『短編ミステリの二百年3』マクロイ、エリン他/小森収編(創元推理文庫)★★★★☆

『短編ミステリの二百年3』マクロイ、エリン他/小森収編(創元推理文庫

 第3巻はEQMMコンテスト受賞作&受賞作家が収録されています。さすがに力作・傑作揃いでした。
 

「ナボテの葡萄園」メルヴィル・デイヴィスン・ポースト/門野集訳(Naboth's Vineyard,Melville Davisson Post,1912)★★★★☆
 ――エリヒュー・マーシュは自宅で銃で撃たれているのが見つかった。怒りっぽい老人で、家族はすでになく、近くの農家の娘がパンを焼いて通っていたほか、農作業のために男を一人雇っていた。事件に謎めいたところはなかった。雇われていた男が姿を消していたのだ。捕えられた男は猟銃を肩にかけていた。弾がなくなっている理由と土地を離れようとした理由を聞かれると黙り込んでしまった。裁判には伯父のアブナーと老医師ストームも来ていた。審理が進み、被告人テイラーの絞首刑は確実だった。そのとき証人席で農家の娘が涙ながらに立ち上がった。

 再読。理想が理想として信じられていた世界で、揺るぎない正義が描かれています。何より冒頭で語り手により「主権は人民にある」ことが直截に行使される場面を目の当たりにした事件であると、高らかに宣言されています。法廷で選挙人が立ち上がり権利を訴えるシーンは、ミステリ史に残る屈指の名場面です。さすがに毒や時計のことが現代の目で見てフェアに書かれているとは思えませんが、語り手から見て謎めいていたアブナーの行動が法廷で明らかになる場面には、解決編の魅力が詰まっていました。「ナボテの葡萄園」とは隣人の土地を欲しがった謂。
 

「良心の問題」トマス・フラナガン/藤村裕美訳(The Point of Honor,Thomas Flanagan,1952)★★★☆☆
 ――アメリカ人医師コートンに、テナント少佐がたずねた。「ブレマンが殺されて、あなたが呼ばれたのですね?」「主治医でした。重度の糖尿病でした」「入れ墨に気づかれましたか?」「ナチスはあんなふうに囚人の腕に入れ墨したんです」「彼の過去をよくご存じでしたか?」「それほど厚かましい人間ではない。この国では違うようだが」「わが国は治安が悪いのです。革命以来。この犯人は普通ではないのですよ」「お尋ね者だったのですか?」「フォン・ヘルツィヒ大佐はSSの指揮官でした」「その男はアメリカでも指名手配されています」「しかし自分は別人だと言っている。ああ、わたしがそれを黙認しようとしていると考えているのでしょう? あなた同様、わたしも本人だと思っていますよ。しかし判断するのは将軍閣下なのです」

 テナント少佐もの第二作。テナント少佐ものを読むのは初めてですが、編者の評論を読むかぎりでは、シリーズで読むよりもこうして単発で読んだ方が楽しめるのではないでしょうか。まあそれは名探偵シリーズ全般に言えることではありますが、少佐が悪人なのか探偵なのかわからずに読んでいたので、びっくりしました。アブナーと立場や方法論は違えど、揺るぎない信念の人でした。糖尿病や殺人の動機など、指摘されてしまえば当然のことだけに、大胆な書き方です。巻末評論にある、「共和国政府軍に『希望を失った』から『全体主義よりいくらかまし』な将軍を、自分で選んだ」という編者の指摘を読んでこのシリーズの凄みを改めて感じました。
 

「ふたつの影」ヘレン・マクロイ/直良和美訳(The Waiting Shadow,Helen McCloy,1952)★★★☆☆
 ――ミセス・モバリーが近づいてくる。「ミス・エマ・クレアね? 甥の娘ルーシーのことをお願いするわ。シャーリーという地元の娘になついていたのですが、わけあって解雇したんです。そもそもルーシーがショトンとグリダーを……」「それは?」エマが口を挟んだ。「想像上の友だちですよ。ドクター・コリアーも心配いらないという意見ですが」。部屋に入ると、男が荷物を運んできた。「ルーシーの父親、テッド・ジャーミンです」。ずいぶん若い父親ね、とエマは思った。夜になり、突然目が覚めると、ルーシーが窓から誰かに話しかけていた。「誰と話しているの?」「ショトン」確かに男女の人影が見えた。あれは別れた母親なのではないだろうか? だが翌日、母親は家の階段から落ちて亡くなっていたことを知る。

 編者が巻末評論でマクロイ作品の魅力を、「状況の作り方と、それが提示されていくにつれ、謎が深まっていく面白さ」と書いていますが、この作品もまさにその通りで、イマジナリー・フレンドが実在するかもしれないという『暗い鏡の中に』『ひとりで歩く女』同様の怪奇幻想風味の謎は非常に魅力的です。本当に実在するのか、実在するとすれば何者なのか、目的は? 誰が敵で誰が味方なのかもわからず、知らぬ土地のなかで頼れるものがないという不穏な空気の作り方が抜群に上手でした。犯人の罠のかけ方が下手くそなので、「ああ、この人が犯人なのか」とわかってしまい、そこがもったいない。
 

「姿を消した少年」Q・パトリック/白須清美(Little Boy Lost,Q. Patrick,1947)★★★★☆
 ――父が死んだ日はブランソン・フォスターにとって記念すべき日だった。自分を甘やかしてくれる母親と離れ離れにさせる大人はいなくなった。だが妻を共同校長にしていた夫は、妻が会計と規律にずさんなことはわかっていたので、妹二人を共同経営者に指定しておいた。そうしておばたちが侵入してきた。おばたちは母親が息子に甘いのを見て、ブラニーを寄宿学校に入れようとした。「太った豚どもめ」。だがネリーおばさんから解決策がもたらされた。女学校に男子を入れれば問題なかろうということになり、まもなく先発隊となる男子がやってきた。悪童マーマレードはすぐにヒルダおばさんを憎み始めた。

 一応はアンファン・テリブルもの、と言っていいでしょうか。主人公は9歳の子どもなのでそれをマザコンというのは酷かもしれませんが、著者は明らかに異常性を以て描いているのが意地が悪い。結局はタイトルの通り「少年」が消えて「大人の男」として母親を支えてゆくことになるのですが、成長物語でもハッピーエンドでもなく、その顛末があまりに皮肉でブラックなのがいやらしい。
 

「女たらし」ウィルバー・ダニエル・スティール/門野集訳(The Lady-Killer,Wilbur Daniel Steeyle,1950)★★★☆☆
 ――B・J・キャントラは道に迷い、死ぬほどおびえていた。エレノアやソーニャやあの若いブルネットは――今ここにいる四十七歳の男を見たらどう思うだろう。不意に妻のことを思い出した。「ハリエット、ぼくは最低の男だ! 迷っちまった! 誰か!」。つまずきながらがむしゃらに走った。木立がいきなり途切れ、家と納屋が見えた。女が乳搾りしていた。「腹がへって疲れてるんだ」。反応はない。この女は怖がっている。こいつは愉快だ。怖がる演技ばかりの女たちには飽きていた。こいつは本物だ。この素朴さに噓はない。

 純粋な相手ほど本気になってしまうから怖いというパターンです。死にかけて悔いたのも束の間、悪い癖が出てしまい文字通り墓穴を掘る姿は、愚かというほかありません。
 

「敵」シャーロット・アームストロング/藤村裕美訳(The Enemy,Charlotte Armstrong,1951)★★★★☆
 ――「くそじじい!」フレディ少年が警官の腕のなかで暴言をくり返していた。マトリン氏は泣き言を並べていた。「玄関を開けたら跳びかかってきたんです」。離れた芝生の上に、犬の死骸が横たわっていた。「わたしは何もしておらん。平和に暮らそうとしているのに、この子らときたら! 家内は体が弱い……継娘には障害が……」。キッティンガー判事の家で食事をしていたラッセルはたずねた。「子供たちはどうしてあなたの仕業だと思ってるんですか?」。子供たちがいっせいに声をあげた。この人は意地悪じいさんで、ぼくらの敵だ、と。フレディは誰の話も聞こうとしないし、大人たちは子供たちの目を現実から逸らそうとしていた。「あの子たちのことが心配だ」と嘆くラッセルに判事が言った。「どうして犬に何が起こったか調べてみないんだね?」。ラッセルは担任教師デーナに協力を仰ぎ、犯人だと思うのならそれを証明しなければならないと少年たちに伝えた。

 再読。思い込みでなく事実をもとに判断すべしというラッセル弁護士の主張は、マッカーシズムに対する著者の回答であるとともに、そのまま現代のデマやフェイクニュースにも繫がります。そしてこの作品がすごいのは、編者も指摘している通り、その構図がミステリ小説であることと不可分である点です。証言を突き合わせることで明らかになる噓と真実には伏線もしっかり描かれており、犯人の計画が狂うことで表向きの謎が生まれるなど、さすが第一席になっただけはあり単純にミステリとしてもきちんと出来ています。
 

「決断の時」スタンリイ・エリン/深町眞理子(The Moment of Decision,Stanley Ellin,1955)★★★★★
 ――義兄のヒューは自信家であるのに人に好かれるまれな人間だった。歴史ある家に生まれたヒューは本質的に十八世紀の人間であり、せいいっぱい二〇世紀に順応している、そんな趣があった。ヒルトップの屋敷は、高名なデーン館を複製したようなしろものだった。言っていればエデンの園。ある日レイモーンが闖入してくるまでは。この引退した奇術王は、ヒューがあれほど欲しがっていたデーン館を手に入れて引っ越してきたのだ。そこから二人のいがみ合いが始まった。対立はレイモーンがデーン館を修築しようとしたことで決定的になった。姉のエリザベスはどうにか着地点を見つけようとし、夫に内緒で内輪のパーティーにレイモーンを招いた。最悪の事態のきっかけは、レイモーンが脱出奇術について議論を展開しているときだった。「では錠も閂もない扉もあけてみせられると、そう言っているわけだね?」

 もう何度目かの再読になります。やはり結末の衝撃ばかりが印象に残りますが、二人の性格による対立、デーン館へのこだわり、〈完全なジレンマ〉が存在するかどうかなど、結末に向けてみっちりと描き込まれています。そしてやはり、道具立てが揃いすぎていて、レイモーンによる演出としか思えないくらいです。何しろレイモーンが「立ち向かうのに必要なツールなら(中略)いくらでもある」と言っているのが強がりでないのなら、そのツールとは「人間性についての洞察」以外に有り得ないでしょうから。とは言えもちろんヒュー自身が完全なジレンマに陥っているので、ヒューの選択を巡るリドルストーリーであることに変わりはありません。ちなみに編者が巻末評論でデーモン云々と書いているのは、フランス人Raymondの読みが(レイモーンではなく)レーモンだからなのでしょう。パトQの片割れも扉と巻末評論でウィーラーとホイーラーになっていたし、こういうところは統一してほしいところです。
 

「わが家のホープ」A・H・Z・カー/藤村裕美訳(The Options of Timothy Merkle,Albert H. Zolatkoff Carr,1969)★★★★☆
 ――ティモシー・マークルは両親の喜びの源泉になるのがうれしかった。新聞に載った小さな記事のおかげで、社長までが父親に声をかけたのだ。「息子さんのデニーが悩みの種なんだと打ち明けてくれたんだ」。ティムは父親の話に警戒して顔を上げた。案の定、ティムが編集長をしている学内誌にデニーの写真を載せてほしい、コストの問題なら費用を出してもいいという話だった。だが意外なことにデニーの写真の腕は確かだった。両親が一度だけ不安を表したのは、デニーが派手な少女を乗せてコンパーチブルで乗りつけたときだった。両親の不安をよそに車に乗り込んだティムだったが、スピードも女の子もごめんだった。それから一週間ほど新聞に轢き逃げのニュースが掲載された。

 優等生と不良の交流から、古典的な謎解きミステリとなり、最後には優秀な学生が社会のなかの権力と対峙して選択を迫られるリドルストーリーのような結末が待ち受けていて、ころころ変わる百面相のような不思議な魅力のある作品です。
 

「ひとり歩き」ミリアム・アレン・ディフォード/猪俣美江子訳(Walking Alone,Miriam Allen deFord,1957)★★★★★
 ――ジョン・ラーセンは仕事場へ向かうバスを待っていた。バスが遅れれば遅刻してシムズに渋い顔をされるだろう。うんざりだ。とつぜん電話ボックスに入った。「シムズさん? 腰が痛くて……これから医者に行くんです」ラーセンはいつもと逆方向の、市街から遠ざかるバスに乗った。終着点でしばらくぶらぶら歩きまわった。そのとき、道の向こう側から少女が歩いてくるのが見えた。少女を怯えさせないようにと、ラーセンは木陰に引っ込み、少女が通り過ぎるのを待った。そのとき少女の背後から黒い車が進んでくるのが見えた。あっという間の出来事だった。運転席の男が少女をつかんで車に押しやり、悲鳴をあげる少女を床に殴り倒して車を急発進させた。警察に報告すべきなのはわかっていた。だがそうすると仮病を使ってさぼったことを会社に知られてしまう。

 三篇続けて葛藤に苛まれる人間が描かれていました。ただし曲がりなりにも信念のあった前二話の主人公たちとは違い、ジョン・ラーセンの葛藤は事なかれ主義と自己保身によるものです。事なかれと自己保身のためのはずが結局は破滅してしまうのだから皮肉といえば皮肉ですし、事なかれと自己保身に走るのも破滅するのも弱い人間だからだと言ってしまえばそれまでですが、恐れているのが命の危険などではなく会社と奥さんだというのがラーセンの弱さを象徴していました。
 

「最終列車」フレドリック・ブラウン/安原和見訳(The Last Train,Fredric Brown,1950)★★★★☆
 ――エリオット・ヘイグは今夜もまた酒場で過ごしていた。今夜こそ決行のときかもしれない。なにを決行するのかわからないが重要なことだ。別の人生への飛躍を果たすのだ。「どっかで大火事が起こってますね」とバーテンが言った。ドアから出ると空はピンクがかった灰色だった。遠くから汽笛が聞こえてきた。これまでしょっちゅうやってきた。だが今夜はほんとうにやるのだ。ヘイグは駅の数軒前の酒場に入った。「こんばんは、ミスター・ヘイグ。オーロラがきれいですねえ」とバーテンが声をかけた。「大火事かと思ったよ」ヘイグはふり向き北の空を見やった。たしかに美しい。「ウォルター、次の汽車は何時に出るんだっけ?」「どこ行きの?」「どこでもさ」「十時十四分のがありますよ」

 創刊700号記念アンソロジー『ミステリマガジン700 海外篇』に、稲葉明雄訳「終列車」()が収録されています。アイリッシュ『暁の死線』は、夢破れながらも都会の魔力から逃れられない若者二人が出会い、それを脱出の最後のチャンスと覚悟を決めながらも殺人事件に巻き込まれてなおも都会に邪魔されてしまい、最後のチャンスをものにすべく足搔く物語でした。そしてブラウンのこの作品は、そのチャンスをものに出来なかった人間の物語でした。明けない夜はないかもしれませんが、チャンスはいつまでもあるわけではないようです。
 

「子供たちが消えた日」ヒュー・ペンティコースト/白須清美(The Day the Children Vanished,Hugh Pentecost,1958)★★★★☆
 ――ある晴れた冬の午後、レイクビューの公立学校へ通っているクレイトンの九人の子供たちが、乗っていたバスと運転手もろとも地上から姿を消した。消えたのは切り通しと呼ばれる湖畔の道路だ。湖側にはガードレールが設置され隙間はどこにもない。反対側は急勾配の山林につづいており、トラクターでも入ることはできない。切り通しの入口にあるガソリンスタンドのジェイク老人はバスが入って行くのを見ている。反対側にある食堂のジョー・ゴーマンはバスに乗っていた子供の父親だった。四時半になってもバスが到着しないため学校に電話し、事件は発覚した。夜が更け、わずかな手がかりも見つからず、筋道立った仮説も出ないとなるに至って、人々は運転手のジェリー・マホーニーのことを噂しはじめた。ジェリーがハンドルを握らなければバスはどこへも行けない。ただひとりの大人だ。ジェリーが一枚噛んでいるのは間違いない。人々はマホーニー老人の家に押しかけた。

 アメリカ探偵作家クラブ傑作選『密室大集合』で読んだことがあるはずですがまったく覚えていませんでした。とびきりの不可能事が描かれているのですが、不可能興味で読むとがっかりするので、そのせいで印象に残らなかったのでしょう。いま読むと集団による魔女狩りの恐怖の方に印象が残りますし、そういったことも犯人の計画に織り込み済みだというところに評価の軸が移りました。何とも人間心理に長けた犯人です。ただひとり真相に気づくのが、身内だからというのを差し引いても、サーカスの芸人の目で物事を見ていた人物だというのも探偵小説のツボを押さえています。
 

「短編ミステリの二百年 第三章(承前)~第五章」小森収(2020)

 ポジオリ教授ものを「ストリブリングの無理解」「馬脚を現した」等、散々です。まあ確かに「チン・リーの復活」はひどかった。

 サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」とエリン「清算」を、戦争というキーワードを通して並べて評しています。主流文学とミステリということで普段はあまり並べて論じられない二作品を共通項で繫ぐ手際に、瀬戸川猛資を彷彿させるものを感じました。

 受賞作の量もジャンルも拡大し始め、「風変わりな作品も応募され、選ばれることになりました」「こうした作品が、短編ミステリの幅を広げた例として登場するたびに、眉をひそめたり、拒否反応を示す読者が、現れるかもしれません」という例として、ウィリアム・マーチ「巣箱」が挙げられていました。『ミステリマガジン』2021年9月号に新訳が掲載されていましたが、「さして評価する気にはなれません」という評には同意です。

 その他デイヴィッド・アリグザンダー、ルーファス・キング、アヴラム・デイヴィッドスン。デイヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』第三話の、〈不可能を消去して最後に残ったものが〉云々というホームズの「テーゼに対する挑戦であり批判」という表現には、読んでみたい気にさせられます。

 EQMM年次コンテストが第十二回でいったん終わったあと、四年の中断のあと一度だけ復活した理由を、「晩年不遇だった」「ウールリッチを助けるため」というのは説得力のある考察だと思いました。

 EQMM年次コンテスト総括のあとは、「この時期にキャリアを開始した、ミステリ界の巨匠の足跡をたどることにしましょう」と言ってから、フレドリック・ブラウンとヒュー・ペンティコーストに割かれていました。なかではブラウンのショート・ショート「どうしてなんだ、ベニー?」が気になります。「そんなありきたりなことが、被害者と加害者を悲劇的なまでに決定的なすれ違いに導いてしまったのです」「ステロタイプな話から、見過ごされがちな奥行を取り出してみせる」とはいったいどんな作品なのか。収録短篇集の原書は稀覯本になっているようなので、日本版EQMMを探した方が早そうです。

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