奇妙な味を中心としたアンソロジー第2団。『街角の書店』以上に「理屈では割り切れない余韻を残す」作品を重視したとのこと。
「麻酔」クリストファー・ファウラー/鴻巣友季子訳(On Edge,Christopher Fowler,1992)★★★☆☆
――ナッツを噛んで歯が砕けてしまったサーロウが歯医者に行ったが主治医はセミナーで留守だった。いつまで待たせるのかと奥を覗きに行くと、代わりの歯科医に治療されることになった。体を固定され……。
サイコ・スプラッタ・ホラー。実際にいそうありそうな狂気や状況が嫌でした。
「バラと手袋」ハーヴィー・ジェイコブズ/浅倉久志訳(My Rose and My Glove,Harvey Jacobs,1984)★★★☆☆
――ヒューバーマンが収集をはじめたのは幼いころだ。未来への嗅覚に恵まれていたのだ。もちろん風変わりな彼はいたずらの標的だった。だが彼はいたずらの記念品を保存した。わたしは彼の唯一の友人だった。あれから二十年。かつて彼と交換したオートバイのおもちゃが懐かしくなった。
子どもの頃の思い出を持たない者が、子どもの頃の思い出の品を取引材料にして復讐を遂げてゆく……なんて惨めで不毛な満足感でしょうか。思い出を懐かしむ側からすればどんなことをしてでも手にしたいものとはいえ。タイトルは『市民ケーン』の薔薇のつぼみとミュージカル『オクラホマ!』の一節より。
「お待ち」キット・リード/浅倉久志訳(The Wait,Kit Reed,1958)★★★★★
――ミリアムの卒業を祝っての南部周遊の旅行も終わりに近づいていた。女手一つでミリアムを育てた母親は、ミリアムにはよい会社に入ってすてきな男性と結婚してほしかった。断じてドラッグストアのアルバイトなどではなく。広場に車を停めて休憩をしていると、母親が急に意識を失った。医者を呼ぶミリアムに、村人たちは心配いらないと説くのだった。他人から治った方法を教わればすぐに治る、と。
編者ルーブリックにシャーリイ・ジャクスンの名が挙げられていますが、少なくとも本篇に関しては小説家としてのスタイルやタイプ云々以前に、とある共同体の因襲を描いたという点で「くじ」を強く連想させる作品でした。夜這いに想を得たと思しき奇習を、村にはびこる人づてという民間伝承に関連させているところが巧妙です。異常な人々のなかに一人残された恐怖は想像するだに鳥肌が立ちます。村人たちに絡め取られて母親に不自然さを感じたものの、実は「娘の幸せ」という一点においてブレがなかったというところにも恐ろしさを感じました。
「終わりの始まり」フィリス・アイゼンシュタイン/山田順子訳(Point of Departure,Phyllis Eisenstein,1981)★★★☆☆
――夫のマークからだと思い電話を取ると「たまに電話をよこすくらいはしてほしいわね」と文句を言われた。電話の主は十三年前に死んだ母親を名乗った。兄のポールならこの種のふざけたまねについて話を聞いてくれるのではないかと思い、電話をかけた。「かあさんから、夕食に来ないかって」「ああ、おれも呼ばれている」。夫も友人も。
母親の霊(だか何だかわからないもの)が兄妹の和解を取り持つという、ただそれだけの内容なのですが、この“霊だか何だかわからないもの”というのがポイントで、この作品はホラーでもファンタジーでもSFでもない、ただそういうことが起こるだけです。
「ハイウェイ漂泊」エドワード・ブライアント/中村融訳(Adrift on the Freeway,Edward Bryant,1970)★★★☆☆
――「七つ」フォレスターは言った。「なにが?」「車だよ。乗り捨てられているやつ。友だちの警官によれば大問題になっているそうだ。運転手と同乗者はそれっきり姿を見せない」「仮説を思いついた」とギルバートが冗談めかして言った。「今年ハイウェイはテレパシーを備えた猛禽類という災厄に苦しめられているんだ」
路肩に放置された新しい自動車、ドライブ中の道路沿いの今にも消えてしまいそうな森や農場。そういったありがちな風景や感覚に、あたかも意味があるかのごとく、謎めいた衣をまとわせていて、まるで都市伝説のさきがけのようです。
「銀の猟犬」ケイト・ウィルヘルム/安野玲訳(The Hounds,Kate Wilhelm,1974)★★★☆☆
――ローズ・エレンは夫が解雇されたことを一週間前から知っていた。ようやく夫が話す気になったらしい。なぜか夫は満足げだった。「もう四十九歳だ。再就職は難しい。家を売って農場を買おうと思う」「農場? 子供たちはどうするの?」ローンは? 保険は? 五月に一家は農場を買い引っ越した。ローズ・エレンは犬に気づいた。二匹。有刺鉄線の向こう。父が飼っていて、母が放してしまった猟犬のことを思い出した。ローズ・エレンが歩くとうしろをついてくる。
扶桑社ミステリー『幻想の犬たち』所収「銀の犬」を改題。表に出せずに貯め込んでいた不安や不満が、近所に現れた野良犬をきっかけに、あるいは野良犬という形を取って噴出します。妻の疲れた心に胸が苦しくなりました。書き方がストレートすぎて古びてしまいがちなウィルヘルム作品にあって、普遍性と日常性ゆえに生き延びている作品でした。
「心臓」シオドア・スタージョン/中村融訳(The Heart,Theodore Sturgeon,1955)★★★★☆
――むかしから人づきあいは苦手だった。ところがあることが起こったの。庁舎から出てきたら、ひとりの男とぶつかった。痩せて土気色。その人の態度が気に入ったわ。しばらくするうちに、その人と結婚したいと思うようになっていた。だけど心臓の悪いあの人は、愛しているからこそ結婚を承知しなかった。
悪いものへ憎しみを向けることで建設的な憎しみを抱こうというユニークな発想と、何かを呪えば穴二つという奇想に満ちた憎しみの成就が、切ない結果を生み出していました。飲み屋で作家に絡んできた女から聞いた話というホラ話的な設定が、最後に額縁の外で実話であると補強されています。
「アケロンの大騒動」フィリップ・ホセ・ファーマー/中村融訳(Uproar in Acheron,Philip José Farmer,1961)★★★☆☆
――リンダを巡ってスキーターがジョニーを殺した。泣いているリンダのもとに旅の医師が現れ、ジョニーの死体に機械をつないで生き返らせた。医師は村人に言った。明日には墓地の死者を生き返らせようと。死者に甦ってほしくない者たちは医師に金を積んだ。死んだ元恋人のことを思い出したリンダに、ジョニーはある真実を告げた……。
ウェスタンに相応しく理屈や経緯よりも人情に比重の置かれた、割りと大雑把な結末でした。死んだ恋人のことを忘れて新しい恋を見つけたのに、死者が生き返るようになったのなら……というあり得ないジレンマですべてがぶち壊しになるのが可笑しい。
「剣」ロバート・エイクマン/中村融訳(The Swords,Robert Aickman,1969)★★★★★
――わたしの初体験は試練でした。旅先では伯父と懇意の曖昧宿に泊まることもあったので、女たちには舐められてばかりでした。その町を歩くうちに遊園地のようなものに行き当たりました。テントには「剣」と書かれてます。五十近い男の左側に若い女が椅子に身をあずけています。男に促されて、観客の一人が娘に剣を刺してキスをしましたが、血が出た様子はありません。娘はしあわせそうに見えました。よく見える席に移動したくはありませんでした。舞台に呼ばれるのが嫌だったのです。途中で退席しました。翌日、食堂で遭遇した男に、プライヴェートなショーの誘いを受けました。
ひとことで言えば女を知らない青年が初体験で失敗した話なのですが、そんなあらすじからは想像もつかない幻想性に満ちています。娘の正体は人形やからくりのようなものだったのか、奇術師の男女がカモを狙った詐欺だったのか、そもそもこうしたことが起こり得る世界の出来事なのか、真相は藪の中です。語り手の興味が奇妙な出来事よりも初体験の失敗の方に置かれているので、ますます曖昧で茫漠とした印象を受けます。
「怒りの歩道――悪夢」G・K・チェスタトン/中村融訳(The Angry Street; A Bad Dream,Gilbert Keith Chesterton,1908)★★★★☆
――わたしがシティの軽食堂で昼食をとっていると、むかいの席にすわった男が帽子を掛け釘にかける許可を帽子に求め、掛け釘に謝罪しているように見えた。わたしが声をかけると、男は「またべつの街路がおかしくなったのかと思いました」と答えた。男は四十年にわたり同じようにオフィスを出て同じ道をたどっていたという。
狂気に見えた者こそ正気であったというチェスタトンらしい一篇。天使とも悪魔ともつかない存在による果たして生きているといえるのかという問いには身につまされる人も多いはず。邦題は「怒りの葡萄」のもじりのようですが、原題も時代もチェスタトンとは違います。ですがざっくり人間らしさに関する小説という点は同じなので、あながちピントはずれのもじりというわけでもありません。
「イズリントンの犬」ヒラリー・ベイリー/山田順子訳(Dogman of Islington,Hilary Bailey,1970)★★☆☆☆
――サンディ一世が寿命をまっとうしたあとを継いだのが、サンディ二世だ。隣人の飼っているプードルが産んだ仔犬の一匹を、ギャロウェイ家が引き取ったのだ。ある日の朝食のとき、食卓を見たサンディがはっきりと「うまそうだ」といった。家事手伝いのヴァレンティナはひそかにサンディの能力を伸ばす訓練をしてきた。
動物を可愛いものとして扱うか、恐ろしいものとして扱うか、ただの動物として扱うか――。言葉をしゃべる犬であるがゆえに珍しがられ可愛がられるも言葉を話せるがゆえに破滅をもたらすというお決まりの結末を迎えます。
「夜の夢見の川」カール・エドワード・ワグナー/中村融訳(The River of Night's Dreaming,Karl Edward Wagner,1981)★★☆☆☆
――護送車が転落したのに乗じて彼女は湾を泳いで逃げ出した。たどり着いたのは老婦人とそのメイドらしき娘の住む家だった。古めかしいコルセットをはめて、いなくなったコンスタンスの代わりにコンパニオンをすることになった。
『ナイトランド』の第3号で読んでいるはずなのですがまったく思い出せませんでしたが、それもそのはず『黄衣の王』ありきの作品のようです。
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