『わたしは“無”』エリック・フランク・ラッセル/伊藤哲訳(創元SF文庫)★★★★☆

 『Somewhere A Voice』Eric Frank Russell,1965年。

 2013年の復刊フェア本。短篇「ちんぷんかんぷん」でヒューゴー賞を受賞したイギリスの作家。78年歿。
 

「どこかで声が……」(Somewhere a Voice,1951)★★★★☆
 ――ZM17第六惑星ヴァルミアに不時着したのは、8人と1匹だった。役立たずばかり生き残っているのが、ビル・マレットには我慢ならなかった。副長と当直主任を除けば、黒人にちびの中国人に宝石商に田舎者夫婦だ。一行は救急ステーションまで歩いてゆくが、見知らぬ世界のなかで一人また一人と……。無音の世界のなか、どこかからフューン、フューンと音が聞こえる。

 極限状況のなか少人数で行動してゆくなかで、差別主義者が一人一人の人間性に触れて人間らしい気持を取り戻してゆく、という人間ドラマが中心になります。極限状況に陥る恐れは地球上でもないとは言えないでしょう。見知らぬ自然の猛威に襲われる危険もあるでしょう。それよりも恐ろしかったのは、音のほとんどないという世界でした。これが孤独や恐怖をいっそう煽り立てます。人間ドラマという点では、p.86「ほんとにすまない」という台詞の持つ意味が胸を打ちました。そして音の正体。残酷というほかありません。
 

「U-ターン」U-turn,1950)★★★★☆
 ――メイソンは死のうとしていた。火星から地球に降り立ったフランクは、生命終末ビルに向かった。死ぬ理由は、死を恐れていないからだ。死を待つだけの生にはとても耐えられないということもある。係員からいくつか確認されたあと、メイソンはエレベーターに乗った……。

 不老長命が実現された未来に存在する、尊厳死を選ぶことのできる施設……どこかで読んだような話ですが元ネタはこれなのかな?と思いながら読み進めていきました。それだけに意外性は充分でしたし、メイソンがそういう考えに至り望んだことも納得できます。ただ政府が実際にそういう考え方をして施設を作るかな……という疑問は残ってしまいます。
 

「忘却の椅子」(Seat of Oblivion,1941)★★★★☆
 ――脱獄してきた殺人犯ジェンセンは、科学者たちの会話を盗み聞きしていた。その試作機械を使えば、精神的な力を極度に発達させて解放した霊魂を、他人に移すことができるのだ。ジェンセンはウェイン博士を脅して、通行人に乗り移った。この機械があれば無敵だ。悪事を働いたあとで他人に乗り移ってしまえばいいのだ。

 他人に乗り移る方法自体が一か八かの博打に近く、何の不安も覚えず犯行を繰り返すジェンセンには、悪人ながらその豪胆さに頭が下がります。けれど結局、その怖いもの知らずなところが最後には破滅を招いてしまいました。
 

「場違いな存在」(Displaced Person,1948)★★★☆☆
 ――ベンチに座ったその男の姿は黒と白の二色で統一されていた。おそらく作家か画家、いや音楽家に違いない。「わたしは音楽が好きです」とその男が言った。「この日の終わりのつぶやきが。わたしには故国がありません。場違いな存在なのです」

 世界中のどこででも「場違いな存在」が登場するショートショート。シリアスな作品が多いなかこういったショートショート的な作品は意外な感じもしますが、テーマ的にはつながっているような気もします。
 

「ディア・デビル」(Dear Devil,1950)★★★☆☆
 ――初めて地球に降り立った火星人たちは、荒涼たる惑星を目にして失望していた。た吟遊詩人のファンダーだけは、“美しき物”に心を奪われ、地球に残った。ファンダーの姿を初めて見た地球の少年は、彼のことを「悪魔(デビル)」と呼んだ。

 核戦争と大人だけがかかる伝染病のせいで文明が滅びた地球を訪れた、一人の火星人との交流が描かれます。シビアな作品が多くを占めるなかで本篇は一幅の清涼剤でした。
 

「わたしは“無”」(I Am Nothing,1952)★★★★☆
 ――モーサイン星のダヴィッド・コーマンは、レイニ人に対して最後通牒を送った。先陣を切るのは息子のリード・コーマンだった。だが前線から送られてきた手紙には、リードが現地の少女に降ったとあった。

 著者のうまさが光る短篇です。息子から届いた手紙の宛先に「親愛なる母上」とだけ書かれることによって、父親(夫)への復讐を表現したり(p.234)、少女がからっぽであることをたった三行で表現したり(p.257)、最小限で最大の効果をあげています。
 

  


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