『BUTTER』柚木麻子(新潮文庫)★★★★★

『BUTTER』柚木麻子(新潮文庫

 木嶋佳苗事件をモデルにしたという、これまでの柚木作品のイメージからはまったく想像できない内容紹介に、戸惑いを感じずにはいられません。

 蓋を開けてみればいつもの柚木印ではありました。週刊誌記者の町田里佳は、友人の家で食べ物を振る舞われて癒やしを感じ、木嶋佳苗がモデルの梶井真奈子に拘置所で面会したときには被告人おすすめの料理を自作して舌鼓を打ちます。その描写がまるでグルメ漫画のようで、被告人と記者による『ランチのアッコちゃん』が始まってもおかしくはないほどでした。

 梶井真奈子の言葉に誘われるまま美食の魔力に囚われてゆく里佳の姿を見ていると、被害に遭った男たちが魅力に引きずり込まれるのもわからないでもありません。

 一方で人を見る目が辛辣なのも、これまでの作品にも見られた特徴です。

 一人では生活できない中年男性に対して、なぜ自力で改善しようとしないのか、と容赦がありません。

 大学講師時代に学生運動に参加していて教え子と結婚し、料理が不味いと言っては家を飛び出し、離婚を切り出されると狼狽する父親。よくぞここまで気持ち悪い男性像を用意できたものだと感心すらしてしまいます。

 梶井真奈子と面会するうちに太りだした里佳に対し、「男のデブと女のデブは違うでしょ?」と当たり前のように言う彼氏は極端な例としても、女は痩せるべし、という同調圧力のようなものは確かに存在しているのでしょう。

 デブに対する圧力が男だけでなく女のものでもあったように、厳しい視線は男性に対してだけではありません。

 梶井真奈子は自身が批判される理由を、自由な自分に対する嫉妬だと吠えます。

 ところが地元では自己評価どころか報道によるイメージとも違う、誰からも相手にされないがゆえに妄想をこじらせた人間だったことが暴露されます。

 その取材の過程で親友の伶子やその夫の、普段は見えない弱い部分も仮面を剥がされます。

 言ってみればこうしたいつもの柚木印が、梶井真奈子に迫るルートになっていることに驚きました。著者の筆は梶井真奈子だけでなくあらゆる主要人物を斬っています。だから単なる犯罪者の壮絶な過去!みたいな紋切り型にはなりません。なり得ません。

 当たり前と言えば当たり前なのですが、犯罪者も人間なのですから、こういう形でのアプローチもあるのだと感心しました。

 第10章に入り、突如として伶子が主役のサスペンスみたいになります。その過程で里佳にとって理想の女性だった伶子の負の面が明らかになり、両親のこと、夫との関係や自身の欠点などがさらけ出されてゆきます。その行動力とそれとは裏腹の脆弱さ、両極端に振り切った個性には、梶井真奈子をも食ってしまうほどの魅力がありました。

 両親との訣別の決定的な理由となったのと同じ言葉を、夫からも聞くことになったことを知ったときには、その業の深さに、梶井真奈子のことなどそっちのけで伶子のことが気になりました。

 けれど一見すると暴走した伶子の内省に見えるものが、梶井真奈子の人柄と事件に迫る道のりになっていることに気づかされます。

 保守的な男が求める女性像こそ、実はそういった男が嫌うはずの女なのはなぜかと、伶子は疑問を感じます。そうした男を凌駕しない女という女性像が、その後に今度は梶井真奈子の口から、男に気に入られるコツとして語られることになります。

 梶井真奈子にできることなら自分にもできると、あなどって高をくくって痛い目を見ます。

 自分は掃除がしたいだけで相手は夫でなくてもよいのではという発想も、その後にリプライズされます。

 料理の作り方もそうでしたが、掃除の仕方を細かく書き込んでいるところからは主婦小説っぽさを感じたりもしました。ところがそこからの切り込みがエグいのです。日常感覚からの落差というインパクトも相まって、梶井真奈子事件の真相はこれしかないのではと思わせられます。

 帯で佐藤優氏はノンフィクション・ノベルという言葉を使っていますが、本書は取材に基づいたノンフィクションというわけではなく、ジャンルとしては想像によるフィクションだと思われます。だから飽くまで木嶋佳苗事件ではなく梶井真奈子事件です。

 里佳が拘置所で梶井真奈子に向かって真相と信じるものを語る場面はクライマックスの一つです。父親の死に対する負い目を梶井真奈子の身の上に重ね合わせ、わざわざ梶井真奈子が通っていた料理教室に通ってまで取材対象に迫ろうとする里佳の推論には、紛れもない説得力がありました。

 梶井真奈子が里佳を罠に掛けて書いた自叙伝は、里佳の周辺には散々な言われようでした。料理教室に通い、地元を訪れた里佳や、料理と掃除で梶井真奈子の昔の男に挑んだ伶子、そしてそれを読んでいる読者にしてみれば、梶井真奈子の言葉が嘘まみれなのは歴然としています。それにしても里佳が飲み込んだ言葉「話に耳を傾けてくれる人がいないんだもの」は辛辣でした。

 木嶋事件では事件そのものよりも、なぜあんなデブでブスが何人もの男を籠絡できたのか――ということに世間の関心が集まりました。本書がノンフィクション・ノベルだとするならば、そうした世間へのアンサーとしてだと思います。

 男たちの財産を奪い、殺害した容疑で逮捕された梶井真奈子《カジマナ》。若くも美しくもない彼女がなぜ――。週刊誌記者の町田里佳は親友の伶子の助言をもとに梶井の面会を取り付ける。フェミニストとマーガリンを嫌悪する梶井は、里佳にあることを命じる。その日以来、欲望に忠実な梶井の言動に触れるたび、里佳の内面も外見も変貌し、伶子や恋人の誠らの運命をも変えてゆく。各紙誌絶賛の社会派長編。(カバーあらすじ)

 [amazon で見る]
 柚木麻子 BUTTER 


防犯カメラ