『Słoń i inne opowiadania』Sławomir Mrożk,1974年。
初期の短篇集4冊の合本『象その他の物語』のうち、『実用的な半鎧』を除く3冊のなかから2/3ほど選んだもの+漫画集『デッサン集』から選ばれたものです。
『象』(Słoń,1957)
「馬になりたい」沼野充義訳(Chcę być koniem)★★☆☆☆
――どうにかして馬になりたいもんだね……そうなったら特別扱いだ。
人と違えば何でもいい、というわけでもないでしょうに、死んでまで人と違うことに意味を見出す根性には笑いを禁じ得ません。
「白鳥」長谷見一雄訳(Łabędzie)★★★☆☆
――白鳥の盗難を防ぐため公園の番人になった老人は、さびしさから白鳥を連れて酒場に行った。
ミイラ取りがミイラ……とはちょっと違いますが、すぐにさびしがる性格といい、目を離せないから白鳥も一緒に――という安易な発想といい、起こるべくして起こった結果と言えそうです。
「小人」長谷見一雄訳(Mały)★★★★☆
――小人の劇団のなかでも一番のスターだった一番小さい小人は、あるとき自分の背が大きくなっていることに気づいた。
一つの価値観に囚われてしまうと、その価値観から外れてしまうことは恐怖にほかなりませんが、別の視点で見れば、外れた先にまた別の価値観の世界が待っているだけでした。
「奇跡的救済の寓話」長谷見一雄訳(Przypowieść o cudownym ocaleniu)★★★☆☆
――エーリッヒは神様の御命令の正しさに疑いを持ち、平和主義者になりおった。軍隊に召集を受けたときにはたいそう恨んだものじゃった。神様の御意志なくしては世のことなど何一つ起こらないというのに。
神のご意思も解釈次第、気持次第。
「ひとりごと」西成彦訳(Monolog)★★★☆☆
――子供のころおれはオーケストラがどうしても好きになれなかった。ところで、ヴィスワ下りの季節だね。おおい、スターシャ。同じやつを二杯おかわりだ。
ひとりごと、という通りの、独白体小説。
「時代背景」長谷見一雄訳(Tło epoki)★★★★☆
――山高帽をかぶった男が、ドアの前で新聞を取り出し、話しかけた。「解答を持ってきたのじゃが」「何ですって?」「ここにはもう編集部はないようじゃな」
時代背景というタイトルにしても、泰然として苦労知らずに見える年配者と政治と歴史の犠牲者ぶりたがる語り手の対比にしても、諷刺の色は歴然としていますが、それよりもまず、高い窓の外に見える通行人の帽子を、水没した町を流れる水死体の帽子と表現する感性に目を惹かれます。
「抽斗のなか」吉上昭三訳(W szufladzie)★★★★☆
――今朝がた眼鏡を捜して抽斗を開けてみると、なかに小人たちが暮していた。娘の母親にふたりの結婚を許してもらえるようわたしに口添えしてほしいという。
人の立場による物の見方の違いが端的に表現されています。それにしても何とくだらないことで万能感に浸り、くだらないことで現実に引き戻されるのでしょう。
「事実」沼野充義訳(Fakt)★★★★☆
――ざんげいたします、神父さま、その、あたしには夫がいるんです……えっ、とんでもない、もちろんちゃんと式を挙げました……まあ、そんなことはありません。結婚してからも、変わりなく優しい人でした……
クレイグ・ライス「煙の環」のような気持ち悪さです。
「ジグムシのこと」西成彦訳(Wyznanie o Zygmusiu)★★☆☆☆
――ジグムシが先生に質問した。「カタツムリがだれかを蹴とばしたいときはどの足でやるんですか」「カタツムリには足が一本しかないだろう」。ジグムシは嘘つきだ。家に帰ると「きょう先生が言ってたけど、カタツムリってのは左の足で蹴るんだって。僕が右足だって言ったら先生は椅子の下に隠れちゃった」
どこにでもいるクソガキの話です。
「協同組合「単身者」」長谷見一雄訳(Spółdzielnia "Jeden")★★☆☆☆
――飲んでいる最中に友人が帰ってしまった。午前中で酒場はまだ空っぽだ。そんな孤独な単身者のために、当直の職員を派遣しようという組織だった。
社会主義発展について語り合える相手を希望される、という、あからさまに諷刺を利かせた作品でした。
「黄金の思想と格言」沼野充義訳(Złote myśli i sentencje)★★☆☆☆
――黒人について:黒人歌手がかすれ声で歌うのはひどい住宅事情のせいである。雪:粉になった水。すべての貝殻に海の響きが聞こえるわけではない。自殺:受話器の代わりにピストルを頭に押し当てること。
ムロージェック版『悪魔の辞典』ですが、いかんせん機知に欠けています。
「公民の道」長谷見一雄訳(Droga obywatela)★★★☆☆
――気象台長が真実通りに天候を記録して報告していたところ、当局から召喚された。「君の報告には悲観的な調子が目立つ。収穫期だというのに、雨のことばかり書いてある」
国家によるプロパガンダや言論封殺を諷刺した作品ですが、これに近いことは世間でも普通におこなわれているところが怖いです。
「おじさんの雑談から」沼野充義訳(Z gawędy wuja)★★★☆☆
――たいした祭日だった。ところがいざ坊さんたちが鐘をつこうとしたら、うんともすんともいいやしない。町に不信心者がいてさ、こっそり鐘をはずして、かわりにフェルトの帽子をぶらさげておいたんだ。
おじさんの与太話、ということで、数行のものからショートショート程度の長さのものまで、しょーもない内容の掌編集といったところですが、出来不出来の差がありました。
「事件」長谷見一雄訳(Zdarzenie)★★☆☆☆
――私が喫茶店で紅茶を飲んでいると、妖精がテーブルを横切っていた。「もしもし! お変わりありませんか?」「相変わらずです」「相変わらず? しかし平凡さなどというものは全くみせかけであり……」「あのう、私たちは単なる妖精で、神父でも大学教授でもないんですよ」
妖精というものは人間にはない力を持っている、という考え方そのものが、人間が囚われている常識に過ぎません。
「旅の道すがら」吉上昭三訳(W podróży)★★★★☆
――馬車が町を出てしばらくすると、郵便局員の制服を着た男たちが、無表情な目で道に立っているのが、次々と現れた。驚いたわたしに、馭者はこう言った。「あれが仕事でしてね」
馬鹿らしさも突き抜けると輝いて見えます。最後の方になって雇用確保のような、諷刺めいた言説も口にされますが、それが蛇足に思えてしまいます。
「芸術」沼野充義訳(Sztuka)★★★☆☆
――芸術は人間を教育するといいますからな。たとえばプルーストは人生なんか知っちゃいなかった。バルザックのように、意識が遅れていても進歩的な作品になることもあります。
偉そうに理屈をぶっておいて、くだらなくて俗っぽい願望。よくあるネタですがこれまでさんざん諷刺作品を読まされてきたので、理屈自体に意味があるだろうと思ってしまったのが思うツボでした。
「恋する森番」西成彦訳(Zakochany gajowy)★★★☆☆
――鼻の下にめっぽう長い髭を生やした森番がいた。森番は領主の娘に惚れこんでいた。だがお目通りはむずかしい。あるとき森番がウサギを担いでお屋敷にいくと、奥さまと女中が洗濯籠を提げて現れた。奥さまは周囲を見回し、紐と森番に気がつかれた。
急に童話みたいな作品の登場ですが、鼻の下……? 顎髭じゃないのがシュールですが。
「ポーランドの春」長谷見一雄訳(Wiosna w Polsce)★★★★☆
――四月初めごろ、屋根の上方に、鳥のようにどこかの男性が浮かんでいた。春はますます暖かくなっていった。上空には、コート姿の書類かばんを持ったシルエットが、ますます頻繁に見られるようになった。
やはり諷刺などを飛び越えてシュールで幻想的な世界が作りあげられている作品にはいま読んでも褪せない魅力があります。
「懐疑的な人間」西成彦訳(Sceptyk)★★★☆☆
――よその惑星にも人類が存在するというんですか。わたしは信じません。火星に運河があるですって? 思考力のない生き物に、そんなものが造れるはずがない。
懐疑的、というより、自分の信じたいこと以外は、たとえ事実を目の当たりにさせられても信じようとしない、という人間はいるものです。
「象」長谷見一雄訳(Słoń)★★★★☆
――そこは田舎の動物園で、中でも象のいないのが痛手だった。それだけに立身出世主義者の園長が、象の割り当てを放棄したと知った時には、職員たちの驚きは一際大きかったのである。官僚主義的な役人に嘆願書を受理させた園長は、巨大なゴムの被膜を作らせ膨らませた。
これも「ポーランドの春」同様、諷刺を飛び越えて奇想やナンセンスの域に至っている作品ですが、ここに書かれた園長や役人のような人間は、現代の日本でも充分にリアルです。
『原始村の婚礼』(Wesele w Atomicach,1959)
「蠅の呪い」吉上昭三訳(Muchy do ludzi)★★★★☆
――おれたちの仲間はもうほとんどいない。おまえたちの望みどおりに。図体ばかりでかくてぶざまなおまえ。よもや忘れはしまい。「神様も罪なことをなさる、うじ虫どもに羽をやるなんて……」と言っていたことを。
人間にとって当たり前すぎて気にも留めないことを、蠅の側から擬人化するだけで、奇っ怪な物語になってしまいます。
「邂逅」長谷見一雄訳(Spotkanie)★★★★☆
――何もない道の向こうから、誰かが歩いて来た。普通にすれ違うだけだと思っていた。だが彼は私の行く手を塞ぎ、こう言った。「明日はきっかり七時に私の家へ掃除しに来て下さい」「私がですか?」
襲い来る不条理、そしてバカげたオチ。その落差から生まれる笑い。一粒で三度おいしい作品でした。
「出発」沼野充義訳(Odjazd)★★★☆☆
――今日こそは出発の日。こんな家で暮らすのはもううんざりだ。馬鹿げたことだが胡椒を忘れてはならないと思うと気が気ではない。胡椒なんかが道中に要るものか。
明日から本気出す、というやつです。
「もっと低く」長谷見一雄訳(Niżej)★★★☆☆
――「気がついたかい。道が低くなってるよ」アルトゥルが言った。実際、僕たちは一時間前から絶えず下に向かって進んでいた。左右の水平線はまっすぐ一方に向かって傾いている。
発想自体は赤塚不二雄の漫画にあるようなナンセンスなのですが、それを真面目っぽく小説の形で描かれるとこうなるのかな、という感想です。
「森で発見された手記」沼野充義訳(Rękopis znaleziony w lesie)★★★★☆
――震える手でこれを書いている。いま俺のいる場所と時間を示すのはやめておこう。かつて俺たちが閉じ込められていた刑務所は、もうだいぶ前に見捨てられてしまった。刑務所の周りには森が広がっているから、俺は枯れ枝を集めて暖を取っている。
不条理のようでいて、おそらくは現実を描いているのではないかと思われる一篇です。革命や戦争が起これば、あり得ないことが当たり前に起こるのでしょう。
「休暇中の冒険」西成彦訳(Przygoda w czasie ferii)★★★☆☆
――ぼくは友人Kから田舎に招待された。連日の遠出。しまいには見たこともない場所をさまよっていた。負傷兵に出会った。義足の老人。片腕の男。両脚のない男。音楽が聞こえて来たので建物の中を覗くと、信じがたい光景を目にした。演奏していたのは手が三本ある男だった。
どことなく落語の一つ目の国を連想させるエピソードです。
「罪と罰」沼野充義訳(Wina i kara)★★★☆☆
――守護天使は途方に暮れていた。少年は次から次へと悪いことをして、天使の囁きに耳を傾けなかった。思いあまった天使はついに少年を殴りつけた。
天使の話といいながらしつけの話のようなギャップがいい味を出していますが、結局のところこの少年は初めから悪の心を持っていたようで、囁こうと殴ろうと悪の表現方法が変わるだけだったようです。
「誰が誰か?」沼野充義訳(Kto jest kto?)★★★★☆
――ぼくの乗り込んだ列車には、砲兵隊の将校、うら若い娘さん、商人風のひげ面の、修道士、高貴な顔立ちの老人、チビのせむし男がいた。「何か歌でも歌いましょうか」と商人が言うと、「歌うのは行軍の時だけです。将校の私が言うんだから間違いない」と反論された。それでも商人は歌い出したが、声が低音から突然ソプラノに変わった。
明らかに当時のポーランドの世相を反映しているのですが、誇張された疑心暗鬼がドタバタギャグのようにまで至っています。とはいえ誇張前の時点で充分におかしな世界の話なのですが。
「原始村の婚礼」(Wesele w Atomicach)★★★☆☆
――新郎は立派な実験所と原子炉を二基ばかり持っていた。それに屋敷内には化学工場も。新婦の父親は持参金として発電所を与えることにした。かくして婚礼の披露は原始村でおこなわれる仕儀となった。ばか騒ぎがはじまった。若者は原子弾頭を懐にしのばせていた。
諷刺とバカバカしさという点ではこれも同じなのですが、バカバカしさの具合がちょっと幼稚かな、という気がします。
『雨』(Deszcz,1962)
「小さな友」吉上昭三訳(Mały przyjaciel)★★★★☆
――犬に襲われていた子猫を拾ってから、ぼくは何をしても罪悪感を持たなくなった。女を手ごめにしても、公金を着服しても、嘘をついても、何とも思わず、その代わり子猫はどんどん衰弱していった。どうやらこの子猫は生贄の山羊のようなものらしい。
濫用したせいで子猫の命が尽きそうになり、子猫の能力を殖やそうとぎりぎりのところで賭けに出るブラックユーモアも笑えますが、そのすべてにケリをつけるスマートなオチも見事です。
「ウグプー鳥」長谷見一雄訳(Ptaszek ugupu)★★★★☆
――私の研究対象は動物間の共生であった。観察の基礎としたのは他の場所では絶滅したサイの一種だった。まず気づいたのは、サイがキツネと連れ立ってどこかへ行くことだった。キツネはサイに食物の場所を教え、サイが掘った穴に飛び込んでアナグマの雌と交尾していたのだった。
共生関係というか風が吹けば桶屋が儲かるというか、どうしてこんな変なこと思いつくんだろうというような動物間のつながりが描かれています。そこでウグプー鳥という架空の鳥を出してくるのはちょっとずるい気もしますが、それによって人間までからめてくるのはお見事です。
「アド・アストラ」西成彦訳(Ad astra)★★★☆☆
――小説家がバーで見かけた青年は一心不乱に紙に何かを書きつけていた。それは小説の下書きだった。うむを言わせない文才が見えたため自宅に招いて育てようと考えた。青年は六十個のパンを抱えて小説家の家で原稿を書いたが、翌朝、青年は消えていた。聞き込みをして行方を突き止めると、そこでは六十人の人間が一同に会して傑作を執筆していた。
新しい人類の誕生というようなSFに似たところもあるのですが、人類とまではスケールが大きく出ずに、文学作家というくくりで留まっています。そのおかげで冗談なのか真面目なのかよくわからない、この著者らしい作品になってました。
「望み」沼野充義訳(Nadzieja)★★★★☆
――白紙の手紙が届くようになった。我慢ならなくなって消印のある大きな町へ行ってみると、ホテルのフロントにぼく宛ての手紙が届いているという。開けてみて後悔した。あるとき友人から鴨猟に誘われた。鴨の群れのなかに別の鳥がいた。
封筒に入っている手紙、というのがポイントです。開けてみなければ白紙かどうかはわからないわけで。見たくない、でも見なければわからない。嫌がらせとしても一級品だと思います。
「鷲の巣城の没落」長谷見一雄訳(Upadek orlego gniazda)★★★☆☆
――公爵はシニェーグス狩りをおこなっていた。シニェーグスとはシュネーマンつまり雪だるまのことだ。公爵の姪によると、公爵は保護した孤児たちに過酷な雪だるまづくりを強いているのだという。シニェーグスの潜んでいる茂みに、勢子たちが携帯焜炉を近づけた。
雪だるま狩り。嘘は言っていません。それどころか、登場人物が雪だるま狩りをするのだと断言しています。けれど読んでいる者の常識がそうした情報を修正してしまいます。並んでいる雪だるまを壊すなり何なりするのだろうと……。けれど物語は常識など知らぬが仏、この作品の雪だるまは動き回ります。「雪だるま狩り」という言葉に合わせて、現実の方を変えてしまうというすごいことがしれっとおこなわれていました。
「野営」西成彦訳(Na biwaku)★★☆☆☆
――脅迫を受けている感じがつきまとっていた。どこぞへ高飛びでもしてしまおうか。わたしはテントとキャンプ用具一式を購入し、警察に向かった。守衛の詰め所の裏側に野営地を設けた。
確かに安全といえばこれほど安全な場所はないようにも思えますが、もともとが強迫観念症じみた人間だったので、結局は「見張り」の存在を認めてしまうはめになってしまいました。
「我かく戦えり」長谷見一雄訳(Jak walczyłem)★★★☆☆
――朝、牛乳を取りに出ると、家の前の通りにバリケードがあるのに気づいた。こいつはすごい。ベッドなんかに潜ってちゃいられない。「戦いたいのですが」。次々と積み上げてバリケードはどんどん高くなった。
典型的な「戦いのための戦い」どころか、戦い以前にバリケードを積むのが目的になってしまっています。
「笑うでぶ」沼野充義訳(Ten gruby, co się śmiał)★★★☆☆
――その男は遠くから見ても並外れて太って見えた。だがそれは別に驚くべきことではない。驚くべきはその男が全身を揺すって笑っていたことだ。突然、またもや大きな笑い声が聞こえ、二人の太った男が見えた。生け垣の向こうには太っちょが三人いた。
アンソロジー『東欧怪談集』にも収録されていました。不条理きわまる光景が繰り広げられていたわりには、その理由(オチ)が当たり前すぎるように思います。
「中断」長谷見一雄訳(Interwał)★★☆☆☆
――久しく待ち望まれていた二人の大レスラーの闘いが実現した。試合時間は延長されたが決着はつかず、明日闘いが再開されるまでの間、厳密に同じ体勢を競技者に保証するため、二人は現状のまま封印されることになった。
二人そろって身動きできない状態にされてしまった以上、することと言ったらひまつぶししかないわけで……。
「王手」長谷見一雄訳(Szach)★★★☆☆
――扁桃腺の友人の代わりに私は人間チェスのビショップの駒の仕事に向かったが、プレイヤー二人があまりに下手だったため、いつまで経っても勝負がつかなかった。雨も降り夜が近づいて来たため、私は気づかれないように移動して相手の駒を取り始めた。
ルールが機能しないなかで、早くプレイをやめたがっている現場の人間同士による暗黙のルール破りが黙認されていますが、そんななかプレイヤーも現場の人間もルールも無視してただただ自己の欲望のままに暗躍する存在がいます。