『愛の渇き』アンナ・カヴァン/大谷真理子訳(文遊社)★★★★★

 『A Scarcity of Love』Anna Kavan,1956年。

 王族の血を引く両親のもとに生まれ、女王《リジャイナ》と名づけられた少女は、抑圧的な環境で育ったために、普通なら愛の対象に向けられる感情が自分の肉体に向けられた。自分だけの宝物である肉体を蹂躙した夫に触れられるくらいなら、死んだほうがましだった。お産のために城に呼ばれた青年医師は戸惑っていた。「子供はずっとほかの土地に住まわせたほうがいい」。拒絶された夫は自殺し、青年医師は赤ん坊を預かってくれる母親代わりを探しはじめた。恋愛に疲れ、死産を喜んでいたモナが、赤ん坊の世話を頼まれるとは、何という運命の皮肉だろう……。青年医師は結婚するまではリジャイナには手を出さないと決めていた。それを拒絶と捉えたリジャイナは、赤ん坊のガーダを取り戻して立ち去った。

 十五歳になったガーダはリジャイナと義父と義兄ジェフの三人に無視されていた。やがてガーダはヴァルという青年と恋に落ちた。リジャイナは二人の結婚を許した。これでガーダを追い払える。父も死にガーダも去り、ジェフはリジャイナを独り占めしたつもりだった。けれどリジャイナの魔力には抗えなかった……。

 順調だったのはガーダが結核にかかるまでだった。ヴァルは肺病にかかった妻を疎んじ遠ざけた……。

 リジャイナは七十歳になっても女王然とした威厳を失わなかった。半分も年下の夫を完璧に支配していた。だがそれにも翳りが見えはじめた……。

 自分だけを愛したリジャイナという女王と、それに翻弄される人々を描いた長篇作品。

 物語は異様な雰囲気で幕を開けます。第一章「なにかの始まり」で、お産に呼ばれた青年医師は、妻が夫を罵倒するただならぬ現場に居合わせます。挙句には、やけにものわかりのいい(?)夫からの「さようなら」の言伝。そして銃声。鮮やか――ですが、わけがわからない……そのまま物語は第二章に移ります。

 第二章「望まれぬままに」には、ガーダと名づけられた赤ん坊を引き取ることになる、モナという女性が登場します。恋人にふられ、お腹の赤ん坊に死なれ、睡眠薬を飲んだあとで、出会ったのが青年医師でした。この章でとりわけ印象に残るのは、やはり何といっても、孤独や喪失感、果てはそんなものとも無縁の冷たさを描くときの、カヴァンの筆の冴えでしょう。

 第三章「なにかが足りない」では、リジャイナを手に入れたと思った青年医師の純愛と、青年を熱病にかけてしまうリジャイナの女王ぶりが明らかになります。リジャイナに去られた青年は、罪滅ぼしに赤ん坊を引き取ろうとモナのもとに向かうのですが、赤ん坊はすでにリジャイナに連れ去られたあとでした。ここで青年が懲りない――というか、まだまだ青くてリジャイナには太刀打ちできないのも当然だなァ――と思ってしまうのは、その場でモナといい感じになってしまうからです。二人とも心弱りすぎでしょう、と思う反面、翻ってリジャイナの強さに畏怖するのです。そうは言ってもこれまでの章と同様に結びのシーンの鮮やかなこと。モナと青年が思いを伝え合おうとするのを引き裂くように、走り出す汽車。ベタですけれど、そこからさらに、汽車が地下に潜って闇に呑まれるシーンは圧巻でした。

 第四章でガーダは十五歳になっています。当然のように、家族の誰からも愛情など与えられていません。ガーダの入院先の看護婦ジーンは、そんなガーダに愛情を向けた初めての人間でしたが、そのジーンが浮世離れしたガーダを形容する「月光のような」という言葉が、この章のタイトル「月光」の由来となっています。「月の少女と約束したことを守るのはばかげている」。いい表現です。

 第五章「なにかもっと」。ガーダも、義兄のジェフも、リジャイナも、何かを変えようと、あるいは先へ進もうとしています。もしかしたら初めてとなったかもしれないリジャイナの挫折は、けれど魔女の魔力のほうが上手《うわて》でした。

 第六章「なにかの終り」で描かれるのは、ひたすら悲惨なガーダの後半生です。この章が本書のなかで一番長大だというのだから意地が悪い。女王のような超然たる母親から疎まれた娘が、成人して夫から疎まれるのが肺病という即物的な理由というのが、やるせない。「召使いは(中略)ばかげた間違いを犯していた――来客用の部屋にガーダの服を吊るし、身の回り品をすべてきちんと並べておいたのだ。」――何気ないけれど決定的な一文が残酷です。

 帯に引用されている「さあ、もうじき家に帰る。まもなく光り輝く非現実的な夢の世界の真っ只中に行くのだ。無数の大きな星が不思議な光を放ち、すぐ近くで迎えてくれている。ダイヤモンドのきらめきで作られた星はあまりにも美しく輝いている」。これは第六章の最後を飾る文章ですが、実はガーダが入水する場面なのです。これほど美しい自殺シーンなどほかにないでしょう。

 第七章「楽園《パラダイス》」で、女王の王国は終焉を迎えます。七十の坂も近づき、女王というよりも魔女の風格漂っていますが、さすがに子どもに激怒する姿は魔女というよりも近所の気違いお婆さんという感じで、すべてが終わったんだなあと感慨深いものがありました。

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