『罪と罰1』ドストエフスキー/亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)★★★☆☆

罪と罰1』ドストエフスキー亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫

 『Преступление и наказание』Федор Михайлович Достоевский,1866年。

 冒頭で「あれ」の実行を前に逡巡する主人公ラスコーリニコフの姿は、なるほど倒叙ミステリのようで、そういう評価があるのもうなずけます。

 けれどそれは冒頭の第一章まで。第二章では早くもロシア文学特有の長広舌が飛び出して辟易とさせられます。しかもせっかくの新訳なのに、元九等官マルメラードフを落語家みたいな口調で訳したせいで却って読みづらくなっています。

 そのマルメラードフにしてからが、貧しいアル中のくせして極貧の未亡人を救うため(と少なくとも本人は称して)再婚するような、現実と理想の折り合いがついていない人です。娘には娼婦をやらせているのだから、そもそもが口先だけではあるのでしょう。

 それは主人公のラスコーリニコフも同様で、借金苦から金貸し殺害を決意するまでに至っていながら、マルメラードフ一家になけなしの金を与えたり、ラスコーリニコフ援助のために婚約した妹の婚約者に嫌悪感を抱いたり、通りすがりの中年に食い物にされかけていたおぼこにこれまたなけなしの金を与えたりと、プライドと正義感が歪みに歪んでいるせいで周りが見えていないようです。当時のロシアの状況が不明なのであるいは働き口自体がないのかもしれませんが、そもそも働けよ、とも思ってしまいます。

 偏見に満ちた言い方ながら、典型的な犯罪者の思考だと思ってしまいました。ニュースで通り魔が語る動機のような、どこまでも自分を正当化して相手のせいにしないと気が済まない人そのものでした。

 ラスコーリニコフが見た、老馬を虐待死させた群衆の夢。ラスコーリニコフ自身は金貸しの老女こそが弱き者を虐める群衆だと思っているのかもしれません。

 ラスコーリニコフの殺人を後押しすることになる、酒場の客の会話があります。生きていても迷惑をかけるだけの老害の金があれば何千という命が救われる――。理屈の是非以前に、理屈として成立していないと思うのですが、ラスコーリニコフはその声に囁かれ、やがて自分のすることは「犯罪ではない」とのたまいます。

 思想としてはポンコツですが、個人の尊厳よりも思想の方が珍重された時代があったのだろう、としか言いようがありません。

 ラスコーリニコフは殺人の重さに耐えきれず、おかしな幻覚を見たり、いきなり喚き出したり、犯行を仄めかすような言動を見せたり、病に倒れたりとあまりにも目まぐるしく、苦悩というよりコメディみたいでした。登場人物ならずとも「あなた、くるってますよ!」と言いたくなります。

 妹の婚約者ルージンが唱える「上流階級でも同じように犯罪が増えている」という分析の、その上級階級に元学生が含まれているのが時代を感じさせます。農奴解放から数年、ラスコーリニコフの境遇と思想にも社会の構造なり政治なりが影響しているはずですが、その肝心の社会自体が本書にはあまり描かれていません。

 どこまで行ってもラスコーリニコフの個人的な苦悩に終始する――これが本書の弱みであり強みでしょう。ラスコーリニコフをはじめとする登場人物の台詞に重みが置かれすぎているきらいがある反面、共感できる人には圧倒的な喚起力を持っているようです。

 とは言え章の最後にルージンを劇的に登場させたり(第2部第4章)、母と妹を不意打ちで下宿に登場させたり(第2部最終章)と、コテコテのドラマ造りで読者を楽しませようというサービス精神もあったりして、変な小説でした。

 新訳であるだけに読みやすい文章でした。その読みやすさゆえに初めは説明的台詞の噓くささが気になりましたが、読んでいるうちにそれは気にならなくなりました。マルメラードフの口調だけはやはりイラッときますが。註釈がないのは読書に集中できるようにという配慮(?)、ポリシー(?)からでしょうか、却ってわからない部分が気になって集中できず読みづらかったです。巻末の読書ガイドで一部は説明されていますが、註釈がある方がよほど親切でした。瀕死のマルメラードフに「放血」するというのは、恐らく瀉血のことだと思われます。瀉血というのが現代では用いられない治療法なので漢字の意味からのわかりやすさを取って放血にしたのかもしれませんが、もの凄く違和感を感じました。

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