『危険なヴィジョン〔完全版〕3』ハーラン・エリスン編/浅倉久志他訳(ハヤカワ文庫SF)
3分冊の最終巻。個人的には平均点がいちばん高い巻でした。
「男がみんな兄弟なら、そのひとりに妹を嫁がせるか?」シオドア・スタージョン/大森望訳(If All Men Were Brothers, Would You Let One Marry Your Sister?,Theodore Sturgeon)★★★☆☆
――チャーリ・バックスは記録が破棄され渡航もおこなわれていないヴェックスヴェルトにたどりつくことに成功した。「人類全体によって隔離されていた植民惑星とコンタクトを進めているのか」「たとえ彼らに癌を治せても、ですか?」「つまり、彼らが培ってきた文化のおかげで、彼らは正気で、癌とは無縁だと」「はい」「そんな正気と生きるくらいなら、狂気にむしばまれるほうがましだ」
タブーという点なら現在でも有効な近親相姦が扱われています。近親交配の恐れについて、「セックスについて話をするとき、ほとんどの場合、生殖とはなんの関係もない。妊娠や出産に関する言及を一としたら、性行為そのものにしか関係ない言及はその数百倍になるだろう。ところが、近親相姦という話題になると、答えはいつも子孫に関係する」という反論はもっともです。前半は近親相姦のことをわざとぼかしてヴェックスヴェルトの文化を語っているのですが、読みづらいし、小説として上手くいっているとも思えません。タブーな部分だけが目立つ失敗作でしょう。
「オーギュスト・クロラに何が起こったか?」ラリイ・アイゼンバーグ/柳下毅一郎訳(What Happened to Auguste Clarot?,Larry Eisenberg)★★☆☆☆
――十五年ばかり前、ノーベル賞化学者オーギュスト・クロラの失踪は全パリを巻き込む大騒動になった。我輩が一時的な友情をはぐくんだうら若き乙女は、翌朝には財布とともに消えていた。一文なしの我輩が訪れた家にいたのがクロラだった。犬を凶暴にさせるアロマを発明してズボンに浸し、子犬に襲われて飼い主と示談し、気前良い暮らしをしているという。
切れの悪いショートショートで、どこが危険なヴィジョンなのかわからないのですが、著者あとがきを読むかぎりでは諷刺か何かが込められているのでしょうか。
「代用品」ヘンリイ・スレッサー/宮脇孝雄訳(Ersatz,Henry Slesar)★★★☆☆
――三等ロケット兵トッドは四角い建物にたどり着き、椅子に倒れ込んだ。「助かった」「兵隊さんには奉仕したい。くつろいでください。あいにく肉も煙草も代用品ですがね」入口から女が入ってきて、不思議な匂いのするスープの皿を手渡してくれた。「これを飲むと気分がよくなりますわ」トッドの食欲は少し鈍り、代わりに別種の欲望が目覚めた。
スレッサーがこのアンソロジーに収録されているのは意外に思えるのですが、エリスンとは何度か共作しているのだそうです。内容はいつも通りのスレッサーです。著者あとがきからすると、オチではなく未来戦争が危険なヴィジョンなのでしょうか……?
「行け行け行けと鳥は言った」ソーニャ・ドーマン/山田和子訳(Go, Go, Go, Said the Bird,Sonya Dorman)★★★★☆
――彼女は走った。食べられること自体はかまわない。みんな生存していかなければならないのだから。でも、死ぬのは恐ろしい。飢餓が深まっていく中で生まれた三番目の子供は畸形だった。マーンは赤ん坊の首を折り、燻製小屋に運んだ。「ノー、ノー」彼女は自分の男に向けて叫んだ。……息子のニーリーはずいぶん大きくなった。次の首長になるはずのティッチーは敏捷で活力もあった。マーンもティッチーに殺された。ティッチーは彼女を引き寄せ……
これもタブーとしては現役のカニバリズムがテーマの作品です。逃げながら「スナップショット」として過去の場面が切り取られてゆく構成のおかげで、この世界ではこれが日常なのだという感覚を強く感じられます。
「幸福な種族」ジョン・スラデック/柳下毅一郎訳(The Happy Breed,John T. Sladek)★★☆☆☆
――今では誰も働いていない。ロイドは裸足で外に出たかったし、ミルクも自分で搾りたかった。だがマシーンはそれがいかに危険なことかを説明した。ワトリー教授は自宅のプールで生ぬるい水に足をつけていた。泳ぐのは禁じられていた。
機械を使うのではなく機械に支配されているディストピア小説です。
「ある田舎者との出会い」ジョナサン・ブランド/山田和子訳(Encounter with a Hick,Jonathan Brand)★★★★☆
――いったい何があの年寄りの田舎者を怒らせたのか、ぼくにどうしてわかるんです? ぼくは警察に協力するつもりですよ。ぼくのパパはたくさんの惑星を運営していて、パッツィのパパも建造ビジネスに携わっています。二人はそれぞれの王朝を統合させたくて、ぼくとパッツィをこのクルーズに送り出したんです。で、バーで出会ったこの老人は、彼の惑星の知識階級の花で、神学、音楽、外科学、政治学の頂点。するとこの老人が、創生神話を語り出したんです。ぼくはハッと気づきました。彼の惑星は、ぼくのパパが作ったものだと。
生命誕生のはじまりから作りあげた殖民惑星があったとすれば、それを作った会社は神なのか――? 創造主には違いありませんが、大工が神と崇められても戸惑うばかりでしょう。今にも通ずる問題提起を上手くコメディに仕立て上げています。
「政府印刷局より」クリス・ネヴィル/山形浩生訳(From the Government Printing Office,Kris Neville)★☆☆☆☆
――三つ半。引き出しを開けて、中に不思議な世界を見る。「その引き出しから出なさい! 触らないで!」ほら彼女がきた。覚悟はしてた。なんとか会話でもするか。「アメちゃんあるよ」「アメちゃんはそこにはないわよ」やつらのやるろくでもないことときたら。トイレのしつけでどれほど苦労したことか。
三歳半児の視点で語られる子育て。思考力はあるけれど知識と行動力がないということなのでしょうか。三歳半児の視点だけで充分に作品になると思うのですが、変にSF設定を入れたうえに徹底されているとも活かされているとも言いがたく、何だかよくわからない出来になってます。
「巨馬の国」R・A・ラファティ/浅倉久志訳(Land of the Great Horses,R. A. Lafferty)★☆☆☆☆
――雷鳴にふたりの男は首をかしげた。雨の降らないこの土地で雷が鳴ることは決してない。「この山の背を走ろう」ロックウェルがそういうと、スミスはぼんやりと「この涸れ谷は〈小さい川〉と呼ばれている」といってからわれに返った。この涸れ谷を生まれてはじめて見るのに、どうしてこんな名前が頭にうかんだのか。高地には〈巨馬の国〉と呼ばれる蜃気楼が立っていた。
ラファティは苦手――というか嫌いな作家です。この人のホラ話の面白さがわからないのです。例えば「一滴の雨も降らない土地の涸れ谷で、豪雨に遭ったことがある。もうすこしで溺れ死ぬところだった」とか、「その七人姉妹、六人しかいないじゃないか」のようなくすぐりは薄ら寒いとしか感じません。宇宙からの訪問者が地球の「一切れを地球から持ち去った」というのも、またつまらないギャグかと思ったら真実だったわけですが、それを「別にワタクシ面白いことなんて言ってませんよ」的な顔で言うからイラッと来ます。
「認識」J・G・バラード/中村融訳(The Recognition,J. G. Ballard)★★★★★
『S-Fマガジン』2007年5月号(→)の異色作家特集で既読。
「ユダ」ジョン・ブラナー/山形浩生訳(Judas,John Brunner)★☆☆☆☆
――男が祭服室の呼び鈴を鳴らすと、侍者が現れた。「勧告をお求めですか」男はうなずいた。「カリモフといいます」やがて司祭が入ってきた。「何をお求めかな」「神と話がしたい」「神はきわめてお忙しいのですよ」
ロボット神様の話。
「破壊試験」キース・ローマー/酒井昭伸訳(Test to Destruction,Keith Laumer)★☆☆☆☆
「カーシノーマ・エンジェルス」ノーマン・スピンラッド/安田均訳(Carcinoma Angels,Norman Spinrad)★★☆☆☆
――ハリーは九歳のとき一ドルを貯めて百枚のベースボール・カードを買った。それを元手に取引をおこない価格をつり上げた。カレッジではセックス小説を書いて三千ドルを手に入れた。新車を買い、ギャンブラーに金を貸し、梅毒菌を撲滅する変異ウイルスをつくりだした。齢四十に到ったとき、癌が全身に拡まり余命一年であることを知らされた。
トントン拍子の成功が単なる羅列にもかかわらず荒唐無稽で面白いです。すべてを可能にしてきた男がさて不治の癌に対してどう戦うのか、というのが後半なのですが、何でも内宇宙にすればいいってものでもないでしょう。
「異端車」ロジャー・ゼラズニイ/大野万紀訳(Auto-da-Fé,Roger Zelazny)★☆☆☆☆
――彼がアリーナに入場し、一周してまわった。「マノーロ!」歓声があがった。そして警笛の調べ。闇の内側からエンジン音が響いてきた。車がリングに入ってきた。そいつは前進をはじめた。マノーロはケープをひるがえし、そいつが通り過ぎるときにフェンダーを蹴飛ばした。そいつはうなり、向きを変えてマノーロにねらいをつけて突進した。
VS自動車闘技会。
「然り、そしてゴモラ……」サミュエル・R・ディレイニー/小野田和子訳(Aye, and Gomorrah...,Samuel R. Delany)★★☆☆☆
――そしてパリにおりてきた。その男たちはフレルクではなかった。トルコにいくと「これ聖イリーヌの聖堂かどうかご存知ですか?」とたずねられた。「ぼくも旅行者なんだ」「あら、トルコ人かと思った。その制服を着てるってことは、スペーサーね」「家はここから遠いの?」「お金は払えないわ。払えたらいいんだけど」
宇宙で作業するために去勢されたスペーサーと呼ばれる人々と、そんなスペーサーに倒錯した性意識を抱くフレルクと呼ばれるミーハーたち。そういう人たちがいる社会の、スペーサーの複雑な胸中というのは、そのまま1960年代のゲイの胸中なのでしょう。ピンと来ません。
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