『The Wisdom of Father Brown』Gilbert Keith Chesterton,1914年。
ちくま文庫の新訳ブラウン神父の第二弾。
「グラス氏の不在」(The Absence of Mr. Glass)★★★☆☆
――マギーが結婚したがっているトッドハンター青年は素性が知れない。相談されたブラウン神父は専門家のフッド博士に助言を請いに行った。怪しげなシルクハット姿の影、「その通りだ、ミスター・グラス」という不可解な台詞……部屋で一人縛られているトッドハンターの姿を見たフッド博士は、現場にいないグラス氏とトッドハンターの間にトラブルがあったのではないかと考える。
旧訳では「グラス氏の失踪」「消えうせたミスタ・グラス」となっていましたが、日本語として据わりの悪い「グラス氏の不在」の方が実は正確な訳題であることが、読み返してわかりました。「不在」と「存在」の対比のほか、真相を見れば明らかなように、これはグラス氏の「失踪」ではなく「不在」にほかなりません。フッド博士の推理は「創造されざる存在を虚空から呼び出された」と、いみじくも神父が指摘しているように、ホームズひいてはミステリのパロディ要素が強く出ていました。チェスタトン流のロジックは、「あの人の帽子」と「あの人の持っている帽子」の微妙な違いに見ることができました。
「盗賊の楽園」(The Paradise of Thieves)★★☆☆☆
――イタリアの田舎ではいまだに山賊が出ると、ムスカリもイギリス人令嬢エセルも信じていた。エッツァ青年の案内で、エセルの父親である銀行家ハロゲイトと兄フランク、そしてブラウン神父ら5人が山道を越えようとしている途中、一行は馬車から崖下の草むらに投げ出され、盗賊王モンターノに囚われた。目的はハロゲイトの身代金だった。
あるいはこれは、「イギリス人から見た外国」を諷刺してもいるのでしょうか。日本を舞台に置き換えるならば、忍者に襲われて金を盗まれた、というくらいに荒唐無稽なのだと思われます。そもそも二千ポンドの大金を仕事で輸送中でもないのに持ち歩いていて、山賊に盗まれた、では誰も納得しないと思うのですが、「警察でもたいていの者が本気にしました」そうです。ブラウン神父ものにリアリティを求めるのは筋違いではあるのですが、ロジックやトリックの魅力が薄いと、どうしても計画の杜撰さのような粗が目立ってしまいます。
「イルシュ博士の決闘」(The Duel of Dr. Hirsch)★★☆☆☆
――イルシュ博士は科学の聖者だった。無政府主義者でも反愛国主義者でもなく、軍備縮小に関する意見は穏健で漸進的だった。ところがデュボスクという愛国者が、博士をスパイとして告発した。博士が機密書類をドイツに売った証拠の手紙を手に入れたという。告発された博士はデュボスクに決闘を申し込んだ。
イタリアに続いてはフランスが舞台です。Hirsch というスペルからすると博士はドイツ系なのでしょうか、なるほど疑わしさが増す効果がありそうです。むしろイルシュ博士の側からすればそれを逆手に取った計画だったのでしょう。ここまでミステリとしては見え見えのしょぼい作品ばかりですが、当たり前のことを別の角度から見てみる、という観点に立てばそれなりの意味はあるのでしょう。「正確に間違う」がこの作品の逆説です。フランボーがまるで都合よく情報を手に入れられるただの便利キャラになってしまったようですが、考えてみるとフランボーはフランス人なのだからこの作品に登場する意味はあるのですね。
「通路の男」(The Man in the Passage)★★★☆☆
――シーモア爵士とカトラー大尉は女優オーロラ・ローム嬢をめぐる恋敵だった。ローム嬢に相談があると呼ばれたブラウン神父は、衣装方のパーキンソン老人が鏡を引き出したり押し込んだりしているのを眺めながら待っていた。そのとき悲鳴が聞こえ、刃物で刺し殺されたローム嬢が見つかった。二人の恋敵は通路の奥に怪しげな男を見たと言い、俳優が逮捕された。
何でもない光景に特異な意味を見出してしまうという点で、本書収録のほかの作品と共通するところがありました。トリックというにもお粗末な犯行方法が、通路の男というレッドヘリングによって隠されている……と一応は分類できますが、図らずも目くらましになってしまった人間の認識(ひいてはそれを引き起こす思い込み)にこそ重点が置かれています。
「機械の誤り」(The Mistake of the Machine)★★★★☆
――心理測定法の本を読んでいるフランボーに、ブラウン神父はシカゴで体験した出来事を話して聞かせた。刑務所で看守が殺され「正当防衛だ」という血文字が残されていた。その直後、副所長のアッシャーが襤褸をまとって前屈みで畑を疾走する怪しい男を捕まえた。その男が脱獄犯だと考えたアッシャーは、行方不明の貴族を殺したことを証明するために男を心理測定機械にかけると、見事に反応があった。
作中で披露されるアメリカ観は今でも通じるような、ある意味ステレオタイプともいえるものですが、最後にいたり翻ってイギリス観に転じるところに、チェスタトンらしい逆説が見られました。「折れた剣の招牌」の冒頭のやり取りもそうでしたが、ここでも冒頭のフランボーの「指し示しているステッキのどちらが正しい端か」というやり取りが思わせぶりでも何でもなくズバリ核心を突いていることに驚きます。犯人のアメリカ人はやはりただのごろつきでしかないのですが、イギリスの貴族はごろつきではないというアメリカ人による思い込みの方が肝になっていました。
「カエサルの首」(The Head of Caesar)★★★☆☆
――「あの付け鼻の男のあとをつけてくれないかね」ブラウン神父はフランボーに言うと、居酒屋にいた赤毛の娘から話を聞いた。父親からローマ時代の貨幣コレクションを相続した兄もまた貨幣に取り憑かれていた。肖像の横顔が恋人に似ていたことから貨幣を一つくすねてしまった娘は、それから鼻の曲がった男につけねらわれることになった。
付け鼻の男の正体についてはもろバレなのですが、冒頭の果てしない一本道の描写であったり、フランボーへの唐突な一言であったり、「強請りには観念的には三人必要だが――」というロジックであったり、ブラウン神父ものの魅力はやはり言葉なのだなぁというのがわかる一篇です。
「紫の鬘」(The Purple Wig)★★★☆☆
――新聞記者が出会ったおかしな三人組は、公爵とその司書と神父だった。エクスムア公爵は呪われた一族の末裔であり、呪いによる長い耳を鬘で隠しているのだと言われていた。
紫の鬘などという、一般人ですら奇妙に感じるであろう存在に、不審を抱かせないどころか、むしろ不気味な雰囲気をすら漂わせているのは、ひとえにチェスタトンの文才によるもので、つまりは目立つ鬘をかぶっているのは目立ちたかったからだという当たり前の話がミステリに変身している、ある意味でチェスタトンらしいとも言える作品でした。
「ペンドラゴン一族の滅亡」(The Perishing of the Pendragons)★★★★★
――ブラウン神父とフランボーは、ファンショー爵士とヨットで川を上っていた。奇妙な家に住んでいる提督と呼ばれる男がいた。その男ペンドラゴンの祖先はスペイン人を殺したせいで呪われているという言い伝えがあった。一族の男が実際に難破して死んでいた。
ほぼ物語も終わろうかという終盤直前の解決編になって、ようやく何が起こっていたのかが明らかになり、それと同時に事件も解決しているという、神がかり的な傑作です。それを可能にしているのが、冒頭の風景描写や世間話に埋め込まれた周到な伏線でしょう。また、葉巻を吸っている人間は火事の灰を見ても葉巻の灰だと思う云々といったチェスタトン流のロジックも見事です。
「銅鑼の神」(The God of Gongs)★☆☆☆☆
――行楽地の楽団用ステージにのぼったブラウン神父は、床を踏み抜いてしまった。ステージをあとにしてホテルに向かった神父は、ホテルの主人がさがしている男に会ったと答えるのだった。神父がその男の特徴を話し始めた途端、そばにいた男に襲われ、危ういところでフランボーに助けられた。
ペンドラゴンでは上手くいっていた現在進行形の事件描写がこの作品ではまったく成功していません。わけがわからないまま秘密結社が出てきておしまい。ブラウン神父の披露する「人を殺すなら人込みの中」というパラドックスも、今となってはメジャーになりすぎてしまいました。
「クレイ大佐のサラダ」(The Salad of Colonel Cray)★★★☆☆
――ブラウン神父がミサから帰っていると、パトナム少佐の家から銃声が聞こえた。撃ったのはクレイ大佐で、撃たれた相手は悲鳴ではなくくしゃみをしたという。大佐はインドにいた時に怪しい男に呪いをかけられたと口にしたことから、婚約者からも少佐からも心配されていた。
犯人が呪いを利用したというよりは著者のただの雰囲気づくりに思えてしまいますが、犯行計画によってもたらされた結果の一端が「くしゃみ」という奇妙な形で表出されているのが、この作品をまぎれもなくブラウン神父ものの一篇たらしめています。
「ジョン・ブルノワの奇妙な罪」(The Strange Crime of John Boulnois)★★★★☆
――ジョン・ブルノワは世間とは無縁の生活を送る哲学者だった。そこそこ名のある女優だったブルノワ夫人がクロード・チャンピオン爵士と噂を立てられたときにも気にも留めなかった。アメリカの新聞記者キッド氏がブルノワ家を訪れると、約束をしていたというのにブルノワは出かけたと言われてしまった。
チャンピオン爵士が抱いていたパラドックスに関しても、いつどこででも現実に見かけそうな説得力のある妬みそねみですが、それ以上に、ブルノワの犯した奇妙な罪には共感できました。それが「召使い」という形を取ったために奇妙なミステリを生み出しています。
「ブラウン神父の御伽噺」(The Fairytale of Father Brown)★★☆☆☆
――プロイセンのとある国を訪れたときのこと。その地でかつてあった不思議な事件のことをフランボーが話して聞かせた。オットー公が頭と肩を撃たれて殺されたのに、銃はどこにもなかったという。発見者は花摘み娘だったが、摘まれた花はどれも茎ではなく頭からもぎ取られていた。
銃は遠くからでも人を殺せるのだから、実のところは謎でも何でもないのですが、動機の面と目の前の容疑者に捉われた結果、謎めいてしまったのでしょう。とはいえつまるところは伝聞の噂話であり、それに対する神父の解答もまた御伽噺に過ぎないのであれば、とやかく言っても仕方ありません。