『海を失った男』シオドア・スタージョン/若島正編(河出文庫)★★★★☆

 晶文社ミステリ『海を失った男』の文庫化。訳文が手直しされているほか、「ミュージック」の邦題が「音楽」に変更されています。
 

「音楽」吉村満美子訳(The Music,1953)★★★★☆
 ――病院……あいつらは僕を放してくれない。表へ出て煙草を吸うことはできた。夜は好きだ。その時またあの音楽が、僕の中で響きはじめた。ごみ箱の前に鼠がいた。茶色の塊にみみずみたいな尻尾が生えている。猫が身がまえた。どこか痛いのは、指の爪が舌にくい込んでいるらしい。

 頭のなかに聞こえる音楽とともに殺人を犯す異常殺人者の犯行が、鼠を狩る猫に重ねて語られます。語り手の思考の流れが、短い文章のなかで説明なく語られてゆくので、そのぶつ切れになった思考の飛び島が、理解しがたい殺人者の頭の中を巧みに表現しているようでした。
 

ビアンカの手」若島正(Bianca's Hands,1947)★★★★★
 ――ビアンカは白痴だった。でもその手ときたら……。ランは初めてビアンカの手を見て以来、心臓がどきどきするのを感じていた。母親が手をつかもうとすると、それは嫌がってすばやく逃げた。指先をカウンターに立てて端っこまで走り、一跳びしてビアンカのドレスの襞に隠れた。ランはビアンカの母親の家に下宿し、やがてビアンカとの結婚を申し込んだ。

 ランの視点から見た、ビアンカの手を中心にした踊るような動きの美しさにはため息が出ます。ビアンカの手を中心にして、ビアンカはそのあとからついてくる(ように書かれている)のを読むと、まるで実際に手に意思が宿っているかのようです。最後にビアンカの手が「すっかり息絶えて」しまったのも、それまで手を生き物のように見つめていたランの視点がなくなってしまったのですから、当然のこと、小説だからこそ描ける巧みな視点の切り替えです。
 

「成熟」霜島義明訳(Maturity,1947)★★★★☆
 ――ロビンは胸腺機能亢進症、つまり幼稚症だった。代謝の働きを改めて心理状態の正常化を促すために、ホルモンやステロイドを注射すれば、芸術や科学や産業を生み出す才能が失われてしまうかもしれない。ロビンに対し複雑な感情を抱くペグ・ウェンツェル博士と、ペグに思いを寄せるメル・ウォーフィールド博士は、慎重に治療を開始するが……。

 成熟とは何か――答えのなさそうなこの問題に、著者なりの解答を出しつつ、作品としてもきちんと完結させています。おそらくは人類はチンパンジーネオテニーであるといった説を下敷きに、では成熟したらどうなるのか?を問うた問題作、と言えそうです。
 

「シジジイじゃない」若島正(It wasn't Syzygy,1948)★★★★☆
 ――初めて見た瞬間から、グロリアは特別だった。グロリアの方でも俺のことをそう思ってくれた。俺たちはまったく同じものを共有していた。ところがあるとき男の首が現れて、言った。「わたしの姿はきみ以外の人間には見えない。単為生殖には、シジジイがあったところで、生存価値はほとんどない。シジジイがなければ――」

 異色作家短篇集には「めぐりあい」の邦題で収録されています。なるほどルイス・キャロル的笑いの書かれた文章はある意味で伏線として機能していたんですね。何が現実で何が現実ではないか、自分は何者か、という古典的ともいうべきSFテーマが描かれています。
 

「三の法則」吉村満美子訳(Rule of Three,1951)★★★☆☆
 ――三つ一組からなる三組のエネルギー生命体が、地球という星の文明の検査に向かっていた。地球人の身体はパ・アク・ウィルスに汚染されており、殺し合いをおこなっていた。三組は分裂して地球人の精神に潜り込み、探査を開始した。プリシラはジョンが前妻エディと親しく話しているのを見て機嫌を損ねた。ベーシストのデリクはヘンリーのピアノを聞いてジェインと喧嘩した……。

 男女二組に縛られない関係とはいえ、三組には縛られている。なかなかうまくはいかないようです。
 

「そして私のおそれはつのる」今本渉訳(...And My Fear is Great...,1953)★★★☆☆
 ――老婦人フィービーのところに配達に来た少年ドンは、その場でフィービーから善悪についての講釈を受ける。そのおかげでフィービーには不思議な能力が備わっているのだと言う。ドンはフィービーの影響でそれまでの生き方を変えようとするが、ある少女に出会い……。

 作品内で理屈を披露されると、どうしても説教くさくなってしまいます。もうちょっと書きようはなかったものでしょうか。タイトルは、イエイツのエッセイで紹介されたいた少女の詩から採られているそうです。作中で少女が暗誦する文脈からすれば、心を盗まれた、というだけに過ぎないようにも見えるのですが。
 

「墓読み」大森望(The Graveyard Reader,1958)★★★★☆
 ――こんな場合、墓石にどんな言葉を刻める? 後ろにさがると男にぶつかった。「読ませてもらっていいですか?」。「よくないね」と俺は答えた。「どっちみち墓碑銘を刻むつもりはない」「墓石ではなく墓を読むと言ったんです」。妻はどこかの男とスポーツカーに乗って崖から落ちているのを見つかった。

 裏切りと喪失を一度に体験して心の整理がつかない男が、墓にかぎらずさまざまな自然や人間を知って自分を取り戻してゆくまでの物語です。心境の変化に劇的なきっかけがあるわけでもないし、読んだことが具体的に書かれているわけでもありません。それだからこそ、主人公の身に起こったことは何も特別なことじゃないと感じられます。
 

「海を失った男」若島正(The Man Who Lost the Sea,1959)★★★★★
 ――きみは少年だとしよう。ヘリコプターを手に砂浜を走り回っている。病んだ男のそばを通り過ぎるとき、おもちゃじゃないよ模型なんだと言ってやる。男は砂浜に埋もれている。与圧服姿はまるで火星からやって来たみたいだ。ずっと前に潜水病にかかったことがあった。船酔いにならないコツは気を紛らせること! 泳いでいるときに内なる海の内臓に手を伸ばそうとするあの巨大なアメーバに近づくな。

 実際の走馬燈というものはこの作品のような、意識が一気に押し寄せて混乱したごたまぜの万華鏡のようなものなのではないか、と思わせられてしまいます。おもちゃと模型の違いを気にする子どもらしいこだわり、海と波という大きく動きのある世界。たとえ重苦しいものにせよそうした広い世界から、ぶれていた視点がすうっと一人に収斂してゆく最後の数ページからは、孤独と喪失が押し寄せてきます。
 

  


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