『ぼくらはアン』伊兼源太郎(東京創元社)
2021年刊。
何とも印象深いタイトルです。平易な言葉なのに謎めいています。『赤毛のアン』を連想させるこのタイトルに惹かれて手に取りました。結論から言うと『赤毛のアン』は無関係でした。タイトルになっている「アン」とは、「~ではない」を表す接頭辞の「un」。なにものでもない主人公たちを指していました。
夫の暴力から逃げてきた母上は、夫に見つかるのを恐れて住民票も移さず病院にも行かず自宅で双子を出産する。出生届も出せなかったため戸籍がない諒佑と美子は、学校へ行くこともかなわず、それがばれないように下校時間になってから外に出て図書館に通っていた。二人はそんなある日、独り動物と戯れている子どもと出会う。ヤクザの息子であるため学校でも孤立していた三島誠だった。やがて就労ビザの切れたタイ人夫婦の子ども、マヨンチットとククリン姉弟も加わり、似た境遇の五人は仲良くなった。キノコ狩りに入った山の持ち主である戦争経験者の「じいちゃん」も、家族のように接していろいろなことを教えてくれた。けれど束の間の幸せは長くは続かなかった。身分証もない母上は劣悪な環境で働かざるを得ず、みるみる健康を害していった。週に一度吹くという有毒な鉄砲風に当たり、一人の命が失われる。そして殺人事件――。十一年後、毎年集まっていた故人の命日も欠席することを匂わせて、誠が姿を消す。法律事務所の事務員として働くようになっていた諒佑は、誠の父親が会長を務める青龍白虎会の幹部・犬養から、誠捜しを依頼された。
無戸籍者という社会問題を爽やかなエンターテインメントに仕上げた良作です。
国や国民の無関心に憤りながらも、決してくじけず、それどころか強く明るく生きる姿は胸を打ちます。
Dragon Ash「Grateful Days」に乗せて唱えられるカレーライスの儀式、ウガンダ・トラの名言「カレーライスは飲み物」、「NO. NEW YORK」をはじめとしたBOØWYの作品、『長七郎江戸日記』や『水戸黄門』などの時代劇、そういった世相を反映する数々のものが彩りを添えていました。こういう具体的なあれこれによって、生きた生活感を醸し出すことに成功していました。カツカレー衣多め、アイスもどき、銀杏の強烈な匂いといった食べ物も忘れられません。冷凍みかんにギムレットやジンライムは重要な役割を果たしてさえいました。
絵画や本も色を添えます。ミュシャ『黄道十二宮』は美子が一目惚れした作品ですが、それに描かれた赤い宝石が事件の遠因にもなっていました【※誠が美子に赤い宝石をプレゼントしたくて宝の隠された地下に行こうとして、毒ガス装置のスイッチを入れてしまい、「鉄砲風」を発生させてしまった】。美子の個展に飾られた絵によって諒佑たち同様に読者も彼らの子ども時代に再会し、同じように感動を覚えることでしょう。学校に行けない双子の楽しみは図書館でしたし、犬養の愛読書がディケンズだというのが妙に可笑しかったです。
双子の母親は地の文で母上と表記されます。時代劇好きの母親が子どもにそう呼ばせたからなのですが、その時代劇口調がいたるところで用いられ、つらい現実を緩和する飄々としたユーモアになっていました。
犬養という、ヤクザに向いていないヤクザがお目付役だったのは幸運でした。じいちゃんの存在がなければ、五人はもっと早くばらばらになっていたかもしれません。そういう意味では、きれいごとなのでしょう。そう思いながら読んでいました。
ところが犬養はともかく、じいちゃんの方はご都合主義でも何でもなく遅かれ少なかれ出会う運命だったことが後に判明します。それに留まらず、本書には意外と伏線が張りめぐらされていました。
命日を前にして誠が消えた謎を追って、人捜しというコテコテのハードボイルドのように始まった物語には、壮大な背景を持った陰謀が隠されていました。誠の部屋に残されていた戦争関連本により、じいちゃんの言葉の一つ一つが腑に落ちます。誠の手がかりを求めて東京に出た諒佑は、闇の宝石売買商や、誠を追う謎の三人組に遭遇します。それが誠とどう繫がるのか――。再会した誠の口から真相が語られ、母上が双子の就籍をおこなわなかった理由、母上が劣悪な環境で働いていた運命、じいちゃんが山で一人で暮らしていた事情、それら諸々がすべて一つに繫がるのでした。事件の根幹にあったのは、無国籍者に対する無関心とはまた別の、日本という国の過去の暗部でした。【※軍による隠退蔵物資を中野学校出身のじいちゃんが管理し、罪滅ぼしからそれを有効利用しようとしていた。それに感づいた誠の父親と、母上の夫がお宝を狙うようになった。誠の父親は宝探しのため掘り返し、そこで働いていた母上は粉塵のためだけではなく陸軍の毒ガスにやられて命を縮めた。母上の伯父とじいちゃんは同じ中野学校出身だったため元々じいちゃんは援助するつもりだった。母上の夫は警察官僚であり、住民票などから母上の行方をたどれたため、役所に戸籍などの証拠を残すわけにはいかなかった】
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