことだけに、じっくりと読みました。
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