『島田荘司選 日華ミステリーアンソロジー』陳浩基・知念実希人・他(講談社)
2021年刊。
まるで経済成長に合わせるかのように、乗りに乗っていた中国ミステリ&SF。アジア圏ミステリの紹介では先鞭をつけていた島田荘司氏による日華競演アンソロジーが満を持しての登場です。書き下ろし・新作・未発表作・習作が収録されています。翻訳作品の原題が記載されていないのがもやっとします。
これまでは奇想にこだわってきた著者でしたが、昨今では「新本格を縛し続けたヴァン・ダイン呪縛も、いささかやんだように見える」ことから、「最近は、ミステリーの文学性についても思うようになった」そうです。実作者からしてみれば毎度毎度よけいなお世話なのでしょうが、恐らく著者は現状に甘んじることをよしとせず常に進化し続けようとしているのでしょう。そしてそれは、確かに大事な姿勢だと思います。
「ヨルムンガンド Jörmungandr」陳浩基/稲村文吾訳(陳浩基,2021)★★★★☆
――World616:大学の食堂でカルヴィンと物理学の問題を議論するのはお決まりになっていた。バン! 大音響が鳴り、拳銃を持った男が食堂に飛び込んできた。銃声が響くと同時に胸元を激痛が襲う。「オズ! オズ!」カルヴィンの声がする。あれ? 死んでない? 懐にあった父の形見のライターが弾頭を食い止めていた。Wordl617:「オズ!」咄嗟にオズの前に身を投げ出した。男は撃ってこなかった。警備員が男を押さえつけた。「オズ!」振り向くとオズの胸元は緋色に染まっていた。もし本当に並行世界が存在するのなら、どこかの世界でオズは難を逃れられるのに……。
コメントしづらい作品です。というのも、世界が分岐する多世界解釈の話だというのは初めから明らかにされているのですが、【時間SF】だということは当初は匂わせ程度に留まっているからです。しかも【終末や悲劇を回避するために過去に干渉したところ、当時の○○は実は未来から来た自分だった】という【時間SF】としてもかなり陳腐な内容なのです。そんな陳腐な内容ですが、多世界解釈ものとしてスタートし、また悲劇の起こるタイミングをずらし、二つの世界の出来事を組み合わせるといった工夫により、普通に書けば陳腐にしかならないような話が先の読めない話に生まれ変わっていました。
「七色のネコ」知念実希人(2021)☆☆☆☆☆
――天久鷹央が拾ってきた野良猫は、全身を青く塗られていた。念のため動物病院で体調確認をしてもらったところ、その病院だけで似たような猫が九匹保護されていることを知る。獣医師に教わったNPOの動物愛護団体に向かうと、そこで保護された猫は六十匹を超えていた。帰り際、鷹央は獣医師の腕の傷を見て、日本では罹ることのない致死率百パーセントの奇病に症状が似ていると告げる。
天久鷹央シリーズ。ライトノベルなのでキャラクターの個性が濃いのは仕方がないにしても、見え見えのはったりに犯人が都合よく乗っかってくれるのではさすがに興醒めです。犯人が猫に色を塗った理由【※色を塗って普通の猫に見せかけて密輸していた禁輸猫が逃げ出してしまったため、色を付けた普通猫を現場近辺に放てば、虐待を疑われて愛護団体である犯人のもとに続々と保護されると考えた】も、奇想というには及ばず、無理にこじつけた屁理屈でしかありません。島田荘司氏が前書きで言及していた文学性は……この作品には皆無ですが、それは日本の小説家の問題ではなくライトノベルというジャンルの性質によるものでしょう。それはともかく、文学性以前にミステリとして中国に完敗していました。
「杣径」林千早/稲村文吾訳(林中路,林千早,?)★★★★☆
――オットー先生、私は今回またあの森へ足を運びました。幼いころ住んでいた小屋はすぐに見つかりました。記憶の始まりは一頭の熊を殺したことです。その熊が母を殺すところを見たばかりで、驚きのためにそれまでの記憶を失ったのは慚愧に堪えません。意識がはっきりすると、「アーシャ」と呼ぶ声が聞こえました。「姉さん……」。姉さんの足は血まみれで、あいつに骨を折られたようです。以降姉さんはうまく歩けなくなり、ほとんど室内で過ごすことになりました。ハンカチで死顔を覆われた母の遺体と、一丁の猟銃、鉈、そして床に倒れているのはあの獣でした。運良く猟銃を使った経験がなかったなら、十年ほど後、あなたが小屋を訪れて目にしたのは三つの白骨だったことでしょう。姉さんはそれからよく聖書の話をしてくれました。あの年の夏、山の下の廃村で、私は天使様に出会ったのでした。
書き下ろしではなく電子書籍として出版されているそうです。解題によれば、賞への応募のため「深緑野分、梓崎優などを意識」したとありますが、この奇想はむしろ選者である島田荘司の直系であると感じました。とりわけ『ネジ式ザゼツキー』あたりの。何なら政治的なところも島田荘司を彷彿とさせます。奇想というより奇想天外で、リアリティや細かいことなど無視した豪快さは島田荘司以上です。個人的にはさすがに度が過ぎていると感じてしまいましたが。認識を扱ったミステリとしては極北で、これを異世界ミステリではなく現実でやろうと思うところに非凡さを感じます(という書き方自体がネタバレですね)【※山小屋で双子の姉と二人きり暮らす妹が、人間とはみんな同じ顔をしているものだと思い込み、違う顔の人間を獣だと錯誤する】。タイトルもエピグラフもハイデガーで、舞台もドイツという、ドイツづくしの設定が、リアルとファンタジーいずれの効果も上げていました。
「森とユートピア」陸秋槎/稲村文吾訳(?,陆秋槎,2021)★★★★☆
――クラリッサは骨董店のミス・コリンズに手紙を書いた。「昨夜、星を見ようと窓を開けたところ、パメラがナイフを持って林に入っていったのです」/「親愛なるクラリッサ、あなたのお話には引きつけられました。お返しに船乗りから買った手記を送ります」/クラリッサとパメラは並んで手記を読んだ。これでピアノの授業に遅刻するのは確実だった。/仕事を失ったわたしはオーストラリアで家庭教師の口を見つけた。その家でジョーンズさんと出会い、愛するようになった。やがてジョーンズさんと友人のウィリアムやアイザックが南太平洋に小島を買い、私欲と搾取のない理想社会を築くことになると、わたしもそこで暮らすことにした。ところが矯正のためという言い分で監視塔が建てられ、第一陣の住民たちが楽な仕事ばかりしているにつけ、恨み言が増えていった。そこで仕事の割り当てを変えた三日後、ウィリアムが死んだ。猿の仕業だとアイザックは言った。
相変わらず著者のノンシリーズ短篇は読みやすくて面白い。被害者が出て初めて、そういえばこれはミステリ・アンソロジー収録作だったと思い出すほどでした。謎としては作中作のなかで起きた猿による殺人事件と以後の顛末があります。真相は「どんどん橋、落ちた」系の無理筋だとは思いますが、理想郷を夢見ておかしな方向に行き出す人々がという点では筋が通ってもいました。枠物語の外では、お嬢様を取り巻く家庭教師という特殊な立場の者と養女という特殊な立場の二人――主人公にはなれない二人が主人公になり、見えない人【※原住民】という真相を解くのも理に適っていました。選者によるこの作品の扉コメントを読むかぎりでは、前書きにあった文学性云々の話は、そういう方向性もあるということではなくそうすべきという強い宣言のようです。
「人魚」石黒順子(2021)★☆☆☆☆
――仕事も終り、魚屋の前を通りかかると、横に人の気配を感じた。「お魚がお好き? 魚って、官能的ね……」そこには二十代と思われる女性の姿があった。夕日に輝くその姿は人魚のようだった。……ここはどこだろう。目の前の大きな湖に月光が反射している。湖の中に女の頭が見えた。満月が爆発してぼくの身を包むと、ぼくは透明になっていた。だから彼女のそばまで来ることができた。魚の一匹が大きくなり喋った。「むかし地球という星にいたことがある。そこには君みたいな生き物がいて人間と呼ばれていた……」
選者自作の扉コメントに「ジャンルの明日を考え、あえて本格を前提としないと公言して良作を求めた」と書かれているので、本格どころかミステリですらないのはわかるのですが、いかんせんこの作品の著者は幻想小説を書くには筆力も文体も無さ過ぎます。一人称なのに他人の感情も描かれているのは、他人の意識と融合しているという表現なのかもしれませんが、著者が下手くそなだけという線も捨てきれません。選者が前書きで憂えているのも納得してしまうほど、日本人作家の出来は総じて壊滅的でした。日本の作家に発破を掛けるために、わざと選んでいるのでは?と思ってしまうほどです。
「聞こえなかった銃声」小野家由佳(2021)★☆☆☆☆
――成城の先生の家からアパートに帰る途中、銃声が聞こえた。実家は狩猟シーズンになると猟銃の音が絶えない土地柄だから、聞き間違いとは思えない。音のした方へ自転車を漕ぐと、公園の砂場の中、街灯に照らされるようにして男が倒れていた。「一回しか聞こえなかったよな?」胸の弾痕、二つないか?
選者のリクエストなど何処吹く風の犯人当て作品。成城の先生と語り手と警部の三人に個性がないうえに、語り手の捨て推理もぐだぐだなので、真相が明かされたところで何の驚きもありません。
「相馬樓、雪の幻」島田荘司(2021)★★★☆☆
――山形県酒田市の秋。駒子は船箪笥職人の石井卓三と二人で庭園を歩いていた。「駒子、和服よく似合うの。まるきり日本人のようだの」。駒子は台湾で生まれ育った生粋の台湾人で、名前はミンミンといった。門を出ると珈琲屋でひと休みした。「あ、竹久夢二。おとうさん、うちがどうしてこの街に来たか、この前訊いてはったやろ? うちの店に夢二の絵があったんです。それで日本舞踊の教室とか通って、いつか日本に来ようって決めてた」「いつか相馬樓に入ろう思って?」「まさか入れるとは思っていなかったけど」「一人で踊れるようになった時は、力作の箪笥でもプレゼントすっがの」
血にまみれてもいた台湾の近代史を伝えたいという思いから、台湾の暗部が描かれていました。現代の日本の方では人間ドラマが描かれますが、さすがにベタでクサすぎました。とはいえ日本勢のなかで曲がりなりにも文学性のあるのは本作品だけです。単に実力不足の石黒氏はともかくとして、「本格ミステリー宣言」のころと同様、実作者には島田氏の想いは届いてないなあと感じてしまいました。
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