『不機嫌な女たち キャサリン・マンスフィールド傑作短篇集』キャサリン・マンスフィールド/芹澤恵訳(白水社 エクス・リブリス・クラシックス)★★★★★

 『The Collected Fiction of Katherine Mansfield

 不機嫌な女たちという作品が収録されているわけではなく、従来のマンスフィールド観とは一線を画す〈不機嫌な女たち〉というキーワードで編集した日本オリジナル作品集です。作品自体はこれまでの翻訳傑作集と重なる作品が多く、肝心の〈不機嫌な女たち〉というキーワードもさして生きておらず、マンスフィールド作品の印象が一新することはありませんでした。新訳らしく読みやすく、未発表原稿「ささやかな過去」も収録されています。
 

「宴の後」

「幸福」(Bliss,1918)★★★★★
 ――バーサ・ヤングは三十歳だったけれど、それでもこんな瞬間がある。歩くかわりに走ってみたくなる。急にダンスのステップを踏んでみたくなったり、笑いだしたくなったりするのだ。その日の晩餐にはお客を招いていた。安心しておつきあいのできるノーマン夫妻。エディ・ウォレンという若い詩人。バーサが“見出した”ミス・フルトンも。夫のハリーに言わせれば、退屈な女だというが、同意できなかった。

 冒頭で描かれた理由の説明できない幸福感によって、バーサの性格が遺憾なく描写されています。決定的なのは、続く「それが本当に紫の葡萄を買った理由なのだ。果物屋の店先で『絨毯の色と合わせるのに、テーブルに何か紫のものを配置しなくては』と考えた」という文章です。不合理なようでいて、感覚的に理解できもする、こうした感性の絶妙な機微こそ、マンスフィールドの真骨頂でしょう。

 晩餐で招待客を値踏みする厳しい視線は、幸福感に包まれたままの自信に満ちています。けれど揺るがぬそうした自信は、終盤にしっぺ返しを喰らうことになります。こんな単純な、好意を持っている相手をわざと貶すという手口を、見抜けなかったなんて――。幸福感に浮かされているのが少女ではなく三十歳の分別ある大人だからこそ哀しい。
 

「ガーデン・パーティー(The Garden Party,1922)★★★★★
 ――ガーデン・パーティーにはうってつけの天気になった。ローラはパーティーの準備を手伝っていた。天蓋張り職人との会話にはどきどきした。同じ花ばかりが届いたときには何もできなかった。そんなとき、配達人がその話を持ち込んできた。「どうしたの?」「人が死んだんです。お屋敷の下に小さな家がごちゃごちゃしているでしょう。馬から投げ出されて」「ジョージー、こっちに来て」ローラは姉の袖をつかんでいった。「取りやめにしなくちゃだめだよね?」「どういう意味よ?」

 従来「園遊会」の邦題で知られる作品ですが、園遊会というほどご大層なものでもないので「ガーデン・パーティー」は適訳でしょう。温室育ちの少女にとっては何もかも新鮮で、「幸福」のバーサのような幸福感に包まれても不自然ではない年頃です。敏感な心に触れてくるのは何も楽しいことばかりでなく、不幸もまた無防備な心には深々と突き刺さります。ローラがショックを受けたのは、死に間近に触れたからなのか、下層階級の暮らしを目の当たりにしたからなのか、いずれにしても人はいつか無知ではいられなくなるものです。何もかもわかっているというふうなお兄さんが大人です。
 

「人形の家」(The Doll's House,1922)★★★★★
 ――バーネル家に滞在していた老婦人が子どもたち宛てに大きな人形の家を送ってよこした。子どもたちは絶望かと誤解されそうな声をあげた。あまりにもすばらしかった。なかでもケズィアが夢中になったのは、ミニチュアのランプだった。子どもたちは学校のみんなに人形の家を自慢したくてうずうずしていた。「話があるの、休み時間にね」イザベルはみんなに取り囲まれた。けれどケルヴィー家の姉妹とは話をするなと言われていた。

 前二作でも階級意識はそこはなとなく流れていたものの、この作品に至っては露骨に階級の差が描かれています。ケズィアがケルヴィー姉妹を家に招いたのも、無邪気な子どもだからというよりも、本物のランプを自慢したかったからではあるのでしょう。けれど蚊帳の外だったケルヴィー姉妹も、初日のケズィアのその自慢が耳に入っていたはずです。中心となる上流階級の子どもたちからは終始いないものとして扱われてはいても、興味がないわけではありません。それらが集約されている、「見たよ、あのちっちゃなランプ」のひとことが胸を打ちます。

 マンスフィールドの鋭い感性は相変わらずで、「ひと目でどこもかしこも、客間も食事室もキッチンもふたつの寝室も見られるようになった。そう、家を開けるのは、そうでなくては! どうして普通の家は、そういうふうにできていないのだろう? そのほうが、ドアの隙間から帽子掛けのスタンドや傘が二本ばかり並んでいる狭くて冴えない玄関ホールをのぞき込むよりも、ずっとわくわくできるはずなのに」という、子どもならではの視点でありつつ、大人をも納得させてしまうような視点には舌を巻きました。
 

「満たされぬ思い」

「ミス・ブリル」(Miss Brill,1920)★★★★★
 ――輝くばかりの好天だった。ミス・ブリルは片手をあげて毛皮の襟巻に触れてみた。その襟巻の愛らしいこと! その日はかなりの人が出ていた。バンドの演奏も先週よりもにぎやかだし陽気だった。社交シーズンが始まったからだ。彼女の“特等席”にはほかにふたりしか坐ってなかった。品のよさそうな老紳士と、大柄な老婦人だが、がっかりしたことにふたりは何もしゃべらなかった。他人の会話を愉しみにしているのだ。

 これまでの三篇同様、まずはミス・ブリルの目を通したこの世界の幸せがたっぷりと描かれています。ただし「幸福」のバーサが三十歳、「ガーデン・パーティー」「人形の家」の主人公たちが少女だったのに対し、本書のミス・ブリルがオールドミスなのは意図的なものでしょう。主観的な幸福は無慈悲な他人の目によってもろくも崩れ去ります。これも一種の異化と言えるでしょうか。主観の目を通せば少女の幸福も老婆の幸福も変わらないのに、年齢設定を変えるだけで悲劇にもなり得るようです。
 

「見知らぬ人」(The Stranger,1921)★★★★☆
 ――ハモンド氏は熱っぽい眼差しを船にそそいだ。ハモンド夫人が十ヵ月のヨーロッパ旅行から帰ってくるのだ。あんな小さなひとがひとり海を渡り、はるばる旅をしていたとは。そういう女なのだ、ジェイニーは。そういう勇敢さがある。ハモンド氏は甲板に上がるなりジェイニーを抱き締めた。「ようやく会えた。さあホテルに戻ろう」「船長さんにご挨拶しなくちゃ」十分くらいなら我慢しよう。

 愛というよりは依存あるいは束縛に憑かれた男性視点が採用されています。妻が変化したわけでもなく、夫が疑うようなことが妻の身にあったわけでもないのでしょう。ただ単に、自分が十か月待ちわびたのだから相手もそうに決まっている、という思い込みが、夫婦間のズレを生み出してしまったようです。主人公にどこか子どもっぽさが残るという点ではこれまでの四作と変わりありませんが、女性たちがその子どもっぽさゆえに幸福を感じていたのに対し、ハモンド氏は子どもっぽさゆえに苦しみ、しかも相手に迷惑をかけてしまいます。
 

「まちがえられた家」(The Wrong House,1919)★★★★★
 ――ラヴィーニア・ビーンは椅子に腰かけ、慈善事業のためにまた一枚ヴェストを編もうとしていた。その日は朝からしんしんと冷えた。こんなときはゆったりと浴槽に寝そべり、身体を湯のぬくもりにゆだねるのがいちばんだった。そのたびに、ラヴィーニアは思う。お棺に納められるときには、こんな姿勢を取らされることになるのだ、と。ラヴィーニアは編み物を続けて、大きな溜め息をついた。

 確かに死が徐々に近づいている老嬢とはいえ、たわいない空想という点ではこれまでの作品とさして違いはありません。人間の身体に合わせて棺が作られているのではなく、人間の身体が棺におさまるように創られているのだという逆さまの発想も、空想特有の無責任な思いつきだと思えばリアルです。状況が一変するのは、間違いだったとはいえ、現実を突きつけられた瞬間でした。薄々感じてはいながらも見ないふりをしていたのに、他人からぶん殴られたような不意打ちをもろにくらってしまいました。
 

「冒険の味」

「小さな家庭教師」(The Little Governess,1915)★★★★★
 ――女子家庭教師紹介所の人は、彼女にこんなふうに言った。「夕方の船に乗って、乗り継ぎの列車は“婦人専用”のコンパートメントにお乗りなさい。これまで外国にいらした経験はないんでしょう?」船が停まり、タラップを降りると、車掌か駅長がトランクを引ったくって「はい、こっち、こっち」と乱暴に歩きだした。コンパートメントに入れば、フランス人の隣客がちょっかいをかけてくる。

 世間知らずの若い家庭教師が、悪意ある人々に遭遇してショックを受けながら、乗客のうわべの優しさにほだされて、それ以外の人間に悪意をぶつけてしまう愚かな行動を取ってしまいます。騙される人を書きなさいと言われたらこう書くというべきお手本のような人物描写でした。
 

「船の旅」(The Voyage,1921)★★★★☆
 ――フェネラは祖母と一緒に船に乗った。「向こうにはいつまでいなくちゃならないの?」フェネラは父親にたずねた。「しばらくはね。さあ手を出して。一シリングだよ」。一シリング! 永遠に帰ってこられない、ということだ。船が出てからも必死で埠頭に父親の姿を探した。祖母と顔見知りらしい船室係が、黒ずくめの祖母とフェネラの黒いブラウスとスカートを見て、お悔やみの表情になった。

 それとなく描かれてはいるものの、少女の身に何が起こったのかが具体的に明かされるのは中盤も過ぎてからです。少女の不安は父親と離れての長旅だからというだけではなく、ほかに理由のあったことがわかると、一シリングという破格のお小遣いをもらったのは永遠に帰ってこられないからだという微笑ましい描写にも、また違った印象を受けます。旅慣れたおばあちゃまがサンドウィッチの値段に憤慨したり二段ベッドの上段にするすると上ったり、いつもどおりの日常として機能していました。
 

「若い娘」(The Young Girl,1920)★★★★☆
 ――「あなたにヘニーをお願いしてかまわないでしょう?」ラディック夫人はわたしに言った。「この子にカジノを見せてやりたいの」「おしゃべりはそのくらいにして、お母さん」娘はたまりかねたように言った。わたしが弟のヘニーと待っていると、ラディック夫人が娘を連れて再び現れた。「この子、入れてもらえなかったの。二十一だって言ってやったのに。マキューアンさんの奥さんにさそわれて、でもこの子をひとりにしとくわけにはいかないでしょ――」そこで“この子”が顔をあげた。「なんでひとりにしとくわけにいかないの?」

 まぎらわしいのですが岩波文庫や『ちくま文学の森』に収録の「少女」は原題「The Little Girl」で別の作品なのですね。子ども扱いはされたくない、でも大人にもなりきれない、思春期の少女の描かれ方としてはわかりやすく、マンスフィールドならではの要素は薄い作品でした。
 

「勝ち気な女」

「燃え立つ炎」(A Blaze,1911)★★★★★
 ――「マックス、おれはもう少し滑ってゆくとエルザに伝えてくれないか」という夫からの伝言を聞いたエルザは、マックスにたずねた。「で、雪の斜面を満喫してきた?」「そこそこは。ご主人は遅くなるそうですよ」「動きまわるのはやめていただけない、マックス?」「無理です。俺にはできない。もう疲れました」「ちゃんと説明してちょうだい」「あなたにはわかっているはずだ。そっちから誘いをかけといて」

 最初期の作品で、繊細な心理描写というよりも直接的な言動が描かれていますが、恋愛遊戯に耽る女心とそれに振り回される男心がズバリ描き出されているという点、やはり見事です。簡潔にして適確。二人の火花散るやり取りのあとに、コキュめいた夫の描写があるのが笑いを誘います。
 

「ささやかな過去」(A Little Episode,1909)★★★★☆
 ――イヴォンヌはコンサート・ホールをゆっくりと移動していた。男たちの称賛の眼差しと女たちの暑苦しい親しさを、うっすらと感じながら。パリで芸術家を志した父親に奔放に育てられたが、父親の死後は伯父夫妻に引き取られ、淑女としての教育を受け直されたのだ。ジャック・サン・ピエールが舞台に出てきてピアノに向かった。以前と同じ、変わっていなかった。イヴォンヌは楽屋に会いに行った。

 2012年に発見された未発表の原稿のうちの一篇。幸福感に満ちている女性がしっぺ返しを喰らうという点は「幸福」と同じですが、自信に満ちた世間知らずの若い娘と世間ずれした年上のジゴロの描かれ方がやや類型的で、イヴォンヌの青臭さばかりが目立ちます。
 

「一杯のお茶」(A Cup of Tea,1922)★★★★★
 ――ローズマリーに話しかけた若い女は、痛々しいほどに痩せて、赤くなった手で外套の襟元をかきあわせていた。「お、お、奥さま。お茶を飲むお金をいただけないでしょうか?」。ローズマリーは、小説の一場面のように感じた。小説や舞台で見たりしていることを、このわたしが実践したら……「わたしの家にいらっしゃいな。一緒にお茶を飲みましょう」

 持つ者の余裕と優越感と、女らしい気まぐれは、これまた自分大好きな女心によって、あっさりと覆されます。旦那さんは冗談のつもりだったのでしょうが、もとより慈善などではなくただの気まぐれなのですから、たとえ冗談でも嫉妬の目は潰しておくのがローズマリーにとっては正義なのでしょう。
 

「男の事情」

「蠅」(The Fly,1922)★★★★★
 ――もう六年も経つというのに、生きているときのまま軍服を着込んだ姿で、朽ち果てることもなく永遠の眠りについている姿しか思い浮かんでこない。「息子よ……」社長はつぶやいた。そのとき、デスクに置いたインク壺のなかで、蠅が一匹、溺れかけているのに気づいた。社長はペンを使ってすくいあげ、吸い取り紙のうえに落とした。蠅は前肢う動かし翅のインクを拭い落とした。社長は思いつきから蠅のうえにインクを垂らした。

 生き死にに対する理不尽や、人の心の不確かさが、見事に切り取られた作品です。人は一つのことだけをつねに考えているわけではないという当たり前のことを思い知らされます。ただしマンスフィールドが実験小説的な意識の流れ派とは違うのは、きちんと起承転結のある物語になっているところでしょう。

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