『ひとりで歩く女』ヘレン・マクロイ/宮脇孝雄訳(創元推理文庫)
『She Walks Alone(Wish Yous Were Dead)』Helen McCloy,1948年。
誰かがわたしを殺そうとしています――という一文から始まる手記。
西インド諸島に滞在していた語り手は、いとこのルパート・ロードから届け物を託されてアメリカに帰国する直前、読み書きの出来ない庭師から代筆を頼まれます。ところがルパートによると、そんな庭師などいないと言います。しかも語り手はその後、郵便局で何かを書いている庭師を目撃しました。
船に乗り込み荷物を整理していると、ルパートから託された封筒が破れてしまいます。青写真と聞かされていた封筒の中身は、十万ドルの大金でした。安全な金庫に保管してもらおうと船のパーサーに預けに行った語り手は、パーサーの顔を見て衝撃を受けます。そのパーサーこの代筆を依頼した庭師だったのです。
パーサーはルパートのお金目当てに語り手の命を狙っているのではないか……不安を覚えるそんな折り、乗客の飼っている毒蛇が逃げだし、驚いた女性客が転落死する事件が起こります。
ヘレン・マクロイというと地味な良作を書く作家というイメージだったため、これだけインパクトのある謎やサスペンスが入れ替わり立ち替わり次々と描かれていることに驚きました。大金に気づいた語り手がお金を金庫に預けるかどうかを友人と議論する場面の、理知的でテキパキした様子も小気味よく、被害者(らしい)ということを差し引いても応援したくなってくるところがあります。
この手記だけでも目が離せないのですが、手記は途中で途切れてしまい、警察の捜査が始まります。この場面は通常の捜査のほかにも、真実を手記から読み取ってゆくという、いわば読者と同じ視点の安楽椅子探偵的なところもあって、手記が途切れたからといってサスペンスも途切れたりはしないところはさすがです。
しかもこの捜査パートでも意外な事実がぽこぽこと出てきて、謎は深まるばかりです。殺されると思っていた人物【※ネタバレ*1】とは別の人物【※ネタバレ*2】が殺されてしまい、偽の遺書かと思われた庭師の代筆の意味が失われてしまう【※ネタバレ*3】など、何が真実なのか見当もつきません。
サスペンスとは言っても謎解き探偵ものも有する著者のこと、大金の隠し場所などをはじめとした伏線も冴えていました。毒蛇の持ち主のハーリー博士が頭上からレンチを落とされ指を負傷する場面の意味【※ネタバレ*4】は、それに気づく人間の観察眼と推理力が秀でているのであって、よほどの読者でなければ気づけないと思います。博士の命を狙ったのか隣の奥さんを狙ったのかが、その時点では読者にはわからないのだとはいえ。
これに限らず犯人の頭がよくないと起こらなかった事件だと思います。関係者がみんな頭がいい。頭のいい関係者がそれぞれの利害によって動くので、真相が明らかになるたびに事件の構図が目まぐるしく変わります。たいていの作品はどこかでサスペンスが停滞するものですが、おかげでこの作品はそういうこともなく、最後まで気の抜けないサスペンスでした。
西インド諸島を発つ日、わたしは、存在しない庭師から手紙の代筆を頼まれた。さらに白昼夢が現実を侵したように、帰途の船上で生起する蜃気楼めいた異変の数々。誰かがわたしを殺そうとしています……一編の手記に始まる物語は、奇妙な謎と戦慄とを孕んで闇路をひた走る。眩暈を誘う構成、縦横無尽に張られた伏線の妙。超絶のサスペンス!(カバー)
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