「次元を駆ける恋」平井和正(1965)★★★☆☆
――トラックに轢かれて死んだ絢子のことが忘れられなくて、多元宇宙で生きている絢子のなかから絢子を選ぶべく、ぼくは次元転移した。だがたとえその次元の絢子を救ったとしても、そこにはその次元のぼくがいるのだ。その次元から絢子をさらうわけにもいかない。それでもぼくは挑み続けた。
悲愴と絶望に駆られるままに、ひたすら生きている絢子とふたたび一緒になることだけを求めて試行錯誤するだけの、純愛とサスペンスです。運命は変えられないのではないか――個人ではどうにもならない戦争という大きな影に覆われても、語り手は諦めません。「ほかのどんな絢子ともちがうのではないかという疑いが、執拗にこびりついてはなれない」。おそらくそこまで変えてしまっては、絢子はまったく別の人生を歩んでいることでしょう。それでも「希望にみちたぼくの世界が舞っているはずだ」と前向きな語り手を見ると、そうはうまくいかないだろうと邪推して、却って憐れみを覚えてしまいます。
「ケンの行った昏い国」今日泊亜蘭(1970)★★★★☆
――身構えは同時だった。拳銃をひきぬく動作も、ズン!と腹へひびく銃声もうすい硝煙も。だが結果もおなじ、とは言えないようだった。伎倆《うで》に、フフン、開きがあるのさ、と相手の死を見さだめてからケンは北叟笑んだ。「組」が命令したからだ。でなければ古友達は殺りかねる。バスが遅れてやってきてもケンは上機嫌だった。「姉ちゃん停めなくていいぜ」停車しきらないうちにヒラリと飛乗って軽口をたたいた。
タイトルもネタバレだし、異次元SFはともかくとして怪談としては定番中の定番でもあります。軽口を叩くチンピラによる独特の文体のおかげで、欠点というよりも新しい切り口による作品になっていました。
「潮の匂い」眉村卓(1978)★★★☆☆
――家庭とマイホームを持ち、妻も子も健康なのに、その家庭で下宿人のような立場に置かれている。これが中年というものなのか。することはひとつ。自転車だ。サイクリング・コースを一周したが、何か違う。もっと遠くへ行かなければ。潮の匂いをかいだような気がした。海に行こう。そこは終戦直後の景色だった。現在でもこういう暮らしをしている人がいるのか? あれは夜店か。「コーラでもどうかね?」五十円払うと、不思議な顔をされた。「どういうつもりだね?」おやじは一枚つまんでおつりに五十銭を返した。
飽くまで過去ではなく異世界という設定のようです。『ミステリーゾーン』ふうのノスタルジックな作品ですが、実際発表時期を考えると『ミステリーゾーン』の一挿話を日本を舞台に移植したのではないかという気もします。
「母子像」筒井康隆(1969)★★★★☆
――なんの変哲もない、サルの玩具だった。私は子煩悩な方ではない。サルを買ったのは、その一匹だけが何のまちがいか白い布地で作られていたからである。数週間後、家に帰ってみると、妻も赤ん坊もいなかった。サルが打ち鳴らすシンバルの音だけが聞こえる。一瞬だけ見えた赤ん坊は白いサルをつかんでいた。私は手をのばして掴もうとした。サルだけが戻ってきた。
小道具の使い方が非常にうまく、あの少し不気味なサルの玩具がシンバルを鳴らす音だけ響いてくる様子がはっきりと目に浮かんできます。衝撃的な幕切れを迎えますが、幸せかどうかは本人たちにしかわからないというのに、そうとでも思わなければやっていけないのでしょう。読者としても、語り手が白いサルに目を留めた理由を知ることで、理不尽なことに無理にでも納得しやすくなっています。
「殉教」星新一(1958)★★★☆☆
――死者と通信できる機械を発明した科学者が、亡妻と会話したあと妻の待つあの世に発った。会場に詰めかけていた観客たちは、はじめこそ半信半疑だったが、大切な人を呼び出して話をするうち、次々と命を絶ち始めた。そして機械を使う順番を待つ長い行列が続いた。
異世界といいつつ、本書収録作中2篇があの世を扱っています。少なくともだいたいの宗教では死後の世界を幸福な場所として描いているわけですし、本編のように科学技術の結果だとしても信じるという点では宗教と変わらないということなのでしょう。狂信者を笑うだけでは済みません。「信じない」人々が残ったというのは意外な結末でした。
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