『どこか、安心できる場所で 新しいイタリアの文学』パオロ・コニェッティ他/関口英子、橋本勝雄、アンドレア・ラオス編(国書刊行会)★★★☆☆

『どこか、安心できる場所で 新しいイタリアの文学』パオロ・コニェッティ他/関口英子、橋本勝雄アンドレア・ラオス編(国書刊行会

 日本オリジナルの21世紀イタリア文学アンソロジー

 小野正嗣による序文が収録されていますが、内容にがっつり踏み込んでいるうえに、無理に日本との同時性にかこつけたり、作品の社会問題にばかり焦点を当てたりと、収録作がつまらなそうにしか感じられない序文の内容に、いきなり読む気を削がれます。

 翻訳は下手ではないのですが、無味乾燥な訳文なのでどの作品も同じに見えてしまいました。現代イタリアの作家の誰も彼もがこんな薄っぺらい文体ではないはずです。
 

「雨の季節」パオロ・コニェッティ/関口英子訳(La stagioone delle piogge,Paolo Cognetti,2007)★★★☆☆
 ――あれは一九八七年の夏だった。両親の友人がトレーラーハウスを貸してくれて、僕と母はそこで過ごし、そのあいだ父はじっくりと身の振り方を考えることになった。父が別の女の人と関係を持っているのも、母が最後通牒を突きつけたことも知っていた。トレーラーハウスまで案内してくれるのは、ティトといった。森の男だ。

 父親と別居してのキャンプ、アウトドアの師との日常。子どもにとっては楽しい思い出です。それが当たり前のようになったとき、子どもにとっては素直なひとことだったのでしょうが、一線を越えさせないティトの発言は責任感のある大人のものでした。父と母の関係も、母とティトの関係も、家族三人の関係も、何かが変わりかけて変わらないまま先送りになる瞬間というのは実際ままあるのでしょう。
 

「働く男」ジョルジョ・フォンターナ/飯田亮介訳(L'uomo che lavora,Giorgio Fontana,2011)★★☆☆☆
 ――工場の前に座り、膝を抱えた男は、働いていた。鎖やロープで体を縛りもせず、プラカードも持たず、帽子を片膝にのせて働いていた。十日前のことだった。ロヴェーダが長い演説をぶったあとで、ディエゴは手を挙げた。本当は誰も手を挙げてはならぬことになっていた。「どうして残業手当は裏で支払われるんですか」沈黙が降りた。ロヴェーダへの口答えは許されていなかった。

 一見するとシュールな不条理小説のようでもありますが、ストライキを「働く」と称する社会性の強い作品で、露骨すぎて好きではありません。
 

「エリザベス」ダリオ・ヴォルトリーニ/越前貴美子訳(Elizabeth,Dario Voltolini,2010)★★★☆☆
 ――僕は門の鍵を開け、中に入ろうとしていた。門を閉めようとしたとき、若い女性が近くまで来ていて、ナイフで刺されて腸が飛び出すのを防ぐかのように、腹を押さえ右足を引きずっていた。知ったことじゃない。僕は歩き出したが、そのあと知ったことじゃないとは思えなくなり、引き返した。何でもありませんと彼女は言った。何でもないとは言いながら動けなくなっていたから、病院に連れて行くと僕は言った。彼女は行かないと言い続けた。

 最後のシーンをロマンスの始まりではなく、利用できる優しい男を捕まえたと捉えるわたしは、移民に対して偏見があるのでしょう。
 

「ママの親戚/虹彩と真珠母」ミケーレ・マーリ/橋本勝雄(La famiglia della manma/Iride e madreperla,Michele Mari,2012)★★★☆☆
 ――「ママ、お話をしてくれない?」「いいわ。アルフレッドおじさんのお話をしてあげる。もう死んじゃったの。奥さんを亡くして財産を娘二人に分けることになってね……」/独りぼっちでため息をついてばかりいる青年トリスターノが、同級生のルイーザに恋をした。高校を卒業すると思い切って手紙を認めた。美人のルイーザははすっぱで間抜けな娘だったが、アレッサンドロなる人物に惹かれていた。そこで手紙を利用して気を引こうと思いついた。……

 シェイクスピアを下敷きにしてお伽噺に語り直す――という話かと思いきや、シェイクスピア戯曲の元ネタは母親の親戚の話だというオチが待っていました。悲劇を下敷きにしているから死んでばかりなのではなく、実際に死んだ人ばっかりなんですね。「虹彩と真珠母」はトリスターノの手紙を始まりにしてリレー式に話が転がってゆきます。登場人物を紹介するときにいちいち否定的な形容詞をつけて紹介するのが無性に可笑しかったです。
 

「わたしは誰?」イジャーバ・シェーゴ/飯田亮介訳(Identità,Igiaba Scego,2007)★★☆☆☆
 ――パオロは「友人の記者のインタビューに協力してやろうよ」と呼びかけ、ファトゥとヴァレリオを罠にはめたのだった。「あの子、異人種間カップルを探してるんだ。君たち以上にミックスなカップルなんていないもんな」。記事が気に入るはずのないのは読む前からわかっていた。『蛮族の襲来……結婚生活が外国式になる時』……。

 こういう政治的正しさを題材にした作品というのは、現代の問題を切り取っているようでいて、実はもはや使い古されて古びているのではないでしょうか。またか、という感想しかないです。
 

「恋するトリエステ」ヘレナ・ヤネチェク/橋本勝雄(Trieste in love,Helena Janeczek,2018)★★★☆☆
 ――一九三七年、トリエステに一人の青年がやってきた。その二年前、師範学校の教授が婚約を解消してドイツから亡命してきた女性と暮らし始めた。青年アルベルトはその女性の弟だった。アルベルトに恋い焦がれる娘たちはどんどん増えた。

 欧文特有の、同じ人物を違う表現で言い換える場面があまりに多いので、たいして登場人物もいないのにまず人間関係の把握に苦労しました。そういった19世紀辺りの古典文学作品でも始まりそうな雰囲気が、ナチスによってばっさり断ち切られる理不尽さが鮮烈です。
 

「捨て子」ヴァレリア・パッレッラ/中嶋浩郎訳(Gli esposti,Valeria Parrella,2015)★★★★☆
 ――二十歳で修道院に入り、今は四十歳になっていた。人生の半分がシルヴィアで、あとの半分はマザー・ピアだった。夜中の三時にインターフォンが鳴り、妊娠している不法移民の娘が預けられた。娘がいなくなり、残された赤ん坊はマザー・ピアが自分の子供として育てることに決めた。

 修道院生活をイエスとの結婚生活になぞらえ、またシルヴィアとしての生活に戻ってゆく姿は、本当の意味で自立しているようで格好いい。修道生活を結婚にたとえるのも人生を本にたとえるのもありきたりかもしれませんが、ふってわいた子ども(処女懐胎?)だったりちょうど半分の文字通りの半生だったりと、按配のバランスがよいです。
 

「違いの行列/王は死んだ」アスカニオ・チェレスティーニ/中嶋浩郎訳(La fila della diversità / Il re è morto,Ascanio Celestini,2011)☆☆☆☆☆
 ――むかしむかし、あるところに小さい国があって、小さい学校がありました。たくさんの先生がいましたが、小さい政府はこんなに教えることが多いと混乱を招くと考えました。そして「一列縦隊」を教える学科だけが残されました。

 もしかしたら著者は子どもで、その子の書いた詩なのかも、と思おうとしました。ところが解説を見ると著者は大人の俳優/監督でした。こんなに幼稚でストレートな表現では諷刺にすらなっていません。
 

「隠された光」リザ・ギンズブルグ/橋本勝雄(Hidden Light,Lisa Ginzburg,2016)★★☆☆☆
 ――不動産業者のジャック・トゥルニエがミリアムとその夫セルジュ・ミレと知り合ったのは、夫婦がアパルトマンを購入したときだ。人生を外見で判断するならミリアムは完璧だった。ところがプライベートではもろく不安定で両親の意見に左右される女性だった。そうしたことの結果が離婚だった。

 意味がわかりません。夫婦のすれ違いの結果がどうして同性愛になるのか。
 

「あなたとわたし、一緒の三時間」キアラ・ヴァレリオ/粒良麻央訳(Tu e io, queste tre ore,Chiara Valerio,2011)★★★☆☆
 ――あなたの手を、脚を、顔を、この指で包む。あなたの腕の反応を待つ。わたしの腰に手がきて、吐息が響く、〈やめて、首は噛まないで!〉。ひとかけらのパン屑が、バランスを崩しかけて、いまにもあなたの口に入りたそう、ピンク色した唇の左側。パン屑のほうがわたしより可能性がある。あなたの口を独占し、舌の先に身を横たえ、歯茎じゅうをゆったりと巡るのだろう。

 本書のなかでは異色のゴス小説ですが、恐らく作者にはそうした意識はないのでしょう。
 

「愛と鏡の物語」アントニオ・モレスコ/関口英子訳(Storia d'amore e di specchi,Antonio Moresco,2002)★★★☆☆
 ――大きな団地の中庭に面した小さな一室に、誰にも知られていない作家が暮らしていた。いつものとおり自分の部屋の窓を開けた彼は、息を呑んだ。向かいの家の鏡のなかに自分の姿を見出したのである。ある日、窓とは反対側の壁に据えつけられた鏡に何気なく目をやったところ、赤地に水玉模様の服を着て微笑んでいる女性が出現した。「向かいの窓の女性だ!」。向かいの部屋の鏡に自分が映っているように、この部屋の鏡に向かいの女性が映っているのだ。

 人に知られていない作家が突如として称讃される不条理ギャグのような流れと、鏡に映ったご近所さん同士の(非)交流。ありもしないことを作りあげるのがまさしく作家なのだとしたら痛烈な皮肉です。
 

「回復」ヴィオラ・ディ・グラード/越前貴美子訳(Guarigione,Viola Di Grado,2018)★★★☆☆
 ――その家は値段も破格だった。解毒の治療を終えた私には、思い出の浸みこんでいない、クリニックみたいな新たな空間が必要だった。頭ではまだヘロインを欲していたが、体は忘れていた。実のところ、問題は麻薬じゃなかった。本当の問題は情けだった。家族の、同僚の、友達の情けに、私はプライドを傷つけられた。

 麻薬中毒からの復帰と、家族からの絶縁といった現実的な内容から一転、唐突に実体を持った天使が現れます。醒めた見方をすれば、ただの後遺症による幻覚なのだと思うのですが、それを現実のように描かれると変な感じがします。
 

「どこか、安心できる場所で」フランチェスカ・マンフレーディ/粒良麻央訳(Da qualche parte, al sicuro,Francesca Manfredi,2017)★★★★☆
 ――マルタにとってママのお腹は不思議だった。「この子、動く気配がないの。あなたはお腹にいるときからやんちゃだったのに」。ママが眠っているのを確かめて、マルタは抜き足差し足、部屋を出る。屋根裏部屋にいるとチャイムが鳴った。隣人だった。「この子は娘のヴェロニカ」。ヴェロニカとマルタは芝生に座った。「あなたのママ、妊娠してるのね。きょうだいができたらどうなるか、あなた知らないんだ。ひとりっ子っていい気分でしょ」「そう思う」「前に住んでた男の子、物置小屋に閉じ込められて、死んじゃったんだって。このうちにもあるんでしょ、物置小屋」。物置小屋に入ると、ヴェロニカが言った。「恋人ごっこしようよ」

 実験的だったり現代的だったりする作品もあるなかで、わりとオーソドックスな小説のスタイルに則った作品でした。はじめての弟/妹ができる不安や、ちょっとませた新たな友人との冒険など、子ども時代の空気が濃密に表現されています。

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