『本と幸せ』北村薫(新潮社)★★★☆☆
自作朗読CD付き。
各種媒体に発表された短めの書評が中心となっているので、通常のエッセイ集だと思って読むと統一感もないし、内容的に物足りなさを感じる文章もありました。
それはそれとして。
北村薫の文章をいつからか鼻について感じるようになりました。
本書にもいくつもそう感じる箇所がありましたが、例えば『変愛小説集II』を紹介した文章です。「彼氏島」というタイトルの作品について北村氏は、「『彼氏の島』となっていたら、もうアウトだろう」と書きます。なぜアウトなのかの説明はありません。「わかる」「わからない」で言えば北村氏の言っていることはわかりますし、ここでなぜアウトなのかわからない人がいるのであれば、北村氏のかつての言葉を借りれば「時として作品は人を拒む」(だったかな?)ということになるのでしょう。
ところが北村氏はさらに駄目押しを加えます。「『カレシジマ』キシモトサチコ――という繋がりを見ただけで、「荒海や佐渡に横たう天の河」芭蕉――といった絶対性を感じてしまう」と。この句は文法的に解釈したり実際の風景として解釈したりしようとすると矛盾を生じてしまいますが、そんなことは問題ではなく、「荒海」「佐渡」「横たわる」「天の河」の組み合わせでこの句が完成しているように、「岸本佐知子『彼氏島』」で作品として完成している――ということだと思われます。
文章自体におかしなところはないし、書かれてあることもわかります。
けれどここで芭蕉の句を引いてくるところが、適切で膝を打つ明快な指摘というよりも、法水麟太郎による突拍子もないペダントリーのように感じられて、可笑しいやら鬱陶しいやらで反応に困ってしまうのです。
それも結局、わたしが北村氏の文章に拒まれている、というだけのことなのかもしれませんが。
閑話休題。
『本格推理10』には大倉崇裕「エジプト人がやってきた」、城平京「飢えた天使」、霧舎巧(砂能七行)「手首を持ち歩く男」が収録されているんですね。すごい巻です。『創元推理16』に掲載された新麻聡「五つのバーコード」も、「大技を使った快作」とのことです。
冒頭では愚痴を書きましたが、反対に北村氏の文章の良さが出ているのが『半七捕物帳事典』などの項です。「事典は読み物である」という指摘こそよくあるものですが、そこからの引用する言葉のチョイスや、「事典を読む楽しさとは、散歩の楽しさだ」という指摘、山田風太郎や松本清張がらみのコラムなど、エッセンスの抽出が抜群に上手いのです。
アンソロジストでもある著者がアンソロジーの魅力について語る『悪人の物語 中学生までに読んでおきたい日本文学1』もまた、贅沢な文章です。
『きのこ文学名作選』は単なる色物ではなく、収録作の内容もしっかり面白いのがいい作品でした。
『コレクション日本歌人選』は、春日井健の巻を水原紫苑が執筆しているので持っていましたが、本書で紹介されているのは塚本邦雄の巻。アンソロジーとしての魅力を語られると、塚本の巻どころかシリーズすべてを読みたくなります。
『大江戸視覚革命』の紹介も、引用している箇所が絶妙です。関西には大仏があるのに江戸に大仏がないのは納得いかんと、籠細工で作られた「合羽大仏」にはロマンと江戸っ子らしさを感じます。
一方で『うたの動物記』の引用部分には疑問も。「ゴキカブリ」が「ゴキブリ」になったのは明治17年の『生物学語彙』の誤植からというのは納得しがたい。外国語辞書の誤植「ニムラサキ」の場合はそれが外国語という身近に存在しないものの誤記だから定着してしまったのであって、日常に密着した語彙が専門的な辞書の影響で別の語彙に変わるとは到底思えません。確かにトリビアとしては面白いのですが、魅力を紹介する部分としては不適切だと思いました。
短文が多いなかで、珍しく3か月にわたって「近鉄ニュース」に掲載された福田恆存『有間皇子』はさすがに読みごたえがあります。池田はるみによる短歌「エンジンのいかれたままをぶつとばす赤兄とポルシェのみ知る心」から始めるのが北村氏らしいところです。
以前のエッセイでも印象に残っている、ルナール『博物誌』の「蛇/ながすぎる。」と「へび/長すぎる。」が、改訂で変わってしまっていたという話がありました。
中地俊夫「彼は死んでゐるのではないかといふ噂は打ち消されたり/死去のニュースに」という短歌自体があるあるネタですが、ワープロのサポート打ち切りというそんなあるあるな状況になったことを綴った文章も、北村氏ならではでしょう。
児童文学関連の仕事としてたびたび名前の挙がる赤木かん子『今こそ読みたい児童文学100』からは、「私が一番愛している子どもの本です」が「今となっては積極的におすすめはできません」という文章が紹介されています。北村氏ならずともこの姿勢には感服してしまいます。
『太宰治の辞書』について、太宰治「女性徒」に出てくる辞書の「ロココ」の解説に疑問を持った主人公が図書館に出向いた「その一部始終を「小説」として書きました。私にとって、それが表現の必然でした。評論やエッセイにはならないこと、それでは書けないことを書いたわけです。」という、自作解説のような文章はありがたい限りです。
乱歩『怪奇四十面相』は「シジュウメンソウ」ですが、『探偵小説四十年』は「ヨンジュウネン」だということを乱歩の言葉を直接聞いている当時の編集者に確認した、という話を読むと、関係者が生きているうちに生の声を聞くことの大切さを感じます。
大河ドラマを観ないので知りませんでしたが、秀吉の正室が「寧々」ではなく「ね」だったという新説が一時期となえられていたそうです。教科書もそうですが、新説や流行りの説ではなく定説になってから採用してもらいたいものです。
巻末で「自選短篇ベスト12」が発表されています。もののみごとにミステリはありませんね。わたしが読んでいるのは「水に眠る」「ものがたり」(『水に眠る』)、「さばのみそ煮」(『月の沙漠をさばさばと』)、「夏の日々」(『語り女たち』)まででした。
おまけとして高校時代のショートショート7篇収録。
朗読CDには「さばのみそ煮」と「白い本」が収録されています。「さばのみそ煮」を選んだのは「作中に《父》のでたらめ歌があるからだ。メロディは、文章では伝えられない」という事情があったそうです。
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