『SFショートストーリー傑作セレクション 未来篇 人口九千九百億/緑の時代』日下三蔵編/星野勝之絵(汐文社)★★★☆☆

「ゆきとどいた生活」星新一(1961)★★★★☆
 ――朝。時計が八時をさし、スピーカーから声が呼びかけてきた。「さあ、もうお起きになる時間です……」天井から静かに〈手〉がおりてきた。〈手〉は毛布をどけテール氏を抱きおこし、浴室へ運んでいった。ひげを処理し、パジャマをぬがせ、シャワーをかけた。

 生活のすべてにオートメーションが導入された未来という、まさにSFそのものの未来が描かれています。誰もが“絵に描いたような未来”として思い描くような未来だからこそ、何の違和感も感じずに読み進めることができ、著者の術中にはまることになります。
 

「人口九千九百億」筒井康隆(1968)★★★★☆
 ――私は全人類の故郷である地球へ火星連合から派遣される最初の大使である。アダムス政府が地球統一を成しとげ、国交正常化が実現されるのだ。地球の人口はたった三年で一千九百億人増えていた。宇宙船が降り立った場所にあった公衆便所のような建物は、エレベーターだという。わたしは地上二百三十八階の屋上に着陸していたのだ。A級部屋を覗いてみると、数メートル平方の部屋で六人がテーブルを囲んでいた。この様子ではB級やC級は知れたものではない。

 筒井流の諷刺スラップスティック。日本の住宅問題など遙かに飛び越え、全世界規模で起こっている人口問題住宅問題は桁が違いすぎて笑うしかありません。狭い部屋に合わせて体形が進化するというストレートなギャグから、人口増加にともない子どもを産む必要がなくなって女性の権力が強くなるという批評まで、さまざまな笑いが散りばめられていました。
 

「通りすぎた奴」眉村卓(1974)★★☆☆☆
 ――九千五百階でぼくは行き倒れている青年に出会った。エレベーターを使えばいいものを、階段を歩いててっぺんまで上ろうとする気が知れない。しばらくは忘れていたが、彼がいっていた最上階到達予定日がきょうだということを思い出した。最上階へは長い行列ができていた。その“旅人”は上の階では“冒険家”と呼ばれ、今では“聖者”といわれていた。

 寓話にしても陳腐です。星新一のようなフラットな文章で書かれていれば普遍性を持ち得たろうに。
 

「カマガサキ二〇一三年」小松左京(1963)★☆☆☆☆
 ――おれは乞食だ。兄貴といっしょに土管の中に住んでいる。俺たちの土管は自動ドアつきだ。今は二十一世紀や、乞食かて多少は文化的生活をせなあかん。人が来たので地面に頭をすりつけた。「どうか一文……」「タメタメ! ボクも乞食よ」「ケッタイな言葉つきやな、どこから来た?」「ポク? タイムマシンで五百年先の世界から来ました」「五百年先にも、まだ乞食はいるのか?」「アタリマエ!」

 これはユーモアではなくタチの悪いおふざけでしょう。
 

「緑の時代」河野典生(1969)★★☆☆☆
 ――そのときぼくは、アメリカのスカートやセイントのジーンパンツのまわりに、緑色の小さなまだらがひろがっているのに気付いた。「ああ、これ。一時間ばかりのあいだに生えて来たのよね」。どうやら発生源は銀行のようだ。中に入っても警備員に何もいわれなかった。どうやら何かの具合で、世界とぼくたちの次元にずれが生じたのだ。緑化は駅方面からと通りからの両面から進んでいて、書店前のカラータイルも半分ほど埋められている。

 J・G・バラードの世界にヒッピーを放り込むというミスマッチもいいところの作品で、アイ・アム・レジェンドザ・ロードを舞台に昭和の日本アイドルがナハナハ大根演技をしているような台無し感がひどかったです。

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