『殺人者と恐喝者』カーター・ディクスン/高沢治訳(創元推理文庫)★★★★☆

 『Seeing is Believing』Carter Dickson,1941年。

 原書房森英俊訳以来の再読。

 再読なので不可能犯罪のメイントリックをすでに知っているというのがあるにしても、それがなくても「それが事実として認められた」という不自然な文章からは、さすがにある程度の構図が見えてしまいます。

 今回読み返してみると、H・M卿の自叙伝は記憶ほどには面白くありませんでした。派手に滑ってすっ転んでくれるドタバタは最高です。「妖魔の森の家」のバナナの皮や『貴婦人として死す』の車椅子に匹敵する面白さです。

 トリックはずっこけですが、ストーリーはさすがに引き込まれる力に満ちています。

 催眠術の余興にて、偽のナイフと本物の拳銃――と被験者には思わせておいて、実はどちらも偽物という状況のなか、催眠術をかけた妻に愛する夫を殺せと命じたとしたら、偽のナイフでなら襲えるけれど本物だと信じている拳銃は撃てないはず。誰からもおしどり夫婦だと思われているフェイン夫妻に対してだからこそできる余興のはずでしたが――。術者のリッチ博士は知りませんでした。夫のアーサーが愛人ポリー・アレンを殺したと、妻のヴィッキーが胸に秘めていることを。

 斯くして夫婦の亀裂が晒されるのか、それだけでもサスペンス充分なのですが、偽物のはずのナイフで刺されたアーサーが本当に死んでしまうにいたり、不可能興味が持ち上がります。ナイフを本物とすり替えたのは誰なのか――。誰もナイフには近づいていなかったし、ドアからも窓からも他人が侵入することは不可能でした。

 さらには、本当に催眠術にかかっているのか疑った人物がピンを刺そうとするのですが、そのことがのちの展開に生きてくるなど、本当によくできています。

 再読してみて評価が上がりましたが、初めて読んでこのトリックとおかしな叙述は、やっぱりずっこけるだろうなあ、と思います。

 解説は麻耶雄嵩氏。フーダニットとしてのカー作品を評価しています。

 余の出生は一八七一年二月六日、サセックス州――ヘンリ・メリヴェール卿の口述が始まった。心打たれる瞬間である。しかしその折も折、変事が突発した近傍のフェイン邸へ出馬を要請する電話が入った。家の主人が刺されて亡くなり、手を下した人間は判っているが状況は不可能を極めているという斗柄もない事件である。秘書を従え捜査の合間も口述を進めるH・Mの推理は如何に。(カバーあらすじより)

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