『薄情くじら 日本文学100年の名作 第8巻 1984-1993』池内紀他編(新潮文庫)★★★☆☆

「極楽まくらおとし図」深沢七郎1984)★★★☆☆
 ――本家の孫のカンちゃんというのが「コテン」を開くという。妙な絵があって題が“まくらおとし”と書いてあった。まくらおとしとはヒイじいさんが死んだときの病気の名だ。本家のジイさんは、まくらおとしで死にたいものだ、と言う。

 これを「楢山節考」の深沢七郎の作品だと思って読み進めてしまうと、何の衝撃もなくなってしまいますが、衝撃こそ減りはすれど、書かれた当時と比べて、より静かにより現実味を持って、この問題が身近に迫っている現在があります。
 

「美しい夏」佐藤泰志1984)★★☆☆☆
 ――秀雄が目を覚ますと、蜘蛛が捕獲器に掛かったゴキブリを食べていた。光恵と一緒に郊外のアパートをさがしに行ったが、不動産屋は馬鹿にしたように、賃貸ではなく二人には手の出ない売り物件ばかりすすめた。秀雄は前日には酔っぱらい同士で喧嘩をしていた。

 貧乏、ではなく、貧乏くさい。古くさい小説でした。
 

「半日の放浪」高井有一(1985)★★★☆☆
 ――今日は戦後間もない時期に私が建てた家に住む最後の日なのである。今朝私は、眼が醒めると窓を開けた。家の裏側には菖蒲園がある。

 自宅に住む最後の半日のつれづれ。
 

「薄情くじら」田辺聖子(1986)★★★☆☆
 ――オバケというものは市場に売ってないものかねえ。鯨というのは捨てるところがないそうである。それが木津には気に入っている。母親が作ってくれた鯨料理の味は忘れられない。ところが妻も娘も気味悪がって食べるどころか調理しようともしない。

 食べ物が旨そうな小説はそれだけで読んでいて楽しいものです。けれど鯨肉と家族の温かみを結びつけるまとめ方が強引でした。
 

「慶安御前試合」隆慶一郎(1987)★★★★★
 ――三代将軍家光の面前で、江戸柳生の総帥宗冬と御前試合を行うようにとの命令が、尾張柳生の兵助に届いたのは、慶安四年三月のことである。江戸柳生は格下げされた旗本から大名に返り咲くため、あらゆる手段を尽くして勝とうとするはずである。尋常に勝てぬ相手には、謀殺しかない。

 江戸柳生と尾張柳生の御前試合を描いた剣豪小説。型破りな戦い――とはつまり、誰も見たこともない戦いを、目の当たりにしているように描写するわかりやすい文章は、エンターテインメントの鑑でしょう。家光と江戸柳生の愛憎に巻き込まれた形となった尾張柳生の心だけは、武士の矜恃と明鏡止水の境地にいます。
 

力道山の弟」宮本輝(1989)★★★★☆
 ――父の友人であった中国人が、日中戦争が勃発すると、麻雀店を日本人の妻・喜代ちゃんに任せて帰国した。ある日、私は、力道山に生き写しの大道芸人に声をかけられた。〈力道粉末〉を買うための二百円をせびりに、父親のいる麻雀店に行くと、先ほどの力道山の弟がいた。

 人は信じたいものを信じ、騙されたいものに騙される。語り手の少年と喜代ちゃんを表すのに、これほどぴったりの言葉もありません。少年は力道山という魔法の言葉に魅入られ、喜代ちゃんはアウトローに男らしさを幻視したのでしょう。人間のそういうところを、そうとはわかってはいても諦念に流されず怒る父親の、芯にある人間味を感じました。
 

「出口」尾辻克彦(1989)★★★☆☆
 ――出るべきときでないときに出ようとする。これがパニックである。映画館やスタジアムでもそうだし、人体の肛門でも結果は同じである。そんなことを考えながら、私は夜道を歩いていたのだ。家まで十五分。ちょっとおかしいのである。

 赤瀬川原平の別名義。便意について語ったエッセイ風小説。所詮はうんち、気負ってもしょうがないといったほのぼのしたものがあります。
 

「掌のなかの海」開高健(1990)★★★★☆
 ――三十年近くも昔のことである。酒場で高田先生という初老の人物と顔見知りになった。現住所の福岡市から東京に出てくるのは一人息子の行方を探るためである。息子はスキューバ・ダイヴィングに出かけたきり消息を絶ってしまった。二年後、先生は船医になり、墓守の心境で余生をすごそうと決心する。

 やりきれない思いが絞り出されるように吐露されるのが、最後の最後になってからだけに、その効果は絶大です。どんな荒ぶる気持を抱え込んでいる人でも、普段は感情を隠しているものです。美しい宝石の一つ一つに、無念の思いが詰まっているようです。
 

「ひよこの眼」山田詠美(1990)★★★★★
 ――その転校生の目を見た時、なぜか懐かしい気持に包まれたのだが、それがどのような記憶によるものなのかわからなかった。中学三年生には、懐かしがるべきことなどないように思えたから。私はそのもどかしさを取り去りたくて、彼、相沢幹生を盗み見るようになった。

 若いころの瑞々しさと息苦しさ、どちらのタイプにおいても優れた青春小説の書き手でもある著者の、どちらの味も備えられた作品です。懐かしさがどこから来ているのかは、タイトルでわかりますが、ほのぼの懐古趣味の作品だと思っていると、その意味するところが明らかになった瞬間、戦慄し、呆然としてしまいます。
 

白いメリーさん中島らも(1991)★★★☆☆
 ――フリーライターの私は、ここ数年「うわさ」を追っかけている。有名なところでは「口裂け女」。噂を採集し、発生、伝播、変化、消滅の契機などを徹底して調べる。テレビ局や民俗学者の需要があるのだ。全身白ずくめの老婆「白いメリーさん」の話を娘から聞き、友人たちから聞き取りをしたいと告げると、娘から嫌そうな顔をされた。

 都市伝説をめぐるホラー。噂がもとになって現実に同じようなことが起こるという、現代的な現象に、現代人の心の闇が重ね合わせられています。
 

「鮨」阿川弘之(1992)★★☆☆☆
 ――討論会の帰りに寿司折を渡された。東京帰着後、人と夕食の約束がある。ふと彼の頭に、上野駅の地下道に屯ろしている浮浪者の姿が思い浮かんだ。あの連中の一人に食ってもらうというのはどうだろう。

 小泉元首相の「こじきでも字を読める。新聞読んでいる。ホームレスでも」を思い出しました。軍隊経験者だったらどうだというのでしょうか。それが「見下す気持」だということに気づいていないようです。
 

「夏草」大城立裕(1993)★★★☆☆
 ――山羊のあとを追うようにやってきて倒れた兵隊の腰から、手榴弾を拝借した。これがあればいつでも楽に死ねる、隣を歩いている妻にもその気持は通ずる、と確信していた。夜になり、墓地で休もうとした。「ハブ!」そのとき押しつけられた妻の乳房を感じた。

 死と隣り合わせだからこそ再確認する生への思い。戦争という極限状態と、手榴弾という簡単な方法を経ての思いです。
 

「神無月」宮部みゆき(1993)★★★★★
 ――あの押し込みがあったのは、五年前の神無月。盗られた金はたった十両、質屋の夫婦と小僧は縛られただけで済んでいた。毎年神無月にただ一度だけ押し込みを働いて、その後はなりをひそめている。だが去年とうとう人を傷つけた。それ以上のことをしてしまうまえに、袖をとらえてやらねえと。岡っ引きは両手を握り締めた。

 このあと何が起こり盗っ人の運命はどうなるのか。そんな謎と余韻を残したまま、物語は終わります。一線を越える前に……という人情もののようにも思えますが、江戸時代の刑罰はどうなっていたのでしょうか、強盗傷害でも死罪であるのなら、既に手遅れ、空回りしている人情だけにいっそうの寂しさを覚えます。
 

「ものがたり」北村薫(1993)★★★★★
 ――妻の妹の茜も、今年は大学受験。泊まらせてやってくれと言いだしたのは、妻の百合子だった。耕三は夜が遅い。受験のない日にも耕三は出張を入れた。見事に二人はすれ違ったまま、今日が最後の日だった。「ご苦労さま」「お世話になりました。一昨日の番組を見ました。わたしにも自作のストーリーがあります。時代劇なんです」

 物語はなぜ生まれるのか……についての一つの解答でもあります。物語という形でしか、いえ物語という形ですら「いってはならぬこと」を口にしてでも伝えたい強い思いが、最後の最後に明らかになります。
 

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