『掌の中の小鳥』加納朋子(創元推理文庫)★★★★☆

『掌の中の小鳥』加納朋子創元推理文庫

 『Egg Stand』加納朋子,1995年。

 二十代のクールで利発的な男と勝気でエキセントリックな女が、バー「EGG STAND」を舞台に、謎解きを通して絆を深めてゆく連作短篇集。えぐるところとハートウォーミングなところ、ミステリと心理の機微、そのバランス感覚は加納朋子ならではです。ところどころ表現が痛々しいのはクールぶった二十代の男の語りだと思えばこれも必然なのでしょう。
 

「掌の中の小鳥」(1993)★★★★★
 ――「容子さんは……奥さんはお元気ですか?」久しぶりに会った佐々木先輩にたずねる。「まあね」。沈黙が流れ、僕は容子から吹き込まれた留守電の言葉を胸中で反芻していた。『……私、殺されたの。私、雲雀になれなかったの』。まだ学生だったころ、絵について語る容子はきらきらと輝いていた。彼女の才能は本物だった。容子に一目惚れした佐々木先輩になど頓着しないように、彼女は絵を描き続けた。「タイトルは『雲雀』にしたわ」間違いなく傑作だった。そして、事件は起こった。僕は佐々木先輩を疑った。

 これも青春、若気の至り、と言えばそうなのでしょうか。どんな思いであれ一方的な思いは、たとえ悪意でなくとも人を傷つけうるというのは、崇拝者にとっては残酷な事実に違いありません。また、その相手にしたところで悪意ではないがゆえに何も言えないのでしょう。二人のあいだは止まったままでしたが、四年という月日は自然と人を成長させ、一歩を踏み出せたことに救いがありました。これらが謎解きと不可分になっていて、絵の具についての会話からは絵が本当に好きなんだと伝わって来て、伏線としてまったく不自然さがなく、日常の謎ものとして完璧といっていいほどです。
 

「桜月夜」(1993)★★★★★
 ――彼女に連れられて店に入る。「わあ、すごい」。女バーテンダーのいる店内は桜で覆いつくされていた。「それで、さっきの続きなんだけど。フルネームを当てられたら、ご褒美があるかもしれないわよ」「ずるいよなあ。僕はちゃんと自己紹介したってのにさ」「桜の花、か……」名前の話は打ち切りということらしい。「それじゃあ、桜に捧げる物語をひとつ……」その年の春、私は妻子ある男性と恋愛関係に陥り、そして十九から二十になった。彼の一人息子の武史に会ったのは偶然だった。一か月後、アパートに武史がやって来た。「ねえ、ボクを誘拐してくれない?」「馬鹿なこと言ってないの」「泉さんもお父さんを知ってるんなら、ひどい奴だって知ってるでしょ?」

 前話でカフェバーから抜け出した二人が別の店に移ってからの話です。こういった何が謎なのかすらわからない話は大好きです。いくつかある伏線が武史の企みと語り手の思惑【※人物入れ替わりと語り手の名前】の両方の伏線として機能しているのも鮮やかです。武史が「そこまで考え、行動した」のはそうした才能があったからではあるのでしょうが、父親との関係がやはりそこまでするしかないようなものでもあったのでしょう。救われた人物のその後は出来すぎではありますが、そのおかげで一つの物語としての完成度は格段に上がっていました。
 

自転車泥棒(1994)★★★★☆
 ――紗英は遅刻魔だった。先日も歩道橋から落ちたお年寄りを助けていたという。かくしてその日も喫茶店で待っていると、制服姿の女の子が自分の真っ赤な傘を傘立てに差し、ダークグリーンの僕の傘をつかんで歩き去ってしまった。遅れて来た紗英にその話をすると、「私もこないだ盗まれちゃったのよ、自転車を」「そりゃお気の毒さま。運が良けりゃ見つかるよ」「見つかったわ、運悪く。自転車と……犯人もね」。駅までガールフレンドを送ってきた男の子が『これで全部、うまくいくよ』と言って手を振った。『人の物を盗んどいて、うまくいくもないじゃない?』

 遅刻魔という漫画みたいなエピソードで紗英という人物のギャップを描き出してあると同時に、二重三重の伏線を仕込んでありました。この作品の傘泥棒と自転車泥棒はどちらも泥棒は泥棒ですが、ともに盗むべき事情があるにはあり、しっかり腑に落ちるようになっていました。祖父のワンマンに対して、自転車泥棒による恋人への思いが引き起こした事件でしたが、それをわかっていながらも見ず知らずの自転車泥棒に嫉妬してしまう語り手の若さが微笑ましかったです。そしてそれを諭すのはやはり若い人間よりも年経た人間の方が相応しいのでしょう。常連の老紳士は「桜月夜」に続いてやはり何もかもお見通しのようです。解説に書かれた佳多山大地による【老人は偽物だと気づいていたのだが、弱気な孫がいざとなれば奮闘できることがわかって騙されてやることに決めた】という解釈も、本書には似つかわしい心意気のある解釈でした。
 

「できない相談」(1995)★★★☆☆
 ――できっこないことをやり遂げる。子供のころ、〈できないゲーム〉が流行った。武史はすごかった。電話線には幽霊が巣食っている――。そして同じ時刻に同じ番号にかけた子供たちがいっせいに悲鳴と呪詛の声を聞いたのだ。「武史に確かめたかったの。友達と飲んでいて二年前の話をしたら、意外な答が返ってきたわ」。二年前、久しぶりに会った武史に、知り合いの部屋に連れて行かれた。不倫相手の子を宿していた亜希子さんは、そのときピアノを弾いていた。部屋を出たとき武史が言った。『ゲームをやらないか』。愛人の証拠写真があれば高く売れる。武史が亜希子と出会ったのはそれがきっかけだった。『紗英が賭けに勝ったら写真は処分したっていいぜ。俺はあの部屋ごと亜希子さんを消してしまうことができる』

 トリックという点でなら本書随一です。家屋消失というと「神の灯」のバリエーション以外あり得ないと思いますし、実際【観葉植物の移動】によって方向を誤認させるやり方は従来のトリックの範囲を出ません。この作品がすごいのは、自然現象である【夕陽】すら逆にしてしまうところです。本家「神の灯」でエラリイが真相に気づくきっかけに挑戦して見事に勝利を収めていました。一方で、亜希子や武史の心情はいささか言葉足らずだと思いますし、「希望に次ぐ」という亜希子の子どもの名前もすっきりせず、ややトリックに比重が傾いていました。
 

「エッグ・スタンド」(1995)★★★★☆
 ――きっかけは従兄である冬城晃一の婚約宣言だった。本家筋の長男の相手がエアロビのインストラクターとあって、厳格な親戚は顔をしかめた。その数日後、晃一の妹の礼子から電話がかかってきた。晃一の婚約相手が参加する茶会に付き合ってほしいという。「あの人……さっきから圭ちゃんのこと見てる」ふいに礼子が言った。ちらりと見たがその和服姿の女性に見覚えはない。茶会が終わり、婚約者が茶会のあいだ外していた婚約指輪がなくなっていた。奇妙な考えが浮かび、僕は先ほどの和服姿の女性を探した。

 頭の回転の速い語り手ゆえ「見えない人」というよりは「奇妙な足音」だった謎を解くことは容易かったようですが、女心には絶望的に理解が及ばないようです。紗英が怒った理由も、礼子の態度に込められた意味も、みちるが指輪を盗んだ理由も、解き明かすことはできないどころかまったく見当を付けられませんでした。結果オーライと言えばいいのか、語り手がそんなだからこそ、紗英の方もストレートにぶつけられたのでしょう。

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