『シフォン・リボン・シフォン』近藤史恵(朝日文庫)★★★★☆

「第一話」★★★★☆
 ――帰り道にあった書店が閉店し、ランジェリーショップになっていた。佐菜子の母親は背骨を折ってからリハビリを怠けていたため、寝たきりになってしまった。駅前の書店まで寄り道している時間はない。胸の大きさにコンプレックスのある佐菜子には、ランジェリーショップなど用はなかった。

 胸にコンプレックスを抱えた女性が、自分にぴったりの下着に出会って生まれ変わる……なんてお気楽な話ではありませんでした。何しろ家族が重い。あらすじにある通り母親は本人のせいで寝たきりなのを他人のせいにするような最低の人間ですし、父親も親戚の結婚式の場でおおっぴらに娘を馬鹿にするような人間です。それもこれも、胸にコンプレックスを抱かせて娘をコントロールして支配するためだったと、最後には明らかになります。あまりにも根が深い。いくら佐菜子が気持を新たにしようとも、それまでの人生が重すぎて、読んでいるわたしは明るい気持にはなれませんでした。でもだからこそ、読み捨てにはできません。
 

「第二話」★★★☆☆
 ――息子の篤紀に米穀店を継ぐ気を見せないのが、均には腹立たしかった。二十九歳にもなって、彼女の一人も連れてこない。新しくできたランジェリーショップには、何万もする下着が売られていて、こんな田舎でやっていけるのか、と思ってしまう。ところがそのショップに篤紀が独身の年上店長目当てで出入りしているという噂が立った。

 第一話の母親に続いて、この話に出てくる父親の均も対人能力に問題を抱えています。二十九歳になって同居している息子を「みっともない」と考え、年上の女性とつきあうことを「恥ずかしい」と見なす。ひとりよがりで、自分と違う考え方は問答無用で否定するタイプの人間です。けれどそんな人間の視点だからこそ、目の覚めるような鋭い批評があったのも確かです。ランジェリーショップの下着を見て、「強烈な女の自意識のようなものを押しつけられた気分」というのは、偏見以外の何ものでもないのですが、誰のためでもなく自分のためというのは極論すればつまりはそういうことで、言い得て妙だと深く印象に残った言葉でした。結局のところ均は最後まで変わりません。息子のことが何もわかっていなかったことを知っても、「自分は古く、頭の固い人間で、そのことを恥ずかしいとは思わない。頑固オヤジは頑固オヤジとして死んでいくしかない。変わることが難しいことは、自分がいちばんよく知っている」と決心するのです。これはこれで、筋の通った生き方だと思います。
 

「第三話」★★★★☆
 ――なぜ、下着屋をはじめたのか。最初にその質問をかなえに投げかけたのは母だった。「好きだからに決まってるじゃない」。母はなにかといえば「うちは教員一家だから」という言葉を口にした。中学生のころには、隠しておいた下着の絵を勝手に広げられ、「こんなバカなものを描いてないで勉強しなさい」と母の字で書かれた。いつのまにか母を責めるのはやめた。不信感に変わった。

 三話目の主人公はランジェリーショップの店長です。母親との確執と、乳癌の摘出について語られます。この母親はこれまでの二作の母父にも増して強烈でした。乳癌の摘出手術をした娘を見舞って、「罰が当たったのよ。あんたが自分勝手なことばかりしているから」と口にする人でなしです。そんな母親を介護しなくてはならなくなったのだから、その胸中を慮るだけでも胸が痛くなります。よくぞ「母は完璧な人間ではない。かなえが完璧な人間ではないのと同じように。」と達観できたものです。
 

「第四話」★★★☆☆
 ――六十代半ばのその女性客は、郷森の市原だと名乗った。昔はそれだけで通じたものだったのに……と、ひとしきり自慢話をしたあと、下着を選んでから、クレジットカードを忘れたと言って帰っていった。その女性が今では財産もなくなってしまった旧家の人間で、キャンセルの常習犯だと知ったのは、それからしばらく経ってからだった。

 第三話と同じく店長視点ですが、今度の主人公はお客さんの側です。最後くらいは少しくらい明るい話にしよう、と著者が考えたのかどうか、今のように自分の着たい下着を自由に着られる時代ではなかったころを生きた女性に、少しだけ幸せになってもらう……ことができたと言えなくもない作品でした。
 

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