『断髪女中 獅子文六短篇集 モダンガール篇』山崎まどか編(ちくま文庫)★★★★☆

 山崎まどか千野帽子獅子文六の短篇群のなかからセレクトしたうちの「モダンガール篇」です。

「断髪女中」(1938)★★★★☆
 ――本多さんの家では奥さんが脾弱なのに女中に帰られて困っている。近頃は女中が払底している。やっと見つかったのは、女中のくせに断髪していて、そんなだからどこのお邸でも断られていた。髪の毛が短くたってご飯が焚けないわけもない。試しに雇ってみると、これが料理も裁縫も不満がない。

 女性も社会進出を果たすモダン・ガールの時代に、何でもこなせるアケミさんが女中という旧態然とした職業を選んだ理由は、流行に乗るのではく自分で考えて選び取るという意味ではまさに新しい女性でした。けれどそんな理想の女性など現実には夢のまた夢……ということなのでしょう。「おおきにお関い」は「おおきにおかまい」と読むようですが「大きなお世話」くらいの意味でしょうか。
 

「おいらん女中」(1958)★★★★☆
 ――金融界の長老、上原英一郎氏が学生時代に吉原へ入り浸っていたというと、今の若者はエッという顔をする。しかし六十年前は現在とは事情が違うのである。友人に誘われて吉原へ行った上原が選んだ田毎というオイランは何事も諦めているような風があった。しかし田毎がそんな態度なので、上原は吉原通いの方が家庭的気分を味わえて、勉強がはかどるので、一年余も通うことになった。やがて上原が就職、結婚し、吉原通いをやめてしばらくすると、田毎が上原家を訪ねてきた。

 ハートウォーミング。チャーミング。かっこいい生き方。読んで気持がほっこりするけれど、何しろ吉原の話なので教科書にも載らないだろうしドラマ化もされそうにない、そんな名作です。娘を一人前に育ててから老後は故郷で暮らすという生き方に、田毎なりのプライドや達成感が感じられます。とはいえ細君があまりに無邪気ないい人すぎるから成立する話なのは確かなので、真の主人公は実はイト子だという気もします。
 

「見物女中」(1953)★★★☆☆
 ――細君に死なれた当座、家政婦と女中の周旋を依頼した。富沢エツ子は身内のいない田舎で代用教員を続けるよりも、姉や母のいる関東で女中をして働きたいという。彼女は好奇心が強く、書籍や雑誌を掻き回したり部屋を覗きにきたりした。そのうち婆やをうるさがり出した。

 これもある意味で現代っ子ですね。「断髪女中」が良い意味で現代っ子で、「おいらん女中」が昔気質の古風な女性だったのに対し、「見物女中」は悪い意味で現代っ子でした。
 

「竹とマロニエ(1959)★★★★☆
 ――お竹婆さんはまだまだ自分を老い込んだとは思っていないので、息子夫婦が何でも自分たちでやってしまい、働かしてくれないというのが不満である。以前の勤め先に外国人の独身男に貸すというので、若くない女中を捜していると聞き、アンドレさんの世話をすることになった。

 若い女中に代わって五十代初老の女中が登場します。女中というより婆や、婆やというより知り合い以上友だち未満といった関係性が微笑ましい作品でした。フランスに憧れて、こんなのマロニエじゃない、と言い張る子どものようなオチが可愛らしい。
 

「団体旅行」(1939)★★★★☆
 ――文士の卵の平助君が、静かな場所でアイデアをひねり出そうと、伯父貴に温泉旅行を無心したところ、伯父が積み立てていた団体旅行をすすめられてしまった。列車で相席になったのは、着ている服は立派だが下品な父母と娘だった。だが娘も文章を書いていると知って……。

 女中を目指すモダンガールもそうでしたが、本篇の娘さんが女工を目指す理由も独特です。こうしたピントがずれていて周りが見えない感じが、一途で真面目な娘さんの頑張っている様子をうまく表現していると思います。
 

「明治正月噺」(?)★★★☆☆
 ――明治三十四年一月三日晴。箕輪俊子さんの家で歌留多会がある。天津風エ雲の通い路……凛々たるテノールの主は、東京高等中学の生徒で、当年二十五歳。白皙秀眉の好男子です。それを「ハイ! 」と鶯の啼くような声で勝負を決めた女が、その時の流行語で云えば頗る非常にビューティである。

 誰も読んだことがない古典という地位を不動のものにしている某作の前日譚ですが、合コンに登場した成金男がどれだけ俗物であろうと色めく女と嫉妬する男……というところだけ見ると、実は古くさいどころか普遍的な物語なのかもしれません。
 

「探偵女房」(?)★★★☆☆
 ――ガラ・ガランと、棚から何か落ちる音。「あなたッ、そっちそっち!」周章てた恭一氏が火箸を持って追駆け回し、女中部屋から姐やも座敷箒を抱えて、「泥棒ですか」と飛んできた。細君が箪笥の底から掻き寄せたのは、しかし黒い鼠ではなく白い紙包みだった。訝しがっている隙に鼠は逃げてしまった。紙包みの中を開けてみると、これは驚いた、紙幣束であった。

 見つかった大金が旦那のへそくりだったとしても、どうやって貯めたのかと不思議だったのですが、乏しいお小遣いを元手にして運と才覚で増やしていたのですね。探偵というのが趣味でも知的好奇心でもなく夫を支配するためというのが、言いようによっては家庭的です。「ルパンに飜弄されるバルネ探偵みたいに、夜も眠れなくなった」という文章が! バーネットものはそんな話ではなかったはずですが、少なくとも名前が引用されるくらい当時は有名だったのでしょうか。
 

「胡瓜夫人伝」(?)★★★★☆
 ――昨今は受ける小説といえば工員か子供か農民が主人公と決まっているものですが、私は『キュウリー夫人伝』を貪るように読み了えたのです。二、三日後のことです。私が勤めから帰ると、お午飯抜きで読み耽った房が料簡を入れ替えると宣言したのです。

 人格者だからということなのでしょうけれど、キュリー夫人のことが良妻の代名詞のように用いられているのが面白い。キュリー夫妻との共通点を幻視してその気になってしまう万里子の姿は、ブームに踊らされる今の主婦やOLの姿とも重なって見えました。
 

「仁術医者」(1936)★★★★☆
 ――「オジさんなんか、従順なるワイフを持って、いいですア。酒だって、ウチで飲ましてくれるでしょう」「それア、晩酌ぐらいやりますがね。お宅じゃイケませんか」「飲酒は家庭と社会の共同の敵とかいってるンです。駅前のビヤ・ホールで、毎日会社の帰りがけに一杯やりますが、細君は知りません」

 子どもができなかった老夫婦が子どもっぽい下宿人の若夫婦を見てなごむという状況を読んで、わたしの方もなごまされました。作中で若い夫の身に起こった出来事を酒のせいにして済ませるのは随分と男と酒飲み党に甘いような気もしますが、事を荒立てるよりは丸く収める方がみんなが幸せになれるのかもしれません。
 

「愛の陣痛」(?)★★★☆☆
 ――泰三氏、朝八時から家を飛び出し夜の十時に帰宅してもユリ子夫人にタイプライターを打たせて無駄事というものを一切しない。満州国視察旅行は、愛の功徳と妻のご利益のほどを思い知らせるチャンスです。いかな泰三氏でも、船中の三日間は細君とキャビンで差し向かいにならざるをえない。

 男女間の愛情に重きを置く妻と仕事人間の夫のすれ違い、と書くと何でもないごく当たり前の話なのですが、流線型機関車に性的魅力を覚えたユリ子がせめて機関車みたいな人と結婚したいと考えるところからぶっ飛びまくっていました。
 

「遅日」(1948)★★★☆☆
 ――子ノ助が隊の友達を訪ねようというのは口実で、子ノ助は恋人のいる町へいくのである。といっても思う対手はまるで彼の存在を知らない。子ノ助は彼女をたった一度しか見ていない。この春の共産党演説会の晩に、壇上の彼女をチラリと見たにすぎない。それにしても母親から友達への土産として渡された筍には、大いに困った。今日の土産に適うだろうか。

 これまでとは毛色の違う作風で、モダンガールが主役でもありません。田舎の冴えない青年が憧れるのが更年期の女性共産党員でした。これまでの短篇のようなコメディタッチではなく、冴えない青年の悲哀が描かれていました。
 

「呑気族」(1935)★★★★☆
 ――地主の源兵衛さんが貸し出した八畳一間押入れつき、台所とW・Cは別属の隣接貸家の第一号借家人は、わが呑気族の王様田部八澄夫妻だった。第二号は二十一、二の女性。第三号は女の異人さんだった。「ボンジュール・マダム」ヨーロッパ人なら仏語ぐらい知ってるだろうと、八澄君は考えた次第。果して、彼女は碧い瞳を丸くして歓びの声を発した。――ペラペラペラッ。

 家事を専業主夫に任せて働く妻、「何もしないで三十円の月給なら悪かない」と割り切る二号さん、格式ある囲われ先から逃げてきたフランス人のモデル――三人の現代的女性が登場し、なかでもフランス人のアメリイに周りの人間たちが振り回されます。「アパート貸家」という集合住宅を考えた源兵衛も含めて、ユニークな人たちが集まっているようです。
 

「沈黙をどうぞ!」(?)★★★☆☆――片井君もインテリであるから、外国の礼儀は心得ていた。洗面の水を流す音さえも夜の十時以降は控えねばならぬ、等々。ところが片井君が昼間に勉強に耽っていると、静かな廊下に靴音が聞え、扉がギイと開くと、パン、チュッと、すさまじい接吻の音響がつづいた。

 パリに経済学を学びに来た留学生が、狭い日本ではなくわざわざパリで騒音に悩まされるというのがまず可笑しい。お妾さんということはつまり、働かず一日中家にいるということでしょうから、隣の住人としてはたまったものではないでしょう。
 

「谷間の女」(1952)★★★☆☆
 ――此間、ある家で法事があった。殆ど女ばかりで、男は私と二人だけだった。女たちは仏事の席とは思われないほど談笑した。女三人か亭主の悪口を列べていると、六十近くなるT未亡人が「皆さん、ご幸福でいらッしゃいますこと……」といい出した。

 タイトルは谷間の世代の女という意味でした。これまでは新時代の女性が多く登場していましたが、本作ではその姑世代が主人公になっていました。新時代の女性の負の部分が描かれるといっても、具体的なことは言わずに文句だけ言う場面あたりはまだコメディ・タッチでしたが、自分のことしか考えていないというところになるとかなり辛辣でした。世代が断絶したのは戦争によって谷底ができたせいだという考察が見事です。
 

「写真」(?)★★☆☆☆
 ――教育家だった尾関ツナ子刀自は、隠居の生活に入ってみますと、趣味もないため何やら手持ち無沙汰でした。そんな時に教え子から誘われたのが芝居見物でした。若かった頃は、死んだ歌右衛門、当時の福助だけは一度観たいと思いながら観ずにいたのです。産まれて始めて観た芝居のプログラムには、俳優の名は福助とありました。「妾の娘時代の福助の子供か知ら」尾関刀自は芝居の魅力にはまってしまいました。

 主人公の老女は七十過ぎて芝居にはまって人気俳優のとりこになるのですが、気が若いというわけでもなければ、さりとて知人の遺影代わりに俳優の写真を用いる場面でも非常識を批判されているわけでもなく、ふんわりと暢気で何も考えてない感じでした。
 

「待合の初味」(1963)★★★★☆
 ――私のナマイキ盛りの頃、親しい友人のSが急死した。机の抽出しから芸妓の写真が出てきたため、よほど深いナジミだと勘違いした父親が、嫁も持たずに死んだ息子のために、せめてその女を葬式に呼びたい、ついては私に待合に行って頼んで来てもらいたいという。これには、困った。待合がどんなところかこの機会に一見したいが恐怖心の方が先に立つ。

 死んだ友人の葬式に父親が芸妓を呼ぼうとするところから既に勘違いなのですが、それに加えて初めての待合や偶然の暗合にあたふたする主人公や、かなり他人事な当の芸妓など、コメディ・タッチではないにもかかわらず妙にぼけぼけしていて、ほのぼのした雰囲気が漂っていました。

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