『親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選』山川方夫/高崎俊夫編(創元推理文庫)★★☆☆☆

 ミステリ誌に連載された連作集からなる第I部と、それ以外の単発作品を集めた第II部から構成されています。東京創元社から刊行されるくらいですから、「ミステリ」に重きを置いた第I部がメインなのでしょうが、第II部のほうに優れた作品が多かったのも事実です。

『親しい友人たち』

 総タイトルになっている「親しい友人たち」というのは、「あなたに似た人」同様、どこにでもいるような人たちのことを描いている、という意味なのでしょう。ちょっとそれを意識しすぎたきらいがあり、臭くてうんざりする話が多かったです。
 

「待っている女」(1962)★★★★☆
 ――寒い朝、彼とちょっとした喧嘩をした妻は、部屋から出て行ってしまった。どうせ実家にでも行き、半日でも悪口をならべてくるに決まってる。十一時になっても妻は帰ってこない。彼は煙草屋へと歩いた。四辻のちょうど対角に、若い女が立っているのが見えた。「二時間も前からよ」煙草屋のおばちゃんが笑った。男でも待っているのだろう。

 アンソロジー『百万円煎餅 日本文学100年の名作5 1954-1963』(→20190120)で既読。
 

「恐怖の正体」(1962)★★★☆☆
 ――私は屍体なんかこわくない。人間の生命ってやつが不気味なんだ。なにをしでかすかわからないし、醜悪で……ところが奴にはそれが理解できなかった。鑑識課員だった彼は、私を驚かそうとして、ことあるごとに面白がって屍体の写真ばかり見せようとしたんです。

 意外な展開、語り手の居場所、屍体なんかこわくない理由――という三段構えのオチになっています。ただ、この構成のせいで、「人間の生命がこわい」の焦点がぼやけ、「死体がこわくない」がクローズアップされてしまっているのが残念です。
 

「博士の目」(1962)★★☆☆☆
 ――普段のロレンス博士は、柔和な動物学者にすぎなかった。博士の目が変化したのは、脳に傷があって、つまり人間でいえば発狂していたために、群れから追放されてしまった家鴨の話をしたときだった。一人の訪問客がその家鴨を見て、頭に爆弾の破片を受けて行方不明になった夫だと叫んだのだという。

 前話から引き続き、人間不信・人間嫌悪の延長にあるような話ですが、怪奇っぽくしてしまっただけに、それだけ安っぽくなってしまっています。
 

「赤い手帖」(1962)★★☆☆☆
 ――深夜喫茶は満員だったため、若いカップルの向かいしか空席はなかった。彼の存在がよほど気になったらしく、それまでひそひそ話をしていたカップルは、バッグから取り出した赤い手帖で筆談をはじめた。眠ってしまった彼が目覚めると、卓の上には赤い手帖が置いてあった。中には他愛もない愛の言葉が書き連ねてあった。

 臭い。愛だと陳腐で死だと真摯だとでもいうのでしょうか。テレビの演出家で軽い生き方をしている主人公の底の浅さが反映されていると考えればよくできています。
 

「蒐集」(1962)★★☆☆☆
 ――大学で美術史の講義をしているサンバードは瓶に目がなかった。民俗学のボーモン教授の家にある白い壺に目を奪われたサンバードは、同じような壺を手に入れるためトロブリアンド諸島に向かった。壺をつくっていた老婆は、金はいらない、と言った。

 教授が女性っぽいという描写はありますし、壺の形は女性の体型になぞらえられることもありますから、その対極として男性性が求められると理屈をつけることもできますが、とはいえ、理屈抜きで言えば、だから何なんだというオチでした。
 

「ジャンの新盆」(1962)★★☆☆☆
 ――雲にいた黄色い顔の連中は、ニイボンだとかで、みんな姿を消してしまった。ジャンにだけはなんの音沙汰もない。フランス人だからか? 自殺だからなのか? それでもようやく鳩(に似た鳥)がやってきた。「門限は今夜かぎり。いけ」

 セ・ボンという駄洒落だけが記憶に残っています。
 

「夏の葬列」(1962)★★★★☆
 ――小学生のころ、疎開していた彼とヒロ子さんは、お葬式が通るのを眺めていた。そのときだった。「艦載機だあ! その女の子、走っちゃだめ! 白い服はぜっこうの目標になるんだ……」白い服――ヒロ子さんだ。彼は助けにきたヒロ子さんを突き飛ばしていた。

 教科書で有名な作品で、出来不出来の激しいこの作品集のなかにあって、「待っている女」ともども突出しています。「写真」「子どもの台詞」といったキーワードが嵌ってゆき、また一ピースごとにその結果が変わってゆきます。教科書掲載作がミステリとして発表されていたことに驚きました。
 

「はやい秋」(1962)★★☆☆☆
 ――ふられたほうがましさ……泳いでいた僕が岩の上で休んでいると、「あなたのことは、ただの浮気よ。ばかにしないでよ」という女の声が聞こえてきたけれど、見ると相手はいなくて、女が一人でしゃべっているんだ。それで僕はその女にイカれてしまったんだ。

 ミステリ的な評価でいえば、彼の正体が小学生だったという叙述トリックめいた仕掛けということになるのでしょうが、その結果浮かび上がる「臭さ」がたまらなく嫌です。著者は大人びた子どものつもりで書いているのでしょうけれど、どう見ても大人の考えた〈大人びた子ども〉で、子どもを馬鹿にするな!と思ってしまいます。
 

「非情な男」(1962)★★★☆☆
 ――私は顔をあげた。窓越しに彼女の目が、開けてくれと見つめている。だが、彼女を部屋に入れてやる気は毛頭ない。――突然、彼は頬を打たれた。「いい気なひと! 私のこと、おしかけてきたイロ狂いみたいに書いてさ」

 まさに女の言うとおり、「サッカク」「気取っちゃって」る男の話ですが、作中の女が死ぬという描写を読んで、自分が殺されると誤解する女もなかなかのもの。
 

「菊」(1962)★★☆☆☆
 ――昔、一人の女がいた。中宮にお仕えしていたが、いつのまにか二十を大幅に越えてしまっていた。花見が催されたとき、酒肴をすすめた若い武士に恋に落ちた。女は武士の等身大の人形を彫らせた。

「メリイ・クリスマス」(1962)★☆☆☆☆
 ――男がアパートに戻ると、5センチほどの女がいた。男は彼女を抽斗しに隠し、目で言葉をかわすようになった。そうなると妻のことがうるさく感じられはじめた。

「愛の終わり」(1963)★☆☆☆☆
 ――四十代の女の部屋に、ドアから一人の青年が入ってきた。紅白にも出た若手のホープだ。「先生、さっきの電話のことですが」「そうそう、私たちのベッドでの会話を、ぜんぶテープに録音してあるっていったことね?」
 

『トコという男』(1964~1965)

 日本版『EQMM』に連載された、小説風の人間観察と考察エッセイ。ショートショート「博士の目」などにも言及があるように、『親しい友人たち』で見られたようなベタな人間考察を、トコという男が語り手に語るという形式が取られています。
 

II

「十三年」(1960)★★★★☆
 ――喫茶店で友人を待っていると、窓ぎわの女に見つめられていることに気づいた。四十くらいの女の隣には、娘だろう、少女がいる。誰か知っている人だったか――ふいに叫びがのぼってきた。頼子だ。当時中学生だった彼は、頼子の貸本屋に下宿しながらアルバイトしていたのだった。そしてある夜……。

 突きつけられる過去の真実の衝撃と、二転する真相という形式からは、「夏の葬列」のプロトタイプとも感じられます。どちらの作品でも、過去という遠い時間のできごとの真実を、一瞬にして主人公や読者が悟ることで、鮮やかな衝撃が生まれています。「夏の葬列」ではそれが写真であり、「十三年」では文字通り十三年という年月がそれに該当します。こちらのほうが切れ味はよいのですが、これを教科書に載せるわけにもいきませんしね。
 

「お守り」(1960)★★★★☆
 ――「君、ダイナマイトは要らないかね?」関口はあるとき、自分そっくりの男が団地に帰ってゆくのを目撃したのをきっかけに、団地の生活というものは画一化されているのではないかと不安になり始める。他人と自分を区別するお守り、それがこのダイナマイトさ。

 アメリカの雑誌『ライフ』に翻訳され、アンソロジーなどにも採られている著者の代表作の一つです。何よりも魅力的な冒頭のひとこと、著者らしい人間考察を経てそのひとことの理由に着地する構成、そしてなぜ自分にはもういらないのかというオチにいたるまで、代表作に相応しい好篇です。
 

「ロンリー・マン(1960)★★★☆☆
 ――扉と窓さえ閉めておけばこのアパートは隣の物音など聞こえない。うるさいところでは仕事なんかできない。O氏がやってくる明日までにはこいつを片づけねばならない……。要するに、問題は屍体の処理方法だ。

 あるいは「ロンリー」というタイトルは真相を示唆しているのかもしれません。部屋でトリックを呻吟するミステリ作家?……ものを書くという作業は一人きりの――いえ、語り手は実際に一人きりなのです。
 

「箱の中のあなた」(1961)★★★☆☆
 ――「失礼ですが、この風景をバックにぼくを入れて写真を撮ってもらえませんか」。だが彼女は男の顔をまっすぐに見られたことがなかった。おそるおそるカメラを手に取り、ファインダーを覗くと、それまでの「男性」は消え、一箇の人形となって、男を見ることができた。

 男性恐怖症者が男性を嫌悪するとはかぎりません。むしろ人一倍、男のことを愛おしく思っていたら……。
 

「予感」(1961)★★★☆☆
 ――彼には一種の予感の能力があった。夫婦で観光バスに揺られている今も、さっきから背中で警笛が鳴りつづけている。「おい、下りよう、このバス」「やめてよ、バカねえ」

 少ないページ数、型通りのオチ。本書のなかではもっともショートショートらしい作品でした。
 

「暑くない夏」(1962)★★★★☆
 ――彼女は何百万人に一人という奇病だった。意識は明瞭だが五感の感覚がほとんどない。「……私には、もう夏も冬もないの。何も感じないわ」

 男が暑さを感じなくなる瞬間は、読んでいるこちらのほうも背筋がすうっと冷たくなるような感覚に陥りました。こんなにも寂寥とした夕立の描写はありません。
 

「トンボの死」(1962)★★☆☆☆
 ――彼女は喫茶店のウエイトレス。青年は同じビルの電器会社に夏休み中だけ雇われた給仕だった。夏休みが終わっても青年は喫茶店に姿を見せた。「なにを渡してるの? いつも」同僚にきかれた彼女は答えた。「トンボのエサ。あの人ね、飼ってるトンボのエサをとってやる暇がないの」

 センチメンタルでロマンチックな優しい嘘の描かれた掌篇。二人とも恋愛をするには心が清らかすぎるようです。
 

「あるドライブ」(1964)★★★☆☆
 ――「この道をずっと行くとね、ゴルフ場があるんだ」「え? こっちに来たことあったの?」妻はふいに夫の横顔を見つめたが、表情は読めない。「すると、この先にしゃれたホテルがあって、僕たちのこの車が停まっていた」「……嘘。見間違えだわ」「ナンバーも確かめた……」

 前話とは打って変わって冷たい人間関係が描かれます。奥さんの感情の振れ幅が大きすぎて現実味がありませんが、この振れ幅だからこその最後のオチなのでしょう。
 

「三つの声」(1964)★★☆☆☆
 ――由美子は母親の再婚相手が好かなかった。さっそくそのもと伯爵の次男に『インギン無礼』という渾名をつけた。これまで働いたこともなく、熱帯魚の研究だけが取り柄だった。由美子はヤクザと付き合うようになり、電話で金をせびったが、いつもインギン無礼に「母親は留守だ」と言われた。

 絵に描いたような再婚と転落のすえに、殺人が計画されますが、アリバイが破れたことと、熱帯魚の習性に、直接的な関連がなく、意外性とショッキングだけが残りました。
 

「頭上の海」(1963)★★★☆☆
 ――大学の後輩だった忠がアパートから失踪した。先輩の話では中共に密航したのだという。それが事実か疑うこともせず、澄子は実家に帰ってきた。兄は喧嘩したのか血を流していた。喧嘩の相手が忠なのではないかと、澄子はふと思った。

 本書収録作のなかではいちばん長い作品で、もっとも普通小説に近い作品です。
 

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