『人間の尊厳と八〇〇メートル』深水黎一郎(創元推理文庫)★★★☆☆

 『メフィスト』に連載されていた日本語バカミスはあまり面白くなかったのですが、取って付けたようでありながら奇妙に気になるタイトルと東京創元社というブランドで、読んでみることにしました。著者略歴を読んで創元デビュー組ではないことを知りました。
 

「人間の尊厳と八〇〇メートル」(2010)★★★★☆
 ――「俺と八〇〇メートル競走しないかい」バーに入った私は先客の一人からいきなりこう話しかけられた。「どうして僕とあなたが競走しなくちゃならないんです?」「人間の尊厳のためだよ」と言って、男は不確定性原理について説明しはじめた……。

 ホームズものの一篇「赤毛連盟」が面白いのは、その意外性もさることながら、赤毛連盟というアイデア自体が秀逸だからなのは論を俟たないでしょう。この作品にしても、結末の意外性ももちろんのこと、人間の尊厳と八〇〇メートル走がどうつながるのか、という屁理屈自体に魅力がありました。亜愛一郎の登場しない亜シリーズがあればあるいはこんな作品なのかも、と思わせる奇妙なロジックです。
 

「北欧二題」(2011)★★★☆☆
 ――僕が背包《バックパック》一つ背負い、瑞典スウェーデン》の老城《ガムラ・スタン》を旅していたときのことだ。おもちゃ屋で見かけた中年男と店員が信用売買電路票《クレジットカード》をめぐって言い争っていた。居合わせた青年が一克朗《クローナ》硬貨を出し、次に紙幣を出すと、店員は噴き出し、電路票を通した。

 「老城《ガムラ・スタン》の朝」「北限の町にて」の二篇からなる日常の謎作品。「北限の町にて」では、観光客相手の博物館で観光客である語り手が閉館二十分前に追い出される謎(?)が描かれます。奇異なルビが多用されているので、てっきり語り手が中国人であるとか何かのミステリー的な意味があるのかと思いましたが、「表意文字の持つ美しさを現代日本語の中に復権させる」試みなのだそうです。

 冒頭に記されたATMの個人認証についての枕にしても、舞台が外国であるというのが二つの点(語り手が国王の顔を知らない/硬貨や紙幣に国王が描かれている)で必然であったりすることにしても、見た目のてらいとささやかな謎とは裏腹の、考え抜かれたミステリでした。
 

「特別警戒態勢」(2011)★★★★☆
 ――パパとママが話をしていた。「まさか今どき手紙による犯行予告なんてね」「そうなんだよ。だがネットの予告と違い、手紙が相手だと警察の捜査方法も昔から進歩していないらしいんだよ」「でも一方でこの犯人、ハッキングもできるのよね」「それにしても皇居の爆破とは――」

 単行本書き下ろし。夫妻による会話の情報だけを頼りにした安楽椅子探偵もの――ではないということ自体が意外性となっていました。なぜ人はそういう行動を取るのか――。テレビ局の自作自演というママの説に対して、視聴率の獲得とばれたときの危険性を秤にかけてパパが反論しますが、どちらが重いかは人それぞれなのです。
 

「完全犯罪あるいは善人の見えない牙」(2010)★★★★★
 ――完全犯罪とは未解決ファイルの中に存在するのではない。警察や周囲は元より、時には殺された本人さえ殺されたと思っていないものを指す。最善の方法は病死に見せかけることだろう。死亡診断書を書く医者さえ騙せれば良いのだから。それから、都会での犯行は避けるべきである。また、殺すのは一人にとどめておくことだ。

 完全犯罪の手記というものの存在自体が矛盾しているわけで、どうしてこのような手記が存在しているのか……というところからあっと言う間に引き込まれます。意外な結末ももちろん鮮やかですが、さらには犯行の動機も発覚もすべて同じ根から出ているところが見事というほかありません。
 

「蜜月旅行 LUNE DE MIEL」(2008)★★★☆☆
 ――バックパッカーだった学生時代から十数年ぶりに、泰輔はパリを訪れた。理沙との新婚旅行だ。若いころの経験をもとに、ツアー客は知らないパリの楽しみ方をレクチャーする泰輔だったが、理沙はどうもとっつきが悪い。

 非ミステリもの。道徳的にまっとうな人間は一人も登場しませんが、それゆえに丸く収まっています。バックパックに対しても結婚に対しても泰輔一人が幻想を持っていたというだけのことなので、取り立てて意外性はありません。

  


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