少女小説9篇について、大人の目で、そして現代の目で読み直したものです。わたしが少女小説を好きなのは、思春期特有の繊細な心理描写であったり、健気で凜とした芯の通った主人公が格好いいからであったりします。そしてそういった文脈は現代日本では桜庭一樹や柚木麻子に受け継がれているのだと思います。
取り上げられている作品のうち、読んだことのあるのは『若草物語』『赤毛のアン』『あしながおじさん』『秘密の花園』『大草原の小さな家』『長くつ下のピッピ』の7篇。ただし『あしながおじさん』と『ピッピ』を読んだのは子どものころなので内容はほぼ完全に忘れていたし、『若草』『秘密の花園』『小さな家』もよく覚えていないので、はっきりと覚えていて好きだと言えるのは『赤毛のアン』だけでした。
第一章で取り上げられた『小公女』はわかりやすい挫折と再浮上の物語でしたが、第二章の『若草物語』ですでに古くさい安全な少女像から逸脱していました。ジョーの生き方はそのまま現代女性の生き方と言ってもいいくらいです。
第三章の『ハイジ』は原作を読んだことのある人がほとんどいないであろうことを考えると、少女“小説”に入れていいものやら。
第四章は『赤毛のアン』。男の子になりたかったジョーに対し、アンが女の子らしさに憧れているという指摘は、『アン』を単独で読んでも気づきにくく、こうしておのおの比較できる論評だからこその指摘でしょう。
第五章の『あしながおじさん』も、原作を離れて「あしながおじさん」という言葉だけが一人歩きしてしまった感があります。援助してくれるおじさん。主人公の結婚を保守的なハッピーエンドではなく「社会主義者」「改革をプロデュース」したと捉えられていました。
第六章は再びバーネットで、『秘密の花園』です。少女小説としてどうこう以前に小説として破綻しているみたいです。
第七章『大草原の小さな家』シリーズは、少女小説の転換点のようです。これまで排除されてきた“大人の男”であるところの父親が登場し、母親も娘たちに干渉する家庭が舞台です。ローラはそんな家を出るための手段としての「寿退社」を勝ち取ります。そもそもこれまで主人公たちの目標だった教師(そもそもそれしか選択肢がなかった)も本人ではなく母親の希望だったというのも従来とは異なります。
第八章『ふたりのロッテ』になると、従来の少女小説の枠からは完全に逸脱していました。それもそのはず著者はケストナー。主人公が少年か少女かなんて関係なく、ただ真剣に生きる子どもたちを描いてきただけなのでしょう。
最終章はリンドグレーン『長くつ下のピッピ』。「少女小説のパロディ」と著者は書きますが、それにしても自由奔放で、少女どころかあらゆる固定観念から飛び出そうとするような勢いです。
『小公女』『若草物語』『ハイジ』『赤毛のアン』『あしながおじさん』『大草原の小さな家』――
子どもの頃には気づかなかった。
大人になって読む少女小説は、新たな発見に満ちている。懐かしいあの名作には、いったい何が書かれていたのか? かつて夢中で読んだ人も、まったく読んだことがない人も、いまあらためて知る、戦う少女たちの物語。(カバー袖あらすじ)
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