『宰相の象の物語』イヴォ・アンドリッチ/栗原成郎訳(松籟社 東欧の想像力14)★★★★☆

『宰相の象の物語』イヴォ・アンドリッチ/栗原成郎訳(松籟社 東欧の想像力14)

 ボスニア出身のノーベル賞作家による中短篇集。イスラム圏内のボスニアカトリック教徒でありドイツ大使としてナチス政権を目の当たりにしたという著者の来歴や、あるいはボスニアの歴史を、解説で知ってもなおピンと来ないところもあります。
 

「宰相の象の物語」(Прича о везировом слону,Иво Андрич,1947)★★★☆☆
 ――トラーヴニクに新しく赴任した宰相は着任後すぐに有力者を処刑し、恐怖政治を敷いた。宰相は気まぐれから一頭の仔象を取り寄せ、召使に世話をさせた。フィルと名づけられた象は商店街をめちゃくちゃにして町の人々の憎悪を買った。やがて宰相への直訴が企てられたが、次々と怖じ気づき、宰相の城館に入ったのは絹商店主アリョ一人だった。

 冒頭にもっともらしく、田舎に伝わる物語のなかには嘘ばかりのなかに知られざる真実の歴史がある云々と書かれているわりには、さして嘘っぽくも荒唐無稽でもありません。あるいはもっとユーモアタッチの作品なのでしょうか。アリョがその場の思いつきでおべっかを言って危機を乗り切ったのを契機に、宰相の独裁が終わりを告げる……というような。
 

シナンの僧院《テキヤ》に死す」(Смрт у Синановој текији,1936)★★★★☆
 ――老修道師アリデデは死の直前に二つの罪を思い出していた。子どものころに見た裸の女の溺死体。男たちから逃げて僧院の門の前に倒れ込んだ半裸の女を見殺しにしたこと。

 著者やボスニアの複雑な宗教的背景を無視すれば、これは比較的わかりやすく、長さも掌篇といった感じです。
 

「絨毯」(Ћилим,1948)★★★☆☆
 ――カータ婆さんは祖母のアンジャのことを思い出していた。当時はカータもまだ七歳だった。オーストリア軍が侵攻してくると、まるで歴戦の指揮官のように、扉を開けておくように家族に命じた。扉が閉まっていると銃撃されるよ。兵士がトルコ人の家から盗んできた絨毯をかついで酒と引き換えようとして来たときには、酒などないと断った。

 これも掌篇です。戦争中であろうと泥棒は泥棒であり飛び込んできた誘惑に流されることを潔しとしない正義漢(正義婦?)が描かれていました。
 

「アニカの物語」(Аникина времена,1931)★★★★☆
 ――アニカの美しさには誰もが夢中になった。よそ者のミハイロと結婚するものだと誰もが思っていた。だがミハイロには消せない過去があった。かつて肉欲から人妻と関係を持ち、夫を刺し殺すのに手を貸したのだ。ミハイロに拒まれたアニカは娼婦となり、町中の男たちがアニカの家を訪れた。よその町の長司祭の息子ヤクシャもその一人だった。長司祭は息子の目を覚まそうと市長に働きかけるが無駄だった。

 質量ともに本書の中心をなします。南米のマジック・リアリズム小説のようです。現代の日本とは違う独特のルールで町中が動いています。アニカの兄の存在が唐突にも感じられるのですが、そうなるしかない結末に向かってすべてが収斂してゆく物語なのであれば、あそこで登場するのも必然なのでしょう。すべてが作りごとのようでいて、白痴が娼館に砂糖をたくさん持ってくるような小さなところにリアリティがあります。思えば「宰相の象の物語」の冒頭で書かれているような嘘のなかの真実とはこの「アニカの物語」のようなものを指していたのかもしれません。

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