『罪と罰3』ドストエフスキー/亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)★★★★☆
『Преступление и наказание』Федор Михайлович Достоевский,1866年。
最終巻も第2巻と同様に雑多なエピソードが集まっていますが、第2巻ほど散漫な印象はなく、一つ一つのエピソードに盛り上がりが見られました。
ドゥーニャから振られたことを逆恨みして、ラスコーリニコフの想い人であるソーニャを罠に嵌めて泥棒に仕立て上げようとするルージンはどこまでもこすっからく、絵に描いたような小悪党でした。そこに颯爽と登場するのが、この第5部だけに出てくるルージンの友人レベジャーニトコフです。本来であればこういったヒーロー役はラスコーリニコフの役割だと思うのですが、ラスコーリニコフはただ見ているだけでした。まあ、証拠もないのにラスコーリニコフが出張ってもどうにもならないのはわかるのですが、目撃者が出て来た途端にソーニャを庇い出す卑怯者で、そこがラスコーリニコフらしいとも言えます。
ソーニャの部屋に来てからもうじうじと殺人の告白も愛の告白も出来ない、プライドだけは一丁前の屑っぷりです。それがようやく殺人を告白したと思ったら衝撃の事実が明らかになりました。動機は「金じゃなかった」「知る必要があったんだよ、(中略)自分に踏み越えることができるのか、できないのか? (中略)資格があるのか……(中略)たんに試してみるためだったんだ」。思想がベースにありつつ金のため、というわけではなく、思想のためだけだったとは。
自首を勧めるソーニャに対し、「何ひとつわかりゃしない」連中のところになんか行かないという、安定の厨二っぷりです。そもそも金貸し殺しを罪とも思っていないのですから、ソーニャに話したのも懺悔ではなく自慢の可能性すらあります。自らをナポレオンになぞらえるのには笑ってしまいました。
ソーニャにしてからが、ここぞとばかりにラスコーリニコフの味方を始めるような、メンヘラぶりを遺憾なく発揮し始めました。ここらへんも典型的な、「この人はわたしがいなきゃだめなんだ」タイプの人物造形で、ベタな上手さは相変わらずです。
しかも直後にスヴィドリガイロフが再登場して、さっきの告白を知ってますよ、と仄めかして第5部終了。上手いです。
第6部では予審判事ポルフィーリーも再登場。相変わらず搦め手から攻めて来ます。「は、は、は!(はっ、はっ、はっ!ではなくなっています)」の回数が激減して台詞のリズムがよくなっているのは、ポルフィーリーが本気モードに入ったという証でしょうか。そもそも第1部冒頭から倒叙ミステリの趣があり、ポルフィーリーはもともと『コロンボ』への影響も指摘されているキャラクターですが、再登場したポルフィーリーは格段にコロンボっぽくなっていました。「わたしだって、あなたから悪党と思われたくない。信じていただけないかもしれませんが、わたしは心底、あなたに好意をいだいているんです」という台詞などは、完全にコロンボそのものでしょう。というかこの新訳では(特に第6部では)訳者自身がコロンボを意識してポルフィーリーの台詞を全体的にコロンボ風に訳しているふしがあります。
追い詰めるだけ追い詰めておきながら、最後に自殺を(自殺と明言せずに)牽制する言い回しのセンスもコロンボ風です。
ここまでせっかく盛り上がっておきながら、スヴィドリガイロフが登場してまた盛り上がりがしぼんでしまいました。台詞に拍子が乗っていたポルフィーリーと比べると、スヴィドリガイロフの言葉は固いうえに内容もないのです。この好色漢の目的は、どういう手段を使おうともドゥーニャをものにしたいというただそれだけで、本書のなかで存在が浮いているとしか思えません。そうは言っても、ドゥーニャを追い詰めて自分を選ばせようとしながら、なびかないと見るやすぱっと諦める場面からは、コロンボとはまた別の有名人を連想しました。この、どこまでも卑怯なくせして同時に紳士であるところって、どこかアルセーヌ・ルパンを思わせるようです。大事なものを手に入れられず絶望して自ら命を絶つところなんかも。
スヴィドリガイロフから兄の殺人のことを知らされたドゥーニャは、自首する前の兄と再会するのですが、この期に及んでラスコーリニコフは金貸し殺しを罪だとは認めていません。その後ソーニャに十字架をもらいに行った時点でも、です。これには驚きました。これまでに明言されていないとはいっても、良心の呵責や葛藤らしきものは描かれていたし、十字架をもらいに行く時点で改心しているようなものだとは思いますが、ソーニャによるもっと劇的な開眼をイメージしていたので、このまま第6部が終わってしまったことに戸惑いすら覚えました。
それにしても、ポルフィーリーにではなく副署長の火薬中尉に自首するような、子供じみた意地っ張りなところがどこまでいってもラスコーリニコフなんですよね。
自首したあとの裁判や懲役のことはエピローグで語られていました。ここでドストエフスキーの凄さを実感します。小心ゆえの行き当たりばったりな行動が裁判では心神喪失の根拠として数えられ、考えなしにばらまいていた施しのお金のおかげで情状酌量が考慮され、かなり減刑された判決が下るのです。ラスコーリニコフの不安定な言動は、まさかすべてこのための伏線だったのでしょうか。恐らく後付けなのでしょうけれど。
それよりも驚いたのは、ラスコーリニコフはシベリア懲役中も罪を悔いていないことです。あれ? もしかして最後まで改心も悔悛もしないのでしょうか。なんだか思っていたのと違う……。
やがて監獄で病気になったラスコーリニコフは、ソーニャのことを考えているうちに、ソーニャのことを愛していることに気づき、「観念にかわって生命が訪れ」ます。そしてソーニャの聖書とラザロの復活のことを考えているうちに、「新しい生活」のイメージを持ち始め、「新しい物語」「更生していく物語」「生まれかわり、ひとつの世界からほかの世界へと少しずつ移りかわり、これまでまったく知られることのなかった現実を知る物語」が始まって幕となりました。
えええ……。
まず愛しているのが今さらかとびっくりしました。罪と罰の問題が思想的にではなく理想論的に処理されているのには啞然としました。投げっぱなしと言われても仕方ありません。ましてやラザロの復活=心から生まれ変わって新しい人間になるという安易な喩えで終わるとは。エピローグは飽くまでエピローグとして読むべきなのでしょう、おまけみたいなもので。
訳者があとがきで「『カラマーゾフの兄弟』の時代は過ぎ、『罪と罰』の時代が来た」「『カラマーゾフの兄弟』がかりに多くの読者をかちえているとすれば、それはわたしたち読者が、〈父を殺す〉という行為のもつリアリティないしは肉感性を直感する能力を根本から失ったためです」「「シラミ」というあまりに無意味な存在は、ことによると、むしろそれを百八十度反転させた、(中略)はるかに怖ろしい、世俗的な絶対権力のメタファーでもあったのではないか」等々、訳者がわりとトンデモな人であることが判明してしまいました。
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