収録作家5人中、4人が『時間篇』と重複しています。この4人は続く『異次元篇』『未来篇』でも重複していて、アンソロジーとしてはお得感がまったくありません。権利の関係でほかの作家を収録できなかったのか、黎明~黄金期にかけての日本SFはほかに収録作家がいないほど層が薄かったのか、編者の怠慢なのか、理由はわかりませんが、アンソロジーとしての魅力に乏しいことは間違いありません。
「花とひみつ」星新一(1964)★★★☆☆
――ハナコちゃんは花が大好きだった。花の絵をかきながら、モグラに地面の下から花のせわをさせたらおもしろいだろうな、と思った。思いつきをかきくわえたとき、風が吹いてせっかくの絵を飛ばしてしまった。その絵は小さな島のひみつの研究所に飛びこんでいった。「本国からこんな図面がとどいた。モグラを訓練するよりロボットのモグラを作ったほうが簡単だ」
誤解によって嘘が誠になるという筋書きは珍しくありませんが、地面の下からモグラに草花の世話をしてもらうという本物の子どものような発想ができるのは、まさに天才の為せるわざでしょう。
「お紺昇天」筒井康隆(1964)★★★☆☆
――仕事を終え、私はお紺のシートに乗りこむ。彼女は一人乗りの最小型車だ。コバルトブルーだからお紺という。「ご予定は?」「バーへ寄って行こう」お紺は最上の話し相手だ。「君と飲めないのは残念だな」「だって車はバーへ入れないわ」「僕にとって君はロボットなんかじゃない。親友だよ」バーの手前で珍しく急停車して、ためらうような様子を見せた。「様子が変だな……どうかしたの?」「ええ、ちょっとね……ガタがきてるからスクラップにされるの」
アンドロイドではなく自動車型なのがポイントでしょう。ロボットとの別れならSFですが、愛車との別れなら現実です。取りも直さず愛車との別れを擬人化すればSFになり得るという証左でもあります。どこにでもすこしふしぎは転がっているようです。
「幽霊ロボット」矢野徹(1964)★★☆☆☆
――都会からはなれた郊外。小屋の前に坐っているのはロボットだ。そのとき小屋の後ろから浮浪児が現れた。「おまえの主人はどこにいるんだ? 捨てられたのかい?」親もいないし家もない少年は、ロボットと暮らすことになった。「ボウヤ、アリガトウ」。夕方になると少年は死んだお母さんから聞いた桃太郎のお話をロボットにしてやるのだった。ロボットはそのお話を聞くのが大好きになった。
ロボット版ハチ公物語。
「ロボットは泣かない」平井和正(1962)★★☆☆☆
――C級ロボットしか見たことのない妻や友人たちには、特Aクラスのアンのことが理解できなかった。アンを大事にするぼくを見て妻が精神を病み、友人がアンを侮辱するのも、あいつらが間違っている。アンの素晴らしさがわからないとは許しがたい。悪いといえばぼくが悪いのだ。アンを買おうと主張したのはぼくなのだから。
狂人の目を通して、新しいものに対する周囲の無理解や差別が描かれています。語り手から見ればおかしいのは世間ですが、もちろん世間から見ればおかしいのは語り手にほかなりません。そうした相互批判的な視点で書かれたものなのか、単なる美談のつもりだったのか、正直なところよくわかりません。
「ヴォミーサ」小松左京(1975)★★☆☆☆
――ぼくとエドとキャロルは、スナックで数日前の落雷の話をしていた。新しいバーテンは愛想が悪いし注文は間違えるし、職業訓練所から来たばかりなのだろう。その時、ドアを荒々しくあけて入ってきた大男が、中年の紳士の首をしめ上げた。ぼくは止めようとしてキャロルにシャツをつかまれた。だがエドはキャロルの叫びに耳をかさず、ならって二週間にしかならないカラテのかまえをした。「さあ、かかってこい!」すると大男はうめき声を出して苦しみだし、「ヴォミーサ!」と言って走り去った。
筋道だてているようでご都合主義な理屈の進め方にはげんなりします。バーテンの正体も大男の正体も明白なので、「ヴォミーサ」という謎の言葉が何を意味するのかが勘所なのでしょうが、意味があべこべになるのと単語があべこべになるのを一緒くたにされています。ショートショートならともかく、短篇でこれはきつい。
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