『アイロンのある風景 日本文学100年の名作 第9巻 1994-2003』(新潮文庫)★★★☆☆

「塩山再訪」辻原登(1994)★★★★☆
 ――どこかへつれてってよ、と有子にせがまれ、電車にとび乗った。車掌が来て、私は塩山までの切符を買い直す。「エンザン?」「どこかへつれてゆけというから、つれてってやるのさ」有子に向かって、この町で私は生まれたのだ、と言いかけてやめた。

 語り手の男と交際相手の女。主要な登場人物はその二人のはずなのに、語り手は自分のことばかり内省していて、いるはずの有子の存在感がほとんどありません。語り手のそんなひとりよがりなところが作品の根幹をなしていました。周りの人間は読者には自明のことが、本人にだけは見えていませんでした。
 

「梅の蕾」吉村昭(1995)★★★☆☆
 ――村長早瀬の努力により観光客も増えた。だが医師探しだけは反応がない。千葉の癌センターに勤める堂前から問い合わせがあったときも、そんな偉い人が……と期待はしていなかった。だが本人は乗り気で、就学中の子どもと都会育ちの夫人だけがネックだという。初めは渋っているようだった夫人も、やがて村人たちに打ち解け始めた。

 お涙頂戴な話を、感動させようという素振りも見せずに淡々と語る語り口に、もっと感動的にできるのにというもったいないような気持と、感動の押し売りをしないことへの好意的な気持とが、入り混じった感想を覚えました。
 

「ラブ・レター」浅田次郎(1996)★★☆☆☆
 ――留置場から出た吾郎に、刑事が言った。「おまえのかみさん、死んだぞ」 意味がわからずとまどったが、偽装結婚した中国人の女のことだった。偽装結婚とはいえ千葉まで行って手続きをしてこなくてはならない。吾郎は組の若者サトシと千葉に向かった。

 泣かせの浪花節なら著者の右に出る者はまずいないでしょう。他人のために涙が流せるのは、そんな人生を送って来た者だけの特権です。
 

「年賀状」林真理子(1997)★★★★☆
 ――決して好男子ではない葛西が女遊びをして来られたのは強引さのおかげだった。だが香織のことだけは拭いがたいしこりだった。会社を辞めた香織から、年賀状が届いた。葛西はよく部下を家に連れて来ていたので、年賀状を読んだ妻も訝しんだりはしなかった。

 当たり障りのない年賀状でじわじわとなぶり殺しにしたあとで、暴力も言葉も尽くさないけれど抉る傷はとんでもなく深い、強烈な復讐。復讐の仕方にセンスがいいというのも変な言い方ですが、それでもやはり、嫌がらせのセンスがいいと感じてしまいました。
 

「望潮」村田喜代子(1997)★★☆☆☆
 ――古海先生の喜寿の祝いと忘年会を兼ねた集まりで、先生から簑島の話が出た。「簑島へ行く者があったら、見てきてもらいたいものがある」十年前ほどのこと。「つ」の字型に腰の曲がった老婆が箱車を押しているのを目撃した。タクシー運転手によれば、老婆は死のうとしている当たり屋なのだという。

 姥捨て&安楽死といったアクチュアルな問題を、特異な設定で見せておきながら、最後にはシオマネキになぞらえるといった安易な手法が採られていたので興醒めでした。俳句とからめて焦点をぼやかしてます。
 

初天神津村節子(1997)★★☆☆☆
 ――父が亡くなってから、幸世は仲の良かった智子に誘われて年配者の旅行クラブに入り、京都に向かっていた。その女は七十歳を少し廻っている年恰好に見えた。一人きりぼんやりと座席に坐っている。

 それぞれの老年。父親に縛られた人生もあれば、嫁に邪魔者扱いされる人生もあります。それを結局、単なる不幸でいたがり、だと感じてしまうのは、まだわたしが若いからなのでしょう。
 

「さやさや」川上弘美(1997)★★★★☆
 ――蝦蛄を食べて時間をすごし、帰れなくなった。しょうことなく、メザキさんと並んで、道を長く歩いた。しばらくするとメザキさんが言った。ぼくは少しこわい。暗いのはこわいです。サクラさんはこわくないですか。私がこわいのは。そこまで言って、こわいものがなんだったか忘れていることに気づいた。

 細くも太くもならない長く暗い、非現実的な道を進みながら、蛙の声や雨の音(さやさや)だけはリアルに響いています。蝦蛄や接吻や、叔父の部屋は、果たして非現実のほうなのか、現実のほうなのか、と、わからなくなってきます。
 

「ホーム・パーティ」新津きよみ(1998)★★★★☆
 ――容子はホーム・パーティの準備をした。あれこれ迷って、真珠のネックレスにした。これには「歓迎している」というメッセージがこめられている。ちょっと太ったかしら……。三か月前に偶然会った夫の後輩・小宮夫妻が来ることになっている。小宮と再会したのはそのひと月後のことだった。

 有閑マダムの心理の綾に引き込まれるものの、終盤にかけて明らかにされる容子の疑念は、さすがにどう考えても容子の疑心暗鬼だろうと一人合点してシラけてしまいました。それだけに、疑念を確信に変える小宮聡美の一言には、背筋がぞっとしました。伏線も見事です。
 

「セッちゃん」重松清(1999)★★★★☆
 ――「ちょーかわいそうなの、セッちゃんって。いじめてるわけじゃないよ。嫌ってるだけだもん。好き嫌いは個人の自由じゃん」中学二年になる加奈子の話を、父親の雄介がさえぎった。セッちゃんの親がそのことを知ったときのことを考え、胸に刺さった。

 中学二年生にこれだけの強がりを強いる残酷さと、これだけの強がりを完遂できる健気さに打たれます。当人以外には他人事であるがゆえに、どうにもならないもどかしさが胸のなかに溜まります。
 

「アイロンのある風景」村上春樹(1999)★★★☆☆
 ――画家の三宅さんは順子が店員をしているコンビニに一日に三度も買い物に来ていた。冷蔵庫がないねん。それから数日後、海辺で三宅さんが一人で焚き火をしているのを見かけた。順子は焚き火の炎を見て、何かをふと感じた。火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから心次第で何にでも見える。

 相変わらず説教臭いところがあります。むしろ村上春樹なりのジャック・ロンドン「たき火」観が見られたように思います。
 

「田所さん」吉本ばなな(2000)★☆☆☆☆
 ――新しく入社した人は必ず聞いてくる。「田所さんって何なんですか?」マスコットのようなひとよ、と私は説明する。皆がそんな田所さんに優しいこと、それで彼が生きていけるこの世が、嬉しかった。

 相変わらず気持ち悪い。
 

「庭」山本文緒(2000)★★★☆☆
 ――母が急逝して三カ月がたった。母親の趣味で建てられた少女趣味の一軒家と、母の趣味で飾られた庭と、その住人としては似つかわしくない定年を迎えた父と娘である私が残された。近所にマンションでも買って別々に住んだ方がいいのかもしれない。

 当たり前だったものの不在は誰にとってもつらいものですし、日々の生活に密に関わっていた主婦という存在であればそれを顧みる機会も多くなることでしょう。ましてや語り手は「起こしてくれる人がいなくなって、何度か会社に遅刻したくらい」の人であり、残された家は父娘には無縁の母親好みの家だったのですから。
 

「一角獣」小池真理子(2001)★★★☆☆
 ――女は三十二歳。誘われて、断るのも面倒臭く、ついていくと、いつも同じことをされた。女は品のない居酒屋に勤めていた。何度か寝たこともある客の一人から、版画家の家政婦を紹介された。無愛想な版画家は、猫を飼っていた。シロ、と呼ぶと寄って来るその猫の世話も女の仕事だった。

 猫が女になついたのには、実際のところは精神的道徳的な理由があるわけではなく、おそらくは何か即物的な理由でしょう。けれど肝心なのは、実際にどうなのか、ではなく、版画家と女がどう思っていたか、であり、良くも悪くも誤解や思い込みが生んだ成り行きと人間模様だと言えましょう。
 

「清水夫妻」江國香織(2001)★★★☆☆
 ――私と友人が蕎麦屋捨て猫の話をしているときに、隣の卓から口をはさんできたのが清水夫妻だった。最初は気味が悪かったけれど、引き取ってもらった猫の様子を見に行くうち、清水夫妻に心を許し始めていた。夫妻は葬式が趣味だった。

 葬式に行くのが趣味だといっても、死の尊厳だの何だのと大上段から振りかぶらないのがいい。
 

「ピラニア」堀川敏幸(2003)★★★★☆
 ――相良さんのシャツに染みがついていた。得意先の老人に麺をふるまわれたという。不器用な安田さんは、店長が倒れたため店を任せられた。出前にゆくと、注文の品を病院の駐車場に届けてほしいと言われた。病院食に飽きた入院患者のものだという。そのとき知り合った花屋の聡子さんとの初デートのとき、安田さんのシャツには調理中の染みがついていた。相良さんの染みを見て聡子さんはそれを思い出した。

 相良さんのシャツに染みがついているという事実から始まり、麺ぎらいとおちょぼ口という個性的なエピソードを経て、相良さんの話になるのかと思いきや、相良さんと知り合ったころの安田さんの話から安田さんの過去の話に移り、最終的にシャツの染みに戻ってくるのは、寄り道のようでいて、その寄り道のうちに二人の人となりが明らかにされています。
 

「散り花」乙川優三郎(2003)★★☆☆☆
 ――働き盛りの漁夫だった父が死ぬと、長女であるすががどうにかしなければならなくなった。海女だけではやっていけず、稼ぎにもいろいろあることもわからぬまま、小料理屋に働きに出た。うぶなすがは常連客には人気があった。

 時代小説であるらしいものの時代ははっきりとは書かれず、まるで吉行淳之介でも読んでいるような気になる、女の物語でした。
 

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