『ガール・イン・ザ・ダーク 少女のためのゴシック文学館』高原英理編著(講談社)★★★☆☆

『ガール・イン・ザ・ダーク 少女のためのゴシック文学館』高原英理編著(講談社

 長年にわたってゴシック関連の仕事をしてきた著者の、ゴシック文学アンソロジー
 

「獣」モーリーン・F・マクヒュー/岸本佐知子(The Beast,Maureen F. McHugh,1992)★★★★☆
 ――わたしは十三歳だった。父とわたしはミサに行くところだった。気恥ずかしくてただ普通に歩くことしかできなかったが、もういちど七歳に戻って守られたかった。わたしは教会に入って祈った。観覧席の下の空間は暗く謎めいていた。モップ、雑巾、燭台。何かがかさりと鳴った。もしかしたら暗がりの中に誰かいるのかもしれない。わたしが父に「犬かな?」と言うと、父はやっと振り返ってそちらを見た。

 2014年刊行のアンソロジー『変愛小説集』収録作ですが、編者によればこの作品が本書を編むきっかけだということで、本書にも収録されています。子どもの不安や空想が実体を持つというのは一つの表現技法であり、不安が確かに子どもに影響を与えるという意味では、実体であれ空想であれ変わりはありません。そうした不安から父親に守られながらも、その父親にも怪しさを感じてしまうのは、冒頭でも描かれた十三歳という少女の年齢ゆえなのでしょう。
 

「トゲのある花束」立原えりか(1966)★★★★☆
 ――その日はわたくし、音楽会に出かける予定でした。楽しみにしていたのです。心をゆさぶる弦楽器のひびきと、トリカブトをためしてみることができるので……。すりつぶしたトリカブトを栗のイガにぬりつけるのです。その夜のわたくしは胸をおどらせていました。花束をあげる人は決まっていましたけれど、栗のイガはだれに捧げようかと……。

 昏い愉しみに耽る少女という、ゴシックというイメージを体現したかのような内容です。今ならメンヘラとか腐女子とか噓松とか言われそうな臭い内容ながら、てらいのない上品な抑制された文章がそれらとは一線を画しています。
 

「サイゴノ空」川口晴美(2009)★★★☆☆
 ――最後に見る空はせめてきれいな青ならいいのにと/思ったけれど……//……どうしてわたしはこんなふうに死んでゆくのだろう/どうして殺されなければならなかったのだろう/まだほんの少ししかこの世界に生きていないのに/……

 死にゆくものの独白は内省的で観念的になりがちだと思うのですが、見上げる光景が鮮やかに浮かび上がるように映像的でもありました。
 

「想ひ出すなよ」皆川博子(2003)★★★★☆
 ――土建屋の姓は谷といった。谷にはわたしと同い年の女の子がいた。祥子とは毎朝誘いあって登校した。誘いあう級友はほかに二人いた。父親が士族で軍人という宮子と、父親がおらず母親が産婆で生計を立てていた冬美だ。わたしは冬美に好意を持ち、宮子を徹底的に嫌い、祥子を見下していた。あるとき祥子を遊びに誘いに行くと、十六、七の若い女がいた。祥子の従姉だというエダの離れで、わたしは本を読むのが楽しみになった。

 濃密な文章で語る語り手に鬱陶しさを感じるにも関わらず、語り手が嫌いと明言している宮子が本当にウザくて余計なことしかしないので、嫌いになるのも仕方ないかなと感情移入してしまう凄さがあります。そのせいで悲劇にすらもカタルシスを感じました。
 

「ふしぎなマリー」保富康午作詞(196x)
 ――マリーはふしぎな女の子/学校がえりのみちばたで/黒猫かかえたおばさんに/まほうの呪文をおそわった//……//どの子もホーキにとびのって/学校逃げだしスタコラサ//……//マリーはさびしく ひとりぼち//……

 昭和40年代のテレビ番組で流れていた子ども向けの歌より。解説を読んでようやくポイントがわかりましたが、解説を読んでも「マギカ」を観てないのでやっぱりわかりませんでした。
 

「魔法人形(抄)」江戸川乱歩(1957)
 ――六年生のミドリちゃんと五年生のルミちゃんが公園にいくと、ベンチにおじいさんと五つくらいのかわいい男の子がこしかけています。自己紹介がおわって握手したところ、坊やの手は木でできているように動きません。「ハハハ……やっとわかったね。この坊やは人形なんだよ」「ああ、わかった。おじいさんは腹話術師なのね」ルミちゃんはもっと人形とお話したくて、とうとうおじいさんの家へいってみることになりました。

 探偵小説的な解決が明らかにされず人形が人形のままだったら――という願望を実現させるための抄録だそうです。
 

「緑の焰」左川ちか(1931)★★★★☆
 ――私は最初に見る 賑やかに近づいて来る彼らを 緑の階段をいくつも降りて 其処を通つて……森林地帯は濃い水液が溢れてかきまぜることが出来ない 髪の毛の短い落葉松 ていねいにペンキを塗る蝸牛 蜘蛛は霧のやうに電線を張つてゐる……

 緑の終末。大海赫『ビビを見た!』やJ・G・バラード作品のような、静かで美しい世界です。
 

「不死」川端康成(1963)★★★☆☆
 ――老人と若い娘が歩いてゐた。少し行くと高い金網が立つてゐた。恋人たちは金網も目につかぬやうだ。立ちどまりもしないで、ふうつと金網を通り抜けた。「まあ? 新太郎さんもお通りになれたの?」

 『掌の小説』より。耳が聞こえないからこそ、死者の声を聞いて会話できるのでしょう。
 

「青ネクタイ」夢野久作(1932)★★★☆☆
 ――ホホホホホ……女学校を出てからお土蔵に閉じ込められてたの。乳母がお人形さんを持って来てくれた時の嬉しかったこと……。お土蔵の鼠がお人形さんのお腹を喰い破っちゃったの。中から四角い新聞紙の切れ端が出て来て、読んだらビックリしちゃった。……彼女は遂に発狂して、叔父の家の倉庫の二階に監禁さるるに到った。ここに於て彼女を愛していた名探偵青ネクタイ氏は憤然として起ち……あのお人形さんは本当の事を教えに来てくれた天使だったのよ。

 これもまたよくある話ではありますが、「ホホホホホホ……」という擬音の使い方だけで一目で夢野だとわかります。
 

「うたう百物語(抄)」佐藤弓生(2012)★★★★☆
 ――女の子は誰でも、自分のための首を持っている。首飾りを買ったり編んだりするのはそのためだ。どんな首飾りの上にも、美しい首は載っている。

 歌人の短歌1首に著者の掌篇を加えたアンソロジー。「静かなる首飾り……」の歌も著者の掌篇も、どちらも首よりも首飾りが主であることで異様な効果が生まれています。「風吹けば薔薇園の……」に添えた掌篇はアリス物語を引用したことで図らずもより少女らしさが強まっています。
 

「夜の姉妹団」スティーヴン・ミルハウザー柴田元幸(The Sisterhood of Night,Steven Millhauser,1998)★★★☆☆
 ――少女たちはシャツを脱ぎ月光を浴びながら野蛮な踊りを踊ると言われている。胸に奇怪な象徴を描き込み、胸をなすりつけあい、殺された動物の血を飲むと聞いている。十三歳になるエミリーは高校二年生のメアリーから夜の姉妹団に誘われ、夜の森のなかで脅され、無理矢理胸を触られたが、秘密に耐えかね告発状を送ったのである。

 短篇集『ナイフ投げ師』より。決定的な証拠などなく証言と憶測からまことしやかに真実のように語られる都市伝説。コントロールが利かなくなれば、魔女狩りやアカ狩りになるのでしょう。そしてこの作品の場合、概念としての少女というか、謎めいた存在として少女でなくてはならないのでしょう。
 

「枯れ野原」深沢レナ(2017)★★★☆☆
 ――そういえばあの校舎の裏側にはなにがあるんだろう、ってみんなから少し離れて立っていたときにふとそう思った。みんなはなんだかよくわかんない話で盛り上がっているからわたしが少しずつ右に右にずれていってだんだん群れから離れていくのに気づいてない。

 詩。繰り返しの多用が、悪夢のなかで走っても走っても前に進まないようなもどかしさを生んでいます。
 

「美少女コンテスト」小川洋子(1996)★★★★☆
 ――母には二つ宝物があった。一つは父からプレゼントされたオパールの指輪で、もう一つはわたしが赤ちゃんコンクールで優勝した時の新聞の切り抜きだった。母はその裏側を一度も読もうとしない。○○さんが近くの山で採ってきた茸をすき焼きにして食べたところ、嫁の△△さん、孫の◎◎ちゃんが意識不明の重体――。わたしは自分の顔をかわいいと思ったことはない。十歳になった時、母が美少女コンテストの応募用紙を手に入れてきた。

 母親からの期待を背負っているにもかかわらず、というか、それゆえに醒めたところのある主人公にとって、それだけに我が道を行く少女の存在は衝撃だったのでしょう。怒りや悔しさではなく拗ねる幼稚な母親もリアルです。
 

「モイラの裔(抄)」松野志(2002)★★★☆☆
 ――純白のグラジオラスを待ち人に 暗号「密会・武装完了」/もしぼくが男だったらためらわず凭れた君の肩であろうか/身の丈の幸福などは 明け方の路上にチョークの人型ふたつ

 短歌。はっきりと少女のころに思いを馳せている「愛ならぬ何かを探した十代のたとえば連弾・空中ブランコ」「パイン材のテーブルを円く処女ばかり五人が囲みたる遠き午後」「少女らが歌う鎮魂歌 ソプラノはもはや我にははるかな高み」のほか、一首目の暗号などにも少女らしい稚気が感じられます。
 

「ひなちゃん」松田青子(2016)★★★☆☆
 ――私はひなちゃんの体を洗う。本当にきれいだ。これは私とひなちゃんの大切な儀式だ。私の恋人は夜にやってくる。きっかけは人生はじめての釣りだった。竿に手応えを感じてリールをまくと、糸の端には白いものがくっついていた。それがひなちゃんだった。というか、ひなちゃんの骸骨だった。

 落語「骨つり」をもとに、原典は「同性同士の恋愛(性愛)の「おかしさ」がサゲに使われていることが気になって」「幸せなレズビアンカップルの話」を書いた(著者twitter)そうです。
 

「夢やうつつ」最果タヒ(2014)★★☆☆☆
 ――「わたしをすきなひとが、わたしに関係のないところで、わたしのことをすきなまんまで、わたし以外のだれかにしあわせにしてもらえたらいいのに。わたしのことをすきなまんまで。」/土曜日はしんだふりの練習をして、花畑を何重にもつみかさねた実験場で、ゆっくりとしずんでいきたい。……

 実験場でしずんでゆく映像こそ美しいものの、それ以外は歌謡曲みたいです。
 

「ガール・イン・ザ・ダーク」高原英理(2018)★★☆☆☆
 ――小学校一年のとき、行方知れずの子が出た。人の来ない処に埋められていると言われている。その源が工場脇の雑草の生う場所だった。そこにきっと背の高い灰色の人が待っている。ハルの夢はそこで終わる。リミの夢が続きを語る。わたしたちはそっと隠れていた。幼女の汚れていない贓器は彼方の豊かな国の皺に埋もれた金持ちの寿命を延ばすために使われる。

 編者がテーマに沿って書き下ろした作品で、スレンダーマンを彷彿とさせる何かから逃げ惑う少女の夢のイメージが連ねられています。
 

嵐が丘シルヴィア・プラス/高田宣子・小久江晴子訳(Wuthering Heights,Sylvia Plath,1961)★★☆☆☆
 ――地平線が薪束のように私を囲む/傾ぎ 揃わず 揺れるまま。/マッチ一本あれば 私を暖めるのに/そしてあの細かな線が/大気を茜色にあぶると/ピンで留めた遠景もぼやけ/鈍色の空を さらに濃く染めあげるのに。/……

 周りがすべて地平線という冒頭の風景にこそ惹かれますが、シルヴィア・プラスといえば「繊細すぎれば/ともに生きてはゆけない」という最終聯のイメージでしょう。
 

「八本脚の蝶(抄)」二階堂奥歯(2006)★★★☆☆
 ――虫のオブジェで一番好きなのは、東大寺大仏殿にある花挿しについている青銅の揚羽蝶だ。からだがむくむくしていてかわしいし、なんといっても脚が八本もあるのだ。/自分の躰は着せ替え人形だと思う。この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。女を素材にして「女」を作ってみました。

 十年以上前に親本を読んだときにはちょうど本書に抄出されている記事に感銘を受けたものですが、いま読むと痛々しさを感じてしまいました。歳は取りたくないものです。
 

「血錆」田辺青蛙(2013)★★★☆☆
 ――ある日、奇妙な少女に出会った。僕の指先に口を付けて血を飲みたいという。その感覚は悪くなかったが、僕は彼女の耳に囁きかけた。「僕の血は飲まない方がいいよ。人殺しの血だからさ」

 なぜか吸血鬼とエロティシズムには切っても切れない縁がありますが、これなどもかなり純愛寄りとはいえそれに類する作品と言えるでしょう。
 

トミノの地獄」西條八十(1919)★★★★☆
 ――姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉を吐く。/ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。/鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総が気にかかる。/叩け叩きやれ叩かずとても、無間地獄はひとつみち。/暗い地獄へ案内をたのむ、金の羊に、鶯に。/……

 リズムに戴せて歌われる幻想的な言葉の数々は思わず暗誦したくなるような昏い魅力に満ちています。
 

満ちる部屋谷崎由依(2008)★★★☆☆
 ――むかし生家には曾祖母が生きていて、どうして生き物を殺してはいけないか知っているかと問うた。わからない。とわたしは答えた。すると老人は、生き物より幽霊のほうが怖いからだ、と言った。子どもはその言葉を受け取った。まっすぐに、あるいは正反対に。子どもは虫sの死骸を集めていた。幽霊がくるかと思って。

 Iという大学の知り合いが海を見聞きしたという部屋で、語り手も何かの存在を感じます。そうした体験を補強するのが、上に引用した曾祖母とのエピソードです。ラストシーンも印象的です。
 

「水妖詞館(抄)」中村苑子(1975)★★★☆☆
 ――貌が棲む芒の中の捨て鏡/桃の木や童子童女が鈴なりに/春の日やあの世この世と馬車を駆り/……

 もちろん童子童女が桃の木の枝に鈴なりになっているわけではなく、桃の木のそばで鈴なりに並んでいるのでしょうが、鈴なりにぶら下がっている恐ろしい光景を幻視することもできます。
 

「ファイナルガール」藤野可織(2014)★★★★☆
 ――リサの母親は三十歳くらいで死んだので、自分もそのあたりで死ぬだろうと思った。リサだって母親と同じく自分の娘を守って死ぬにちがいない。そのときまでは生き残る。リサには強固な意志があった。リサは連続殺人鬼に襲われたアパートのたったひとりの生き残りだった。三十歳くらいで死ぬころには母性のおかげで強くなれる。そう信じていた。十八歳の夏休み、大勢の友達とキャンプに行く。連続殺人鬼が放っておくわけがない。

 スプラッタホラーのパロディの形を借りながら、女性(に限らない誰も)が人生の要所要所で感じる不安や試練をとても極端な形で描いているようにも思えてきます。

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