『ピクニック・アット・ハンギングロック』ジョーン・リンジー/井上里訳(創元推理文庫)★★★★★

『ピクニック・アット・ハンギングロック』ジョーン・リンジー井上里訳(創元推理文庫

 『Picnic At Hanging Rock』Joan Lindsay,1967年。

 カルト的人気の名作映画の原作、初の邦訳ということですが、映画自体が1975年作で本邦公開が1986年とかなり昔のことなので、本書で初めて作品自体を知りました。映画版は『いまを生きる』の監督なんですね。男女の違いはあれど全寮制の学院が舞台なところは一緒です。

 むしろ今ごろになって邦訳されたのはラッキーでした。古い翻訳ではなく新しい文章で読めるのだから。

 作中ではボッティチェリの天使に似ていると書かれていますが、おそらくボッティチェリのヴィーナスのことなのでしょう、表紙に描かれたミランダの姿が印象的です。

 バレンタインで賑わう全寮制の女学院。ピクニックに出かけた生徒たちのうち、四人がハンギングロックまで足を伸ばしました。誰からも好かれているミランダ、美しいアーマ、聡明なマリオン、ちびで金魚の糞のイーディス。やがて頂上付近にある石柱の前までたどり着くと、眠気に襲われ、ふらふらと前に進んでそのまま戻りませんでした。結局三人の生徒と一人の教師が足跡もなく忽然と姿を消してしまいます。

 実のところ逃げ帰った一人と助かった一人のほかは、すぐに物語からは退場してしまうことになるのですが、にもかかわらず誰もが忘れがたい存在感を残しています。それは冒頭のバレンタインやピクニックの会話であったり、失踪後に思い出として語られるからであったりするのですが、総じてエピソードの一つ一つに筆が立っていました。

 ミランダに一目惚れしたイギリス人貴族青年マイケルはたった一度だけ見たミランダのことを時折思い出すだけなのですが、美男美女同士でアーマとの仲を噂されたり御者のアルバートと新しい生き方を目指したりするなかでそこだけ過去に囚われているからこそ、ブロンドの少女の面影がいつまでも読者にも強い印象を与えています。

 本書には生き別れた孤児の兄妹が出てきて、互いにそうとは知らぬままなのですが、そんな二人を繋いでいるのが、妹がパンジーを好きだったという要所要所で語られるエピソードです。そのパンジー好きを最後に駄目押しする場面で枕としてミランダがユリの話をしていたことを庭師に思い出させることで、一つの場面で孤児兄妹の繋がりとミランダの思い出を同時に語っているのが、本当に上手いと思います。

 終盤で不幸に見舞われる教師兄妹のエピソードなど、通常であればただの不幸な事故でしかありませんが、一連の流れに組み込まれることで不思議な暗合のような効果がもたらされていました。

 象徴的な場面には事欠きません。ピクニック中にいっせいに時計が止まってしまうのが最初の不穏な場面でした。真面目でエキセントリックな教師が下着姿で走っているのは、もはやホラーと言ってもいいでしょう。アーマが学院に戻って来たときの生徒たちの集団ヒステリーもおぞましさに溢れていました。見えていた、とは修辞上の表現に過ぎないのか、少女たちには本当に見えていたのか。

 マイケルが引き合わされる令嬢ミス・スタックなど脇役もいいところなのですが、シャンパンボトルのような細い脚という描写ひとつだけで他のキャラクターに匹敵する印象を刻んでいるのだからたいしたものです。

 完成稿からは削除された最終章によれば、すべての崩壊のきっかけとなった失踪事件の真相は超常的なものだったようですが、最終章が削除されたことにより、すべては事故と狂気と偶然とヒステリーで説明がつけられなくもなくなり、よりさまざまな憶測と解釈が可能になりました。

 とはいえ失踪事件の真相がどうあれ、その後に起こったことのいくつかは、当事者たちが避けようと思えば避けられただろうと思えます。少なくともアップルヤード校長がもう少し冷静で視野の広い人間だったならば、事件の悪評による学院の散解は避けられないまでも結末が悲劇的な崩壊という形を取ることはなかったのではないでしょうか。

 失踪と悲劇に気を取られてしまいますが、幸せになっている人間もいますし、そこらへんのバランスが実話っぽさを高めているのでしょうね。

 あの日は絶好のピクニック日和だった。アップルヤード学院の生徒たちは、馬車でハンギングロックの麓に向けて出発した。だが、楽しいはずのピクニックは暗転。巨礫を近くで見ようと足をのばした4人の少女と、教師ひとりが消えてしまったのだ。何があったのかもわからぬまま、事件を契機に、学院ではすべての歯車が狂いはじめる。カルト的人気を博した同名の映画原作、本邦初訳。(カバーあらすじ)

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