『胸の火は消えず』メイ・シンクレア/南條竹則編訳(創元推理文庫)★★★☆☆

 この人の怪談には現世欲(主に色欲)の強い幽霊が出てきてばかりで、怖いというより滑稽な印象が強く、あまり好きではない作家なのですが、以前アンソロジーで読んだ「水晶の瑕」だけは傑作だったのでほかの作品も読んでみることに。以前つまらないと感じた「仲介者」は傑作だと感を改めましたが、「希望荘」はやはり笑い話にしか感じられませんでした。
 

『不気味な物語』(Uncany Stories,May Sinclair,1923)

「胸の火は消えず」南條竹則・岩崎豊子訳(Where Their Fire Is Not Quenched,1922)★★★★☆
 ――三か月経ってもジョージは戻って来なかった。船が沈んだのだ。五年後、スティーヴンから、シビルと婚約したことを聞かされた。十年後、ハリオットはオスカー・ウェイドと不倫をしていた。彼がいない時に彼のことを考えるのは好きだったが、いつも一目見たとたんに不快感をおぼえた。

 地獄の永遠の業火に焼かれる罪と罰……どこまでもつきまとう逃れられない運命には終わらない恐怖と生理的な嫌悪を感じますが、冷静に考えると笑ってしまいます。そこまで嫌なのか、と。感情移入すると恐ろしいものの、一歩下がって傍から見ると何とも言い難い――この当事者感覚こそが恋愛や性愛の核でもあり、シンクレアの作風でもあるのだと思います。
 

「形見の品」(The Token,1923)★★☆☆☆
 ――兄はジョージ・メレディスからもらった文鎮を誰にも触らせませんでしたから、わが家では皮肉をこめて「形見の品」と呼んでいました。兄の妻シセリーは可愛くて何の落ち度もなかったのに、兄は片意地を張って感情を押し隠そうとするのでした。文鎮がらみの喧嘩のあと、彼女は死んだのです。

 男「言わなくてもわかるだろ」女「どうして愛してるって言ってくれないの」。今もよくあるこうしたやり取りそのまんま、の話です。今となってはそれこそそのまんま過ぎて、怪談にする意味もあるのかと訝ってしまいますが、当時はまだ、女の側からのこうした思いを、死者を通してでしか語らざるを得ない時代状況だった――のでしょうか。
 

「水晶の瑕」(The Flaw in the Crystal,1912)★★★★★
 ――金曜日だった。彼がいつも来る日。来るか来ないかは彼の自由にまかせている。本当の問題はただ一つ、彼の妻ベラなのだ。アガサの家は、今ではロドニーの安息の場になっていた。予告をしなくてもアガサはいつも用意していた。彼女は自分を除けておいた。来てほしいという欲望を捨て、自分が望めば彼を来させられるという考えを捨てなくてはならなかった。なぜといって、もしそれにのめり込んでしまったら……。だがそんな事はなかった。自分には、説明のつかぬ能力があるのを発見したのだ。いつでも彼を来させられることを。

 再読。『地獄 英国怪談中篇傑作集』で読んだときの感想を再掲しておきます。

 不思議な能力を持つ主人公の、不倫の葛藤が丁寧に描かれているかと思いきや、突如として至高力と制御不能の魂によるオカルトホラーの様相を呈し始め、最後には人間のエゴがさらけ出されます。それを受けて立つ主人公の凛とした姿勢が胸を打ちます。
 

「証拠の性質」(The Nature of the Evidence,1923)★★★☆☆
 ――マーストンとロザモンドは愛し合っていた。その話をしたのは新婚旅行のときだったらしい。もしわたしが死んだら、再婚するにしても、それなりの女とするのよ。不釣り合いな女と結婚したら、そんなのには耐えられないわ……。やがてマーストンが再婚の初夜に臨むと、ベッドに前妻の幽霊が現れ邪魔をする。

 アンソロジー『淑やかな悪夢』で既読でした。ド直球のセックス怪談ですが、改めて読むとこれは結果として滑稽なのではなく、初めから艶笑怪談のようなものを目指していたのだろうな、というのがわかります。南條氏の訳文もそうした調子に合わせた軽いものになっています。
 

「死者が知っていたら」(If the Dead Knew,1923)★★★★☆
 ――ホリヤーは体が弱く、甘やかされて育ったため、オルガンを奏くよりほか能がない人間になってしまった。エフィーと結婚したくとも、母親だけを頼りにしているホリヤーには適わないことだった。それなのに、母親が病気になったとき、死ぬのを当てにしているようなことを言ってしまった。

 「考え」によって病人を回復させることができると称する看護婦が出て来たときには俄然オカルトめきましたが、自己嫌悪によって死者の幻を見てしまう、というのは紛れもない王道の怪談小説でした。
 

「被害者」(The Victim,1922)★★☆☆☆
 ――ドーシーと俺の仲を割くような奴はぶっ殺してやる。グレイトヘッド氏と話し合ったドーシーが婚約を解消し立ち去ったのを知ったスティーヴンは、雇い主のグレイトヘッド氏の首を絞め、犯罪が露見しないよう入念に後始末をした。

 恨んで出る幽霊という固定観念を覆す意外性とおかしみを狙ったものなのでしょうが、幽霊の言い分があまりにもお粗末過ぎて、ひたすらシラケるしかありませんでした。
 

「絶対者の発見」(The Finding of the Absolute,1923)★★☆☆☆
 ――スポールディング氏は形而上の研究に打ち込んで妻をないがしろにしたせいで、イマジスト詩人ポールに妻を取られてしまった。妻も失い、真理も失った。やがて年老いて死んだスポールディング氏は、あの世で二人に出会う。地獄だな、と思った。

 これまで呆れるほどに生臭さにこだわってきた著者が、どうしたことか観念的な題材に挑戦しています。真理や芸術といった美こそ至上という、ある意味涜神的な内容です。T・S・エリオットに寄稿を求められて本篇を書いた結果ボツになったそうですが、そりゃ依頼する方は著者のこれまでの作風を求めていただろうに、ついキバっちゃったんでしょうか。
 

『仲介者その他の物語』(The Intercessor and Other Stories,May Sinclair,1931)

「マハトマの物語」(The Mahatoma's Story,1923)★★★☆☆
 ――リーヴがヴァーリーの妻と行方をくらまし、リーヴの妻であるあの貞淑なミュリエルがヴァーリーと暮らし始めるとは、想像もできなかった。ラマ・ダスを信じなければ。

 幽霊は信じないけれど東洋の魔術は信じる、といった世界観での枠物語。他人を羨んだところで所詮は自分次第という哀しさ……のようでいて、記憶は塗り替えても才能を交換したわけではないのだから、よく考えるとこの結果は当たり前のような気もします。
 

「ジョーンズのカルマ」(Jones's Karma,1923)★★★☆☆
 ――ジョーンズはカーストがずっと低いポールと友人だったが、ある時友人の貴公子から、つきあいをやめた方がいいと助言され、ポールと縁を切った。そのことを悔いたジョーンズは、死に際して、生まれ変わって別の選択をしたいと願った。

 マハトマもの。仏教徒だったのか! 「人は自由であり、かつ束縛されている」といった非二元論=反西洋的な内容です。
 

「天国」(Heaven,1922)

 邦訳版には未収録。創元推理文庫『怪談の悦び』所収。
 

「仲介者」(The Intercessor,1911)★★★★★
 ――ほかの下宿人も子供もいないことを確認して、ガーヴィンはファルショー夫妻の宿を取ったはずだった。だが夜中に子供の鳴き声がする。使用人のオニーが産み落としたのを隠していたのだろうと思われたが、夜中に子供が寝床に潜り込んできてガーヴィンは悟った。夫妻が隠していたのは、この子供の幽霊だったのだ。

 再読。アンソロジー『鼻のある男』で読んだときには著者得意のセックス怪談に食傷して「またか……」と思ったものでしたが、読み返したら傑作でした。古式ゆかしい幽霊屋敷ものから一転、妻を単なる母親と見なしたい夫と、いつまでも女でいたい妻という、えらく現代的な問題が生んだ悲劇が明らかになります。ここでいう「仲介者」とは霊の見えない人に幽霊の存在を伝えるための霊感体質を持った人のことで、ガーヴィンを通して子どもの幽霊が母親に近づいてゆくシーンには、感動的というよりは、見てはいけないモノが見えてしまうおぞましさを感じて寒気がしました。
 

「希望荘」(Villa Désirée,1921)★★☆☆☆
 ――婚約者のルイ・カルソンはあとから来ることになっていた。ミルドレッドは希望荘で一夜を過ごした。一番良い部屋だからといって、前の「マダム」が死んだ部屋をあてがわれたことに嫌な予感を感じながら……。

 平井呈一訳を『恐怖の愉しみ』で読みました。今回南條訳で読み返してみましたが、やはり「我慢しきれず初夜の床に来ちゃいました」という艶笑譚にしか思えず、強いて言うなら「怖い」というより「気持ち悪い」でしょうか……。

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