『公然の秘密 日本文学100年の名作 第7巻 1974-1983』安部公房他(新潮文庫)★★★★☆

「五郎八航空」筒井康隆(1974)★★★★☆
 ――おれとカメラマンの旗山は、無人島取材に訪れた乳島に、台風のため取り残されてしまった。明日までに帰らないと編集長が怖い。地元の人間によれば、船が出せないときには飛行機が迎えに来てくれるという。「操縦士の五郎八は昨日まむしに噛まれたそうじゃ」

 それなりに現実的で切実な状況から、あり得ない展開に巻き込まれるスラップスティックです。赤鼻と眼やにといった見た目の笑いから、小屋にぶつかりそうになる飛行機や止まるプロペラといった動きの落差による笑いなど、ドリフのコントみたいな作品でした。
 

長崎奉行始末」柴田錬三郎(1974)★★★☆☆
 ――英船フェートン号が敵国のオランダ商船が逃げ込んだという情報をもとに、長崎湾内に至り、二人のオランダ商館員を拉致した。日本の戦闘力は無きにひとしい。水と野菜の供給だけでは満足せぬ英船を前に、長崎奉行・松平康平は家来の九造を呼んだ。九造にはオランダ人との混血の捨児を育てさせていた。武士道を見せるときだ。

 いかにも日本らしい責任の取り方をした長崎奉行の史実に、さらにもうひとまわりむごい武士道のエピソードがあったという歴史秘譚です。馬鹿らしいとさえ思えるような強烈なワンクッションを置くことで、長崎奉行の責任の取り方に理解を寄せやすくなるだけでなく、男らしいかっこいいとさえ感じさせてしまいます。
 

「花の下もと」円地文子(1975)★★★★☆
 ――浜村屋のお勢さんが死んだんですって……浜村屋というのは、喜瀬川仙寿という歌舞伎俳優の屋号で、お勢さんはその家に長く使われていた老女中である。教えてくれたのは先代の仙寿と熱い仲だったこともある、とき子だった。お勢さんはなぜか二か月前ほどに浜村屋の家を出て、独り暮らしをしていたという。

 昭和五十年代にすでに過去のこととして描かれているからこその美談、悲恋です。演目に二人の関係を重ね合わせる、親切にしてくる孫に叶わぬ恋の祖父の面影を見る……まるで物語のなかのような出来事が成立する時代と世界は確かにあったようです。
 

「公然の秘密」安部公房(1975)★★★★☆
 ――掘割の底には、捨てられた古自動車などが埋まっている。折れた街路樹のようなものが見える。動くはずのないものが動いている。しかし誰ひとり気にしないようなふりをしている。濡れた水面に形があらわれた。やはり飢えた仔象だった。

 現代人の無関心を描いているようにも思えますが、もし本当に飢えた仔象が現れたのならば、現実にはワイドショー的な同情が寄せられることでしょう。形だけの憐れみ。マッチを与え、殺意を抱き、紙のように燃え上がらせる人々には、まだしも強い感情が残っているようです。
 

「おおるり」三浦哲郎(1975)★★★★☆
 ――ふと彌太さんのことを思い出してしまう。消防団の活動中にあっけなく死んでしまった。彼が小鳥の世話をしながらそんなことを考えていると、女の声がした。近くの病院で病人の世話をしていると、鳥の啼き声が聞こえてきて、入院患者たちがそれを楽しみにしているのだという。彼は啼き声がよく聞こえるように、籠を鉄塔の上に揚げることにした。

 彼の視点からは真実が隠されているため、ちょっといい話のように物語は進みます。女性の取った行動は、ただ単に赤の他人に詳しいことを話したくないというだけのことかもしれませんが、死を吹聴して最後の一葉めいた美談にしない慎みや優しさをわたしは感じました。
 

「動物の葬禮」富岡多恵子(1975)★★★☆☆
 ――ヨネは五十五、六の指圧師である。二十一になる娘のサヨ子は、家を飛び出してキリンのような男と一緒に暮らし、水商売をしている。「お母ちゃん、キリンつれてきた」毛布にくるまれた男を運び込んだ。「医者は?」「アホやねえ、もう死んでるんやで!」

 身勝手に生きてきた人間が、人の死を体験しても同じように身勝手に生き続けているように見えます。キリンの母親や社長は冷たい人間なのでしょうか。サヨ子はある意味で己を貫いているといえるのでしょうか。各々が身勝手に生きて、その結果がこうなったのでしょう。
 

「小さな橋で」藤沢周平(1976)★★★★★
 ――広次は友だちと遊びもせず姉のおりょうを迎えに行かねばならない。姉が勤めている米屋の手代と「できている」からと、母親に言いつけられているのだ。母親は飲み屋に勤めているので娘の見張りなど行きとどくわけがない。ところが迎えに行くと、姉は休んでいるという。

 この作品にはさまざまな世界が描かれています。行々子《よしきり》の卵をさがし、縄張り争いの喧嘩をする、子どもたちの世界。失踪した父親への思慕や、母親の再婚に反対する、親子の世界。ふと弱いところを見せる母親や、恋愛ごっこに興じる姉と手代の、男女の世界。子どもの喧嘩も意地なら、世話になった人間への父親なりの精一杯の矜恃の、どちらも譲れない世界。これだけ短いなかに、人生がぎゅっと凝縮されているうえに、少年は最後にまた、新しい世界を知るのです。
 

「ポロポロ」田中小実昌(1977)★★★★★
 ――石段をあがりきると人が立っていたので、ぼくは、おや、一木さんかな、とおもった。ところが部屋には父と母と一木さんがいて祈っていた。祈祷会の夜だったのだ。父が牧師だったうちの教会では、祈りの言葉は言わない。言葉にはならないことをさけんだりつぶやいたり、ただ、ポロポロ、やってるのだ。

 宗教体験によるトランス状態を「ポロポロ」と表現するだけに留まらず、最終的には言葉にはできないものすべてを「ポロポロ」と記すまでにいたる、かなりとんがった作品であると同時に、『トリストラム・シャンディ』めいた脱線がめっぽう楽しく、さらにはほろりとさせてくれもする、リーダビリティに満ちた作品でもありあす。こういうのを天才というのでしょう。
 

「二ノ橋 柳亭」神吉拓郎(1979)★★★★☆
 ――〔柳亭〕の筆者は食味評論家の三田仙之介である。それを読んだ読者から、店のありかを教えてもらいたいという問合わせがあった。「筆者が明かしたがらないので、あいにくですが……」。編集長の小林は、村上に教えてくれた。「実は柳亭なんて店はどこにもないんだ、はじめからな」

 実在したエッセイをもとにした遊び心は、奇妙な味のようでもあり、架空の書評のようでもあるのですが、現代の雑誌社を舞台にすると途端に「遊び心」というより「ヤラセ」感が漂ってくるから不思議です。店に関する文章自体がとても魅力的ですが、そこに東京と大阪の味の違いや、実在の食に対する批判精神など、遊び心や単なる懐古趣味ではない作品であることも事実です。そうしたところに、嘘から出た真が返ってくるのですから、参ります。
 

「唐来参和」井上ひさし(1979)★★★★☆
 ――へエ? 唐来参和という黄表紙作者のことを訊きたい? 昔は夫婦だった筈だ? ええ、源蔵とは幼馴染みでした。あるとき夫に酒を飲ませたら、「医者になりたい」と言って、わたしを吉原に売って長崎に蘭語を学びに行ってしまいました。それが半年で帰ってきて、蔦重さんのところで礬水引職人の見習いを始めました。

 酒を飲むとあべこべの行動を取ってしまう――何だか落語のような設定ながら、著者に過剰なユーモアは意外なほどなく、波瀾万丈な夫婦二人の人生とくっついたり離れたりの夫婦の人情が惜しみなく描かれていました。
 

「哭」李恢(1979)★★☆☆☆
 ――景南の母は娘時代に故郷の島で海女をしていたという。大きな祭祀の日には親戚が駆けつけてくる。年に何回かの祭祀になけなしの金を叩いてしまっているように見える。生きた人間を大切にした方がずっといい。そう思っても、祭祀とは一種の治外法権だった。

 大げさな祭祀や泣き女に懐疑的ながらも、「人々の嘆きが深いのもまたたしかなのである」という臭い文章に辟易としました。
 

「善人ハム」色川武大(1979)★★★★☆
 ――肉屋の善さんは勲章を貰っていたが、戦争が終わって肉屋もやめてしまった。善さんにはいい友人がたくさんいて、ときおり麻雀に誘われていた。卓にすわれば必ず負ける。しかし仲間と一緒に飲んだり打ったりするのが好きなようであった。ある時、話がはずんで怖い話になった。「――夢ですよ。突け、っていわれたんです」

 人のいい善さんは、賭麻雀で逮捕されても、アル中で死にかけても、なんだか憎めずのほほんとしています。生前には滅多に貰えない勲章を貰っているというのも、そんな何をも超越しているような好人物ぶりに拍車を掛けます。ところが、その勲章がそんな善人の暗い過去と結びついていることがわかります。けれど善さんの善人ぶりは贖罪というよりも根っからのものでしょう。そこがこの作品のいいところだと思います。
 

「干魚と漏電」阿刀田隆(1979)★★☆☆☆
 ――杉田夫人が冷蔵庫を掃除していると、カチカチに固まった柳葉魚が出てきた。そのときベルが鳴った。玄関に出ると電気代の集金人だった。引っ越してから数か月経つが、家具も照明も同じだけなのに、以前よりも電気代が増えている。

 著者の作品のなかでは標準作だと思います。もしかすると「魚」と「電気」というお題か何かがあって書かれたものなのかなあ、とも思いますが、あまりうまく結びつけられているとも思えません。
 

「夫婦の一日」遠藤周作(1981)★★★☆☆
 ――妻がだまされた。今年になって不幸ばかり起こったものだから、インチキな占師にひっかかり、「吉方の水と砂を庭にまかなくては御主人に不幸が起こる」と言われて、鳥取砂丘に行こうと言いだした。俺たちがカトリックだということを忘れたのか。

 信仰どうこうというよりも頑固者夫婦の意地の張り合いみたいなところに、ほんわかする作品でした。占いを真に受けるのはどうかと思いますが。
 

「石の話」黒井千次(1981)★★★★★
 ――あの石をまだS子に贈ってないな。Fは突然そう思った。結婚当初は誕生石の婚約指輪を高価で買えなかったため、「いつか、お金持ちになったら」S子は笑いながらそう言ったのだった。金持ちとまではいかぬが、先月の末に社内預金が二百万円を越えたのだ。あの石をS子に贈ろう。Fは心に決めた。預金を下ろすのにS子に断らないわけにはいくまい。

 ロマンチックな男に対し、現実的な女……そう言い切れてしまえば簡単なのですが、S子の希望は現実的というのともまたちょっと違った感覚です。亀裂でも断絶でもないけれど、若いころのような気持がお互いに通い合うことはないのだという、ちょっと寂しい気持になりました。
 

「鮒」向田邦子(1981)★★★★☆
 ――耳のいい長女の真弓が、台所に人がいる、という。のぞいてみると、バケツのなかに鮒が一匹入っていた。塩村には心当たりがあった。これは鮒吉だ。週に一度ツユ子のアパートに通うのをやめてから一年たってから、何だってツユ子はこんなことをしたのだろう。

 ごく普通の家族のごく普通の家庭に入り込む、父親の不貞の忘れ形見。それはそれとして何事もなく終わりそうな瞬間に、パッと爆発する嵐のような一言が生み出す、一瞬の暴風雨が鮮烈です。
 

「蘭」竹西寛子(1982)★★★☆☆
 ――列車の中は、国民服やモンペ姿の人達で混み合っていた。ひさし少年は窓際の席で父と対い合って、歯の痛みをずっと怺えていた。父親は目を閉じていた。周囲の大人達も目を閉じている。我慢しよう、とひさしは思ったが、耐えられずに父親の膝を指でつついた。

 戦時中の風景と、父を思う子と、迷いなく子を思う父の、心温まるエピソードで、それだけで終わってくれればよかったのですが、最後の最後に言わずもがなの小説的まとめがあったため、却って小賢しくなってしまっていました。
 

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