「町入能」★★★★☆
――大工の初五郎は、朝な夕なに江戸城の富士見櫓を仰ぎ見ていた。お城の御用達の大工になれば、お城に入る機会はある。だが長男に大工の修行をさせたかったし、今の親方に恩もある。大家の幸右衛門から、町入能の話があった。勅使に見せる御能を下々の者にも見物させるという粋な計らいだった。初五郎は浪人の花井から能の話を教わることにした。
江戸庶民の猥雑な生活が活写されていて、それが非常に魅力的です。そして魅力的に描かれているからこそ、物語の最後が生きています。浪人の花井はもちろん、小説を読んでいる読者も、ここ描かれている生活を心から魅力的だと思わなければ、さぞや薄っぺらい作品になっていたことでしょう。ここでは能というのが庶民の歌舞伎と対極にある、武士の世界の象徴として描かれています。
「おちゃっぴい」★★★★☆
――心底嫌なことがあった日は決まって天気がよい。父親が手代の惣助との縁談を勝手に決めたことに我慢がならず、お吉は店を飛び出した。当てがあるわけではない。楊枝屋の前にいた人のよさそうな男に声をかけた。「一緒に連れてっとくれよ。迷惑は掛けないよ」絵師の英泉と名乗った男は、これから北斎のところに行くのだという。
大工に続いては、町娘の啖呵が聞けます。「町入能」と同じく、武士という存在によって町人の魅力が引き立てられていました。親の決めた縁談への反発という昔ながらのテーマに、元は武士であった英泉や北斎の出戻り娘をからめた演出が見事です。嫌なことがあった日は天気がよい、という冒頭から、結末に至る流れもほろりとします。
「れていても」★★★☆☆
――菊次郎はお龍にほれていたが、薬種問屋の苦境を乗り切るためには意に染まない縁談を承知しなければならない。せめてひと言言いたい……ところが。親父が倒れた時、いの一番に駆けつけてくれた医者が、めし屋でお龍を見て顔色を変えたという。
お龍と医者の関係がクサすぎて、菊次郎一人がとんだ道化です。まさに痴話げんかはよそでやってくれ、ですね。三人そろって意地っ張り、ではありました。
「概ね、よい女房」★★★☆☆
――甚助店に浪人者の夫婦が店子に入ることになった。旦那である実相寺のことは初五郎も親しみを感じていたが、おすねという女房は口が悪く、気の強いお紺などは腹に据えかねていた。
第一話「町入能」の初五郎たちが再登場します。タイトルは「概ね」でも「よい」でもなく「女房」がポイントです。「れていても」にしてもこの作品にしても、最後に明らかになる当事者たちの事情が説明的なのが瑕でした。
「驚きの、また喜びの」★☆☆☆☆
――伊勢蔵親分は機嫌が悪かった。十六になる末娘の小夏が恋患いをしている。こともあろうに相手の鳶職・龍吉は、父親の末五郎が十四のときに孕ませた子だという。
これまでの作品もベタにいい話が多かったのですが、この話はさすがに出てくる人物みんなが甘すぎて、あほらしくて読んでられませんでした。粋でいなせで情けがあって――著者は江戸っ子に幻想を見過ぎでしょう。感情や人情や努力や心意気があれば、現実はどうでもいいみたいです。
「あんちゃん」★★★☆☆
――薬種問屋の丁子屋は火の車だった。持参金をつけてくれたこともあり、菊次郎は評判の醜女おかねと一緒になった。その頃からだろうか、林家庵助という軽薄な男がうろちょろするようになった。
第三話「れていても」の菊次郎たちが再登場。最後の二篇からは、わがままを受け入れる町人たちの懐の深さを感じました。
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