『ディーセント・ワーク・ガーディアン』沢村凜(双葉文庫)★★★★★

 労働基準監督官を主人公にした連作短篇集。

「第一話 転落の背景」★★★★☆
 ――犬塚志朗という男が死んだ。解体作業中の建築足場の三階部分から転落したのだ。転落場所から離れたところに保護帽《ヘルメット》が転がっていた。犬塚の不注意が招いた事故のようだが、三村には気になることがあった。証言が食い違うのはよくあることだ。だが現場にいた三人が語る、犬塚転落時の様子だけは見事に同じなのだ。

 ミステリの形を取った、働くこと生きることの意義を問いかける小説です。実際、人が死んだあとで責任を追及したって何の意味があるのかという問いは、まさしく探偵という存在への問いそのものと同じではないでしょうか。劣悪な環境で、自分なりの(身勝手な)正義を振りかざしながら、それでも本人は懸命に生きているのだから、やりきれません。ちょっと視野を広げれば、もっと適切な行動ができるはずなのに……。「立場上、意地でも長時間労働をするわけにはいかない」という三村の軽口に、ふっと心を洗われます。
 

「第二話 妻からの電話」★★★★★
 ――過重労働が心配だという電話がかかってきた。「顔色も悪いし、過労死するんじゃないかと思います。十二時とか一時とかまで働いてます。主人は児島修。黒鹿PSという会社に勤めています」途中で切らずに姓名の表記まで述べる相談者は珍しい。三村はこの会社に三週間前に臨検監督に赴いていた。そのときに違反は見つからなかった。相談者が誤解しているのか、三村に見落としがあったのか。

 労働基準監督官という職業が「一般に知られていないのが悩みのタネだ」という枕に始まる第二話は、それを逆手に取られた(ようでいてやっぱりちゃんと知られていなかった)悪意が鮮やかな作品でした。児島が退社後に取る一つの事実から二つの意味が読み取れるところも非常にミステリ的ですが、法では裁けない「洗脳」による問題点が扱われているところや、どれだけ安全対策に注意を払っていても「社員のため」「顧客のため」を言い訳にしてしまう危うさなど、労働問題の闇の深さがつらかったです。
 

「第三話 友の頼み事」★★★★★
 ――コンビニ強盗の容疑者・寅田星希にはアリバイがあった。IDカードには出退勤の記録が残っており、途中で抜け出た従業員もいなかったと守衛も証言していた。「三村、頼む。工場に臨検監督に行って、寅田が出入りしたルートを突き止めてくれ」。それが友人である警部補・清田の頼みだった。権利の濫用はできないと一度は断った三村だったが、寅田の派遣元が以前からよくない噂のある派遣会社であることを知り、今回だけは監督に行くことに決めた。

 のっけから「アリバイ」や「密室の謎」という言葉が飛び交いますが、もちろん焦点は「HOW」ではなく「WHY」にあります。保身しか考えない人間や企業と、自分の利益しか考えない人間の思惑が交差した結果、転がる雪玉のようにどんどん事件と罪の規模が大きくなってゆく愚かしさには救われませんが、「より安全な職場になることだろう」という希望が救いです。
 

「第四話 部下の迷い」★★★★☆
 ――商店街にある〈味芳〉という総菜屋では、最低賃金より低い給料しか払っていないという匿名の電話があった。訪問して賃金台帳を調べ、違反があれば是正勧告書を交付すればいいだけだ。それなのに、加茂のやつは何を悩んでいるんだ……。「三村主任は思ったことがありませんか。法律って冷たいと」「え?」いまさらそんな疑問を抱いてどうするんだ……。

 法律と人情は両立できるか。この難問に三村が出した答えは教科書的なものでしかありませんが、今回の事件では「人情」の方に不正があったため、小説的にすっきりした形で終わることができました。「もしかしたら、根元的な疑問につまずくことは、ひとつの才能なのかもしれない。」「多くの人が初めから意識にのぼらせないようにする問題と、きっちり向き合った人間は、良きプロフェッショナルになるのかもしれない。そこを乗り越えさえすれば。」という言葉が胸に染みます。
 

「第五話 フェールセーフの穴」★★★★☆
 ――「ライトカーテンってのはあてになるのか? 工場ではロボットを檻に入れて仕事をさせてるんだな」清田からの電話はあいかわらず脈絡がない。多関節型ロボットのマニプレータの下で従業員が絞め殺されていた。現場には被害者を含めて五人の人間しかいなかった。簡単な事件のはずだったのだ。だが被害者が柵のなかにいるというのに、安全装置は作動せず、ロボットは一度も停止していないし、犯人の出入りも確認されていない。

 第三話以上にはっきりとした不可能事件であり、抜け穴の存在もトリッキーですが、何より「そんなこと」をする理由に虚を衝かれます。安全対策を施す機械の製造者にも、現場の監督にも、労働基準監督署にも、警察にも、さすがにそういう発想は持てません。しかしそんな「予想外」から、さらなる安全が作られてゆくのでしょう。
 

「第六話 明日への光景」★★★★★
 ――その十日間のことを、三村全は終生忘れないだろう。二ヵ月半ぶりに妻が自宅に泊まっていくことになった。「あのね。私、妊娠したの――だから、別れてくれない?」頭の中がフリーズしていた。だが仕事のおかげで災厄の第一陣による悩みを忘れていられた。そんな三村を、第二陣が襲ったのだ。署長と次長から局長室に呼ばれた。「三村主任。あなたは罷免に値するようなことをした覚えがありますか?」

 本書最長にして最終話では、プライベートと仕事上で二つの危機が三村を襲います。そして仕事上の危機によって、これまで頭ではわかっていても他人事だった「組織のため」という発想を、身を以て体験することになります。三村に感情移入している読者にもその選択は痛いほどよくわかるのですが、当然それは落とし穴です。そういう選択をすること自体が、三村自身の職業を否定することにほかならないのですから。公私にわたりあまりにもひどい目に遭った三村ですが、監督官としてひとまわり大きくなったのは間違いなく、願わくば未来に希望があらんことを祈ります。

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