『世界を売った男』陳浩基/玉田誠訳(文春文庫)★★★★☆

『世界を売った男』陳浩基/玉田誠訳(文春文庫)

 『遺忘・刑警』陳浩基,2011年。

 今や『13・67』『ディオゲネス変奏曲』ですっかり著名となった香港出身の作家による、長篇デビュー作であり、第2回島田荘司推理小説賞受賞作でもあります。

 原題は『記憶喪失の刑事』くらいの意味でしょうか。邦題はデヴィッド・ボウイの曲のタイトルであり、エピグラフにも引用されています。主人公の一人がデヴィッド・ボウイのファンであり、ドッペルゲンガーを題材にしたと言われる歌詞の内容が記憶喪失と本書の仕掛けに関わっているくらいで、実際に世界を売る話というわけではありません。

 妊婦の腹を刺すという残虐な夫婦殺しを担当した許友一《ホイ・ヤウヤツ》巡査部長は、一週間後に奇妙な感覚に襲われる。雑誌記者・廬沁宜《ロー・サムイー》(阿沁《アッサム》)から取材を申し込まれたことで違和感の正体に気づいた。事件は一週間前ではなく六年前に起こったことだという。許は六年間の記憶を失っていた。六年前の許の直感とは裏腹に、犯人は第一容疑者の林建笙《ラム・ケンサン》であり、事件は既に解決していた。事件を題材にした映画が作られるため、阿沁は関係者に取材しているのだという。被害者の姉・呂慧梅《ルイ・ワイムイ》、林の妻・李静如《リー・チンユー》らに会って話を聞くうち、許は六年前の直感を改めて信じたくなった。やはり林は犯人ではないのでは――。

 単純に事件の謎を追う警察小説(というか、許と阿沁による探偵小説)として面白いのですが、そこに許が記憶を失った理由や、章ごとに挿入される関係者の過去パートの意味が、最後になって明らかになるに至って、これが堂々たる本格ミステリであることに気づきます。

 記憶喪失に関する真相は島田荘司のある長篇を連想しますし、ジャプリゾ『シンデレラの罠』のあの有名な趣向(探偵であり犯人であり被害者であり……)が響いているようにも思えますし、真犯人に気づくきっかけもホームズの「犬はあの夜なにもしませんでした」に通ずるものが感じられます。犬ではなくこの作品に通底するデヴィッド・ボウイをチョイスするあたりが心憎い。

 撮影所のロッカーに潜入捜査するハラハラの場面や、パブの意味深な数字の意味が、真相がわかってみると笑えるものだったりするあたりの力の抜き加減も絶妙です。

 ただの妄想だと思えたものがきっちり記憶として回収されるラストシーンも非常にお洒落で、解説が恩田陸というのもわかる気がします。

 メイントリックが島田荘司氏の唱えるところの二十一世紀本格なので、そこらへんで評価が別れると思います。

 六年間の記憶が一夜にして消えた。刑事である自分に一体何が起こったのか? 昨日まで追っていた事件は解決済み。納得できず香港の喧騒の中を駆ける男の前に、驚愕の真相が。第二回島田荘司推理小説賞受賞作。「13・67」でミステリ界を席巻した著者の、これが衝撃の長編デビュー作。アジアの鬼才、ここに現る!(カバーあらすじ)

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