『文豪ノ怪談 ジュニア・セレクション 呪』東雅夫編(汐文社)★★★★☆

 第4巻はテーマも「呪」というだけあってか、カバーイラストも呪いそのまんまで挿絵もストレートに怖い絵になっています。
 

「笛塚」岡本綺堂(1925)★★★★☆
 ――十一番目の男が語る。僕の国では昔から能狂言が盛んだった。武士のうちにも笛をふく者もあった。十九の若侍である喜兵衛も、秘蔵の笛をふきながら川原を下っていくと、名笛をふいている乞食に出会った。元々は武士であったが、倒れていた四国遍路を介抱したお礼にその笛を託されたのだった。「その笛は祟るぞ」……。

 怪談集『青蛙堂奇談』の一篇。怪異とも偶然とも言えない不幸の連鎖のあとに、すべては釈迦の掌とでもいうような事実が明らかにされます。この黒幕(?)の大きさは、もはや祟りというより天運といってもいいほどで、カタルシスさえ感じてしまいました。九百九十という数字も、百物語の九十九夜のようで何やら意味深です。
 

「百物語」三遊亭圓朝(1894)★★★☆☆
 ――玉利屋という貸座敷へ通いましたある法華寺の和尚が借金で首がまわらぬのか自殺いたしました。執念が残っていたのか夜な夜な玉利屋へこの和尚の妄念が出るというので、玉利屋では心配して田川という代言の先生へ相談いたしました。

 どういう怪異か事前に説明しない玉利屋もタチが悪い(^^;。とはいえそれを伏せておくのが怪談としての骨法でしょう。実話怪談愛好家に好まれそうな、ささやかながらも身近に迫る怪異です。
 

「因果ばなし」小泉八雲/田代三千稔訳(Ingwa-Banashi,Lafcadio Hearn,1899)★★★☆☆
 ――大名の奥方が危篤におちた。春の楽しさのことや子どもたちのこと、夫の側室たち――特に十九歳になる雪子のことを考えた。「最後のお願いがひとつ、ここへ雪子をお呼びくださいませ、妹のようにかわいがっているあれに、お家のことなど申しておきたいとぞんじます」

 因果ばなしというタイトルでありながら因果の内容は明らかにされず、ただただ嫉妬に狂った奥方の呪いを一身に受けるに任せるだけの状況が描かれます。因果という都合のいい設定を用いることで、何の説明もない不条理な恐怖が生まれるという意味では、現代的な怪談になっていました。
 

「這って来る紐」田中貢太郎(1934)★★★☆☆
 ――禅寺に美男の僧があって附近の女と関係しているうちに、己の非行を悟って田舎で修行することにした。女は衣の腰に着ける紐を縫って「私の形見に、いつまでもつけていてください」と云った。寝る時になって衣を脱いで帯といっしょに衝立へ掛けて寝たが、しばらくすると何かの気配がする。

 タイトルでネタバレされ、味も素っ気もなく淡々と怪しい出来事だけが描かれているのが、創作ではなくまるで事実を読んでいるようで、下手に凝った文章よりも却って怖い。
 

遠野物語(抄)」柳田國男(1910)★★★☆☆
 ――昔ある処に貧しき百姓あり。美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ぬ。父この事を知りて馬を木につり下げて殺したり。娘この馬の首に縋りて泣きいたりしを、父が馬の首を切り落とせしに、娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。

 遠野物語より、69段からのオシラサマの、17段からのザシキワラシの項が選ばれています。オシラサマは泉鏡花『山海評判記』などの編纂で近年の編者が力を入れている題材で、ザシキワラシはキャッチーな妖怪譚として選ばれたといったところでしょうか。座敷童は人を呪っているわけではありませんが、一族が根絶やしになって没落してゆく絶望は圧巻です。
 

「予言」久生十蘭(1947)★★★★★
 ――石黒が巴里でセザンヌを手に入れ、留守宅へ送ったことを聞きつけた。セザンヌは安部にとって神のごときものであったから、参詣せずにおけるものでもない。ところが石黒の細君が自殺するという大喜利が出、新聞が書き立てたのでうるさいことになった。先日、石黒から手紙が届き、安部が拳銃で自殺することになっていると予言してよこしたのには笑った。

 読むのは何度目かになりますが傑作です。わたしはやはり、人称のない一人称と三人称安部視点という表面上は違いのない人称による文章や、猛スピードで物語が畳まれる結末の切れ味に唸らされてしまいますが、編者はある存在の登場シーンを白眉に挙げていました。確かにあそこは空気の変わる場面で、現実だったはずの世界がいつの間にか異世界になっていることに、否が応でも気づかされます。
 

「くだんのはは」小松左京(1968)★★★★☆
 ――戦時中、僕の家は芦屋で焼けた。中学三年の時だった僕は、家政婦だったお咲さんがいま住みこみで働いているお邸に厄介になることになった。お邸には病人がいるらしく、女の子の泣き声が聞こえてきた。とても痛そうに泣いている。「母屋の方へはいらっしゃらないでください」とお咲さんは言った。また空襲があった時、「逃げませんか」とたずねる僕に、おばさんは言った。「ここは焼けません」

 小松左京というと小説が下手くそという印象しかなかったのですが、読み返してみると、戦時中の子どもが感じていたであろう正直な感覚と、血塗れの包帯やドロドロの食事という直球のホラーによって、暗く不安な状態が活写されていました。タイトルからするとお邸のおばさんが主人公みたいに思えますが、そうではなく、ひらがなで「はは」と続けたときの効果を狙ったものでしょうか。最後の最後に安っぽくなってしまうのが返す返すも残念です。
 

「復讐」三島由紀夫(1954)★★★★★
 ――明るい避暑地の一画に妙に暗い家を見ることがある。近藤家では壊れているものは何もなかった。家族は五人である。当主の虎雄と妻の律子、母の八重に、母の姉の奈津と出戻りの治子が居候している。夕食の席で律子が沈黙を破った。「きょう私、泳ぎに行ったの。そのときたしかに玄武がいたのよ」玄武という名が出ただけで五人とも体を固くした。「そんなばかな。第一、律子さんは玄武の顔を知らないじゃありませんか」

 冒頭から数ページにわたって続けられる、見た目に変わったところはないというのに妙に暗い家の描写や、その家で暮らす不自然な家族の様子に引き込まれます。玄武という名の男の復讐に怯えているのはわかりますが、どんな復讐なのかはわからないまま、ただただ家族の不安や焦燥だけが募ってゆきます。このまま復讐の内容が明かされないまま終わるタイプの作品なのだろうと思いながらクライマックスに至り、普通に復讐内容が明かされて拍子抜けした途端の、最後の一言に打ちのめされました。
 

「鬼火」吉屋信子(1951)★★★★★
 ――忠七は瓦斯会社の集金人だ。押売りではないからひけめはない。いつもいないのか、居留守を使うのか、ともかく今日という今日は、自分の職務を遂行しなければ――。「こんちは」土間に靴の足を踏み込むと、髪がほおけた女が立っている。「……すみません、主人がなかなか病気なもんですから……」

 下手な作家が書けば貧乏ゆえの悲劇に過ぎないことが、著者の手にかかると途端に凄みのある作品に変わります。それは瓦斯の鬼火であったり、帯であったりする、細部の賜物でしょう。何度も言及される紫苑の花は「いつまでもわすれさせぬ草」というよりは、ガスの火の色と重ねられているのでしょうか。
 

「幻妖チャレンジ!」

「鐵輪(一幕劇)丑の時詣りの小戯曲」郡虎彦(1913)★★★★☆
 ――「晴明樣、橘元清と申しまする。やさしい夜の眠りを買はうとしましても、まどろめば直ぐ前の妻が現れて、恐ろしい呪を吐きかけ乍ら息の根をとめに參ります。後妻なぞは己が身の呪はれてゐることさへ覺えては居りませぬ」「もうどのやうな奇蹟も役には立たぬのぢや。お身の星は落ちてしまふた」

 能狂言「鉄輪(かなわ)」の再話。最後には魂が救われて成仏することが多い能狂言に対して、郡版の「鐵輪」では呪いが成就し、誰も救われることはありません。それともあるいは思いを叶えた前妻は救われたのでしょうか。
 

「咒文之周囲」日夏耿之介(1928)★★★★★
 ――夢たをやかな密咒を誦すてふ/蕃神のやうな黃老が逝つた/「秋」のことく「幸福」のことく「來し方」のことく//冬天に咒文をふりまき/風狂の老漢が逝んだ/燼のことく 流鶯のことく 祕佛のことく//……

 初めて読んだのはいつのことだったでしょうか、人を一目で虜にしてしまう魔法のような言葉の連なりに、ただただ呆然となり陶酔していたことを覚えています。咒文のことを詠みながら同時にこの詩自体が呪文めいて人の心を絡め取るようです。

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