『ナイトランド・クォータリー』vol.12【不可知の領域――コスミック・ホラー】

「Night Land Gallery マンタム 未知なるものへの畏れ」

「魔の図像学(12)オディロン・ルドン樋口ヒロユキ
 「起源」や「キュクロプス」で有名な画家の作風の変遷。
 

諸星大二郎インタビュー 神話の下に潜むもの」牧原勝志

「藤原ヨウコウ・ブンガク幻視録(4) 中山忠直「地球を弔ふ」より」
 ――どれだけの時が/過ぎたかしら――?//長いあひだ/獨りぽつちで/冷たい墓の下に/眠つてゐて/すつかり/退屈になつた時/……/見渡す限りの砂漠/地球が骸骨になつて/ころがつて居るのだ//嗚呼あの太陽の/喘ぎ疲れた赤銅色!/……/どれだけの時が/過ぎたかしら――?/……

 SF詩の先駆者とされる著者の詩より。藤原ヨウコウの画には終末が美しく描かれています。
 

 ラヴクラフトに興味のなかったわたしは、恥ずかしながら「コスミック・ホラー」というと、てっきり宇宙から訪れた邪神が登場するホラーというようなことだと思っていたのですが、どうやら地上のことわりでは計り知れない恐怖という意味のようです。
 

「来たのは誰?」キム・ニューマン/小椋姿子訳(Is There Anybody there?,Kim Newman,2000)★★★★★
 ――「来たのは誰ですか?」霊媒のアイリーンは霊能指示器に尋ねた。「YES」か「NO」ではなく「Y」に動いた。「伝えたいことが? 誰に?」「U」。YOU(あなたに)。異例のことだった。/彼のチャット・ルームには二人がアクセスしている。アイリーンD:誰に? ほぼ本名だろう。彼は検索をかけたがアイリーンたちの情報は見つからない。

 降霊会とインターネットが時を超えてアクセスするというアイデアがアイデア倒れにならずに、降霊術師VSパソコンオタクの駆け引きから、悪魔祓いのスタイルで締める流れが天才的です。『INTERNET STORIES』というアンソロジーに書き下ろされたにもかかわらず、飽くまでネットではなくエクソシストのストーリーとして描かれているのが面白い。
 

「音符の間の空白」ピート・ローリック/甲斐呈二訳(The Space Between,Peat Rawlik,2016)★★★★★
 ――病気治療のため引退したポップ・カルチャーのディーバであるベラ・デ・ホンドが、ミスカトニック大学図書館に資料調査のため訪れた。図書館助手のぼくが調査を手伝うことになった。ベラの曾々祖父のアンブローズ・デ・ホンドは病気で引退してからは作曲をはじめた。悪名高い『休符のための鎮魂曲』は前衛的な音楽家たちに独自の編曲をされてきた。今回の調査によって、アンブローズの曲が息子によって改竄されていたことがわかった。

 一応のところはクトゥルー雑誌に発表されたクトゥルー作家によるクトゥルーものではあるようですが、三次元は四次元の影という発想をもとに、異能の天才音楽家による異次元の音楽が隠されていたという物語は、クトゥルーの枠を越えて一幻想小説として面白いものでした。痙攣性の遺伝病を持つ音楽家が残した譜面をめぐる謎解きとしての面白さもありました。雰囲気がクトゥルークトゥルーしてないのもよいです。
 

「STORANGE STORIES――奇妙な味の古典を求めて(9) ポウイス兄弟の軽妙と重厚」安田均
 

「融合」リチャード・ギャヴィン/中川聖訳(Annexation,Richard Gavin,2012)★★★☆☆
 ――入院中の夫を残し、メアリーは行方知れずになった息子のデイモンを探しに来た。手がかりはカルロス・ガルサ。だがいかがわしい伝道師のガルサのもとには既に息子はいなかった。リビエラ・マヤにある小島にいるという。ガルサは旗に描かれた蛇とキマイラを指さした。これはケツァルコアトルとテスカトリポカ。人をあざむくトリックスターだ。デイモンも遙かなる無意味に引き込まれたのだろう。

 かなり省略の多い文章なので細かいところは想像(やマヤに関する知識?)で補うしかありません。おぞましいし恐ろしいのは確かなのですが、最後に現れる神聖な融合体の姿は、例えばゲゲゲの鬼太郎の敵のような子供っぽさや滑稽さも併せ持って感じられました。鬼太郎の妖怪しかり土俗的な異界は、洗練されていない手作りな感じが独特です。
 

「地の底の影」サイモン・ストランザス/小椋姿子訳(Beneath the Surface,Simon Strantzas,2008)★★★★☆
 ――フィリップが診療所までの通勤に地下鉄に乗っていると、ホームレスの男が走りながら叫んでいた。診療所では同僚のアランが新しい患者に手を焼いていた。「まるで意味をなさない。ただ何かを警告しようとしているのはわかる」。フィリップはアパートに帰り横になった。夢に見た地下鉄には乗客が一人もなく、窓越しに黒い影が泥のように動いている。

 ナイトランドには四度目の登場の、「二十一世紀のロバート・エイクマン」。これは容赦ないですね。同僚は患者に引き込まれ、ホームレスや患者は異様な行動を取り、そんななか自分自身も不安に絡め取られてゆく逃げ場のなさ。それどころかもっとも危険な位置にいたのが自分自身だったとは……。
 

「北アメリカの湖棲怪物」ネイサン・バリングルード/植草昌実訳(North American Lake Monsters,Nathan Ballingrud,2008)★★★★☆
 ――六年間刑務所で過ごし出所して三日後、グレイディは十三歳になった娘のサラと、湖畔に打ち上げられた奇妙な生物の死骸を見に行った。動かそうとすると粘液が手を覆った。気づくとグレイディは吐いていた。キャビンに戻ると妻のティナと言い争いをした。「六年もあれば変わるかと思ってたのに」「変わったさ。もっと俺らしくなったんだ」

 おそらく作中で超常的な出来事など起きてはなく、自分を見失いかけた男が娘や妻との距離感や自我と折り合いをつけようとして藻掻いているのでしょう。それでも最後の描写には、ラヴクラフト「宇宙からの色(異世界の色彩)」を空目してしまいます。
 

幻想文学批評と「宇宙的恐怖」――自らの姿を繁栄する言語」岡和田晃

「屍蛆の家」ミール・プラウト/牧原勝志訳(The House of the Worm,Maerle Prout,1933)★★★★☆
 ――フレッドと私はサクラメントの森に栗鼠狩りに行ったが、地元の老人から「狩りはできない。森は死んでしまった」と言われた。それでも私たちは歩き続け、森で夜を過ごしたが、死と腐敗の臭いに気づいてフレッドの腕をつかむと、死んで腐敗しているかのように指が肉がくいこんだ。「火は清浄だ」私は消えかけた焚き火を大きく燃やした。

 「死」という実態に触れ得ないものが伝染し広がってゆく様にこそ計り知れない恐怖と絶望を感じますが、その一端を蛆虫で描写してしまうところに限りないB級感があり、科学でも怪異でもないものの説明として宗教や信仰を出してしまうところに限界を感じました。
 

「ブックガイド 〈コスミック・ホラー〉の連鎖」牧原勝志

「〈マインツ詩篇〉号の航海」ジャン・レイ/植草昌実訳(Le Psautier de Mayence,Jean Ray,1930)★★★☆☆
 ――

 英語からの重訳。特集の一篇とはいえコスミック・ホラーというよりは海洋怪談というに相応しく、教師の正体こそ何であるのか不明なものの、閉ざされた空間でモンスターに襲われる古典的な作品でした。この作品の瑕ではありませんが、特に「屍蛆の家」等と続けて読んだせいで、〈異次元の世界〉で〈未知のもの〉に襲われるという、カッコのなかを入れ換えると似たような作品に感じられてしまいました。燃え立つ海の描写など、この作品ならではの優れた場面があるだけに、非常にもったいない配列だと思います。
 

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