『平成怪奇小説傑作集3』東雅夫編(創元推理文庫)★★★☆☆

『平成怪奇小説傑作集3』東雅夫編(創元推理文庫

「成人」京極夏彦(2008)★★★★☆
 ――「『人形のどうぐ』 四年三組□□。ひなまつりです。ぼくは五人ばやしが、すきです。」続いて高校生による文を掲げる。「友達のAの家に行ったのは一度きりである。隣の部屋には箱が置いてあり、中には鳥のひなのようなものが汚い水につかっていた。」実は『人形のどうぐ』の作者こそこのAなる人物である。また、私の友人B君はA君の大学時代の同僚であり、A君宅に泊まったことがあるという。「成人式に出たくない。そう思って、駅でばったり会ったAの実家に行っちゃったんだよ。親父ってのがまた愛想がないのよ。俺が通された部屋には裲襠が飾ってあって、俺はその部屋で寝た訳。すると丸くて柔らかいものが布団の中に潜り込んで来た訳……」

 京極夏彦にしてはクセのない文章でした。文章にクセのない代わりに構成が凝っています。A君宅でいうところの成人というのは、どうやら大人に成ることではなく人間に成ることのようです。何気なく素通りした文章が、読み返してみると怖くなります。雛人形について書いた小学生の作文に対する「小さい妹さんがいるのかな」という教師のコメントに、背筋がぞっとしました。A君宅に行った高校生が見たくちばしのないひなのようなもの、とは人に成りそこねた胎児のようでもあります。
 

「グレー・グレー」高原英理(2008)★★☆☆☆
 ――灰色だ。この空模様は長い。降ったり止んだりしながら何週間か。死んだあとも完全に腐り果てるまで生前の暮らしを続けようとする人もいる。物陰から噛み付いてくる奴もいるので、路地は路地で危険だ。コンビニでドライアイスを買って、和花に会いにゆく。「来たよ」。すると三十秒くらいおいて、「はあ、い」という明るい高い声だが、来るたびにしわがれて雑音が増えてゆくのが悲しい。和花の膝にドライアイスを載せた。気休めだが挨拶のようにして載せる。「死んだとき、何か見えた? 走馬灯とかなんとか」「なん、にも。全、然。あれ? て感じで」

 再読。死んだあとも動き続ける現象が発生してしまった世界で、青年はゾンビとなった恋人と会い続けています。変わってしまった世界で変わらない日常を続けようとする青年を待っていたのは、考えようによっては救いのような結末でした。
 

盂蘭盆会」大濱普美子(2010)★★★★☆
 ――帰ってきた。やっと、帰ってきた。廊下の先に明かりが見える。叔母がいるのだろう。朝子は目の前の階段を、二階に向かって音もなく駆け上がった。/明日は盂蘭盆会だ。廊下に佇んで見上げる階段は、午後の日射しにくっきりと照らし出されている。秋子はゆっくりと階段を上り始めた。秋子たち姉妹は一度も家移りというものをしたことがなかった。両親が亡くなった後、そして結婚した後も、夏子は両親の居室を寝室兼仕事部屋として使い続けた。「お姫さまー、お食事でございまっせ」秋子がそう声をかけると、くすんだ古本を持ったまま姉が顔を見せるのだった。

 盂蘭盆会というタイトルで一行目が「帰ってきた」とあるのだから、恐らく朝子が死者であろうことははっきりしています。朝子が、そして秋子たちが属していた家庭がどのようなものだったのか、それが丁寧に描かれていました。死者の肖像が明らかになるタイプの作品は多いのですが、死者と生者どちらも同じ比重を持って語られているのはちょっと珍しいように思います。ですが考えてみればどちらもともに生きていたのですから、同じ比重であるのが当然とも思えて来ます。
 

「蛼橋《こおろぎばし》」木内昇(2010)★★★★★
 ――蛼橋のたもとに、良い薬種屋があるから行ってごらんな。その言葉が頭から離れず、佐吉は飯田川に足を向けた。看板は出ていない。佐吉は主人に言われるがまま内蔵に向かった。文机の前に切髪の女が座っている。「どなたのお薬でしょうかのし」主人もこの女も他国の者であるらしい。「母が目を患っているんだ」「毎日、二包、飲んで頂かして」「これだけかえ?」「ここは一日分しか出せませんよって、毎日通うて頂かして」女は那智と名乗った。母はこのところ体もすっかり弱り、起き伏しする日が続いている。佐吉が長屋に戻ると、「お帰り」のひとこともなく仏壇に手を合わせて経文をこねていた。「佐吉。今日は八重が来てくれたよ」「姉さんが? 珍しいな」

 叩き上げで番頭にまでなった信頼篤い職人が、母の介護のために職を辞したにもかかわらず、途端にそれまで母の世話などしてこなかった姉がしゃしゃり出てくるところといい、仕事と母の介護一筋で嫁のことも考えられなかった佐吉が、那智という薬売りの女性のことを意識してしまったりするところといい、何ともやりきれない人生です。介護を扱っているあたり恐らく現代に通ずることを意図しているでしょうし、佐吉の苦労と誰のせいにもできない境遇には身につまされるものがあります。そんなつらい生活の果てのつらすぎる出来事にはさすがに驚きました。ある有名な映画を挙げるまでもなく仕掛け自体はよくある型の一つなのですが、あまりのタイミングの悪さゆえの効果が絶大でした。それでも「今更、手の中にあったものに気付くなんざ」と気づけて、これまでの生活も捨てたもんじゃなかったと知れたのがせめてもの救いでしょうか。
 

天神坂有栖川有栖(2011)☆☆☆☆☆
 ――年嵩の男が坂の中ほどで足を止め、右手を指さす。〈割烹 安居〉。まだ若い女は逡巡の色を表わした。「でも、わたしは……」「大丈夫」。店内には椅子が五脚だけ。「いらっしゃいませ」割烹着姿の亭主が張りのある声で言う。男は濱地健三郎。心霊現象が専門の探偵だった。「ここの料理は絶品ですよ」濱地が雲丹を口に運ぶと、ようやく女も箸を持ち、食したところで小首を傾げる。「戸惑うことばかりです。まず第一に……」「料理がおいしいこと、ですね?」「わたしに味わえるはずないやないですか。死んでるんですから」

 心霊探偵なんてものが出てくる時点で興醒めでしたが、美味しいものを食べればすべて解決!というふざけた内容に至っては開いた口がふさがりません。
 

「さるの湯」高橋克彦(2011)☆☆☆☆☆
 ――妙な具合になっている。私がシャッターを押した写真に映っていたのは、どう眺めても死者とは思えない明るく和やかな表情をした人々だった。撮影のたびごとに皆が確認を求めてくるはずだ。確実に霊魂が映るとは言えないことを思えば気が滅入る。地域の若者のリーダー、照山が思い出したことがあると言って呟いた。「さるの湯、ってとこがあるんだ。近くにじいさんが小屋を建てて一人で住んでる。死人が最期に入る湯だと言われている。じいさん津波以来見掛けてねえ。安否も気になるし、行ってみるか」

 東日本大震災で傷ついた心を癒すためにジェントル・ゴースト・ストーリーが必要とされたのはわかります。だから怪奇小説の歴史の流れとして、震災前年の「盂蘭盆会」から震災後の「さるの湯」までジェントル・ゴースト・ストーリーに至る流れを明示するのも理屈としてはわかるのです。ですがジェントル・ゴースト・ストーリーというのはたまにあるからいいのであって、連続して読まされる身としてはたまったものではありません。
 

「風天孔参り」恒川光太郎(2011)☆☆☆☆☆
 ――初秋の午後、男女六人ほどの団体客がレストランにやってきた。その日の夕方、扉が開いて若い女が顔を出した。「あの、ここ宿泊はできますか?」「できますよ。昼間いらっしゃったお客さんですよね。お連れさんたちも?」「いえ、私一人です」。九日目の晩、私は彼女を抱いた。「君は何なんだ」。月野優は奇妙な話を始めた。山で迷っていると、〈風天孔参り〉の集まりに遭遇した。「風天孔に入るとね、そこに棲む雷獣が、入った人間を空へと連れ去るの。自殺に最適」と老婦人は説明した。やがて中心部が白く光っている竜巻が現れ、老婦人は竜巻の中に入っていった。竜巻は消え、老婦人はどこにもいない。先祖代々の案内人だという安藤さんに口外禁止の釘を刺され、レストラン前で別れたのだった。

 ドン黒とか月野優とかいうネーミングセンスでもう駄目でした。月野優の過去はその名に相応しいような乙女チックなまでにドラマチックなものでしたが、それ以外の登場人物の過去や人物像がしょうもなさすぎて失笑するばかりでした。「人間は、弱いね」ということを表すために敢えてそうしたのかもしれませんが、俗物たちがきれいな死という幻想に群がっているようでおぞましかったです。
 

「雨の鈴」小野不由美(2012)★★★★☆
 ――どこかで鈴の音がした。有扶子が足を止めて振り返ると、喪服の女が見えた。この袋小路にいるということは、小路沿いにある家の住人だろうか。雨が降っているのに、濡れている様子はない。たぶんあれは、見てはいけないものだ。それからも雨の日になると決まって女は現れ、小路を奥へと進んでいった。塀に行く手を遮られ、次の雨の日には向きを変え、奥へ進む。有扶子は七宝教室の生徒から話を聞いた。「袋小路の突き当たりの佐伯さんって家で、立て続けに不幸が続いたんです。数年後、喪服の女の人が間違えてお悔やみに行ったらしいんですよ。それで、お祖母ちゃんが、自分か嫁が死ぬんだって大騒ぎして……」

 苦手な心霊探偵ものですが、探偵役は狂言回しのように最後にちょこっと出てくるだけなので、さほど気になりませんでした。理由もわからずルールに則った行動を繰り返す怪異という、実話怪談とも古典的な怪談ともつかない恐怖は、どちらの怪談のファンにも受け入れられそうです。理由がわからないのでその面からは解決のしようがないという絶望的な状況から、ルールの面から対処して、異なる理に生きる者同士ぶつかり合うのではなくそれぞれの理は理のまま擦れ違わせるやり方は、心霊探偵というよりも『蟲師』や『百鬼夜行抄』のような作風を連想します。
 

アイデンティティ藤野可織(2013)★★★☆☆
 ――「猿です」「鮭です」「いいえ、人魚です」とそれは言った。三者三様の主張は、すべて同じ口から出た。「だめだだめだ。いいか、おめえは人魚だ」と助六が言った。ここは、人魚工場だ。原材料はおもに猿と鮭である。干してから糸で縫い合わせ、職人たちが「ほら、人魚だ」「そら、人魚だ」と言い聞かせる。腕の悪い助六の作ったそれだけが、アイデンティティの獲得に困難を来している。

 藤野可織は好きな作家ですが、怪奇小説というより幻想小説というイメージですし、この作品もやはりそうでしょう。猿であることも鮭であることもやめさせられ人魚にもなれなかった「それ」が到達する真理は、確かに真理ではあるのですが、だからこそ最後に博物館に収まってそんなことを言われるのが無性に可笑しかったです。
 

「江の島心中」小島水青(2014)★★☆☆☆
 ――料亭に魚を届けて、勝手口を出たとたん、強い雨だ。若女将が貸してくれた傘を差して、車に向かう途中だった。雨の中、女が一人、うずくまっていた。わたしが傘を差し出すと、女はいやいやして、「どうしてあたしに傘なんか」。最後まで聞かずに、わたしは雨の中を走った。数日後。もう会えないと思っていた女が、実にあっさりと、あの松の下にたたずんでいた。「お座敷では次郎吉と呼ばれてました」くすりと笑う。やっぱり芸者だ。話がしたいが、何を話したらいいかわからなかった。そのときだ。「江の島に、連れてってくれませんか」。約束の日に駅に行くと、次郎吉さんがちゃんと待っていた。「江の島に行くのは二度目です。男の人と来るのも二度目」

 訳ありな美女というベタな存在が、予想通りの結末を迎えます。語り手は事のついでのように過去の話をしていますが、形見の石を後生大事に持っている時点で、やはり魅入られてしまっていたと言うべきでしょう。肝心の次郎吉にあまり魅力を感じられませんでした。
 

「深夜百太郎(十四太郎、十六太郎、三十六太郎)」舞城王太郎(2015)★★★★★
 ――天気がいいので夜にダムを見に来た。彼と車を降りて夜空を見上げる。月が出ている。ほぼ満月。私たちは湖面に映っているはずの月を探す。「あったで」と彼が言うが、何かおかしい。と、白い丸がすうっと水平に滑るように動く。「えっ?」「何じゃ?」と二人で声をあげる。こちらに向かってきた白い丸は、すぐ脇の木陰からばっと現れて音もなく森のすれすれを飛んで登ってゆく。そのとき、「ここにいたらあかん」という声が聴こえ、振り返ると作業着のおじさんが立っている。「あ、すみません」と言っておじさんに訊く。「何なんあれ?何か知ってます?」「いいではよ帰んねの。ここをこれからオトオリサマが通りなさるんよ」

 単位が太郎というのがシュールですが、実態は百物語で、つまり太郎=話であるようです。生理的な気持ち悪さが文字通り押し寄せる十四太郎「夜のダム」、隠れ里のような場所で演じられる不条理な光景と理不尽な暴力が恐ろしい十六太郎「山の小屋」、憑物のようなものが憑いた少女に恋してしまった高校生の暗闇と疑心暗鬼を描く三十六太郎「横内さん」、三者三様の恐怖が堪能できます。なかでも三十六太郎は、舞城王太郎らしい青春小説にもなっていて、甘酸っぱい恋と死の恐怖を同時に描くこの作品は舞城王太郎にしか書けない魅力に満ちていました。
 

「修那羅《しょなら》」諏訪哲史(2016)★★★★☆
 ――「しょなら、と、いうがよ。よそからきた、お客さあは、しゅなら、という」。よそ者と、なるほど、それにはちがいないが、菅原士郎は、意にも介さず、少年に礼を言い、鳥打のひさしを、持ち上げた。菅原士郎、下町歌舞伎の、花形役者。もっぱら、女形で名が売れた。この一月、若干二十歳の、女形見習い、色白の少年が、無人の稽古場で、自害して果てた。その紅顔の美少年から、一方的な、はげしい恋情を寄せられ、士郎を当惑させた。明日。修那羅を越える。少年が、生前、話していた峠だった。田沢の旅館に落ち着いて、寝酒におよんだ。さむい。醒めれば、線香の香りで。床の間には、比丘尼の絵姿。げに、悪趣の風情。

 読点の多い独特の文章は、長唄や清元の台本のようなリズムを狙っているのかとも思いましたが、編者解説によれば泉鏡花だそうです。なるほど文章のリズム自体は鏡花とは別物なれど、「雪あかり、その少年の、襟元に、」と読点で改行して台詞に移るところや、「なるほど、ちんまりした御堂で。」といったような助詞止めなどは確かに鏡花です。修那羅山中の道場のなかで舞台が切り替わるように唐突に悪夢のような光景に遭遇するさまは、「春昼」や「高野聖」のようです。しかしながら、シャツを脱ぎかけた状態で固まっている少年の集団というのは、わたしには幻想的だとは微塵も思えず、とてつもない破壊力のあるシュールなギャグのようで、申し訳ないけれど笑ってしまいました。
 

「みどりの吐息」宇佐美まこと(2017)★★★★☆
 ――集落の一番奥の岡田老人宅に生活必需品を配達した時には、台風のせいで道が土砂でふさがれていた。その夜は岡田の家に泊めてもらうことになり、テレビを見ていると、東京でも土砂崩れがあったというニュースをアナウンサーが読み上げていた。「斜面で倒れた木の中から人骨が見つかりました」。「警察にはわからんだろう。木に人が食われるなんてさ」岡田は戦後に経験した話を始めた。秋山という山師が鉱脈を探すうち、山の森に棲む奇妙な山の民の話を聞いた。そのとき秋山の頭に残ったのは、「山の民の女は別嬪である」ということと「山のことを知っている彼らなら鉱脈の在りかも教えてもらえるのでは」ということだった。秋山は山の奥深くを目指し、谷底へ転落して山の民に助けられた。秋山の世話をしたのがタエという娘だった。

 コリア「みどりの想い」を連想させるタイトルや、「木に食われる」という岡田老人の言葉から、植物怪談であろうことは想像に難くないのですが、里人と交わらない山の民との異類婚姻譚めいた内容がそこにどう繫がるのかはわかりませんでした。よもや異民族どころか文字通りの異類であって、それが岡田老人に繫がってゆき、タイトルの意味が明らかになって終わるという完成度の高い作品だとは思いませんでした。
 

「海にまつわるもの」黒史郎(2017)★★☆☆☆
 ――秋好さんは中学生のころ、漁師だった祖父の船に乗せてもらったことがあった。船酔いで横になっていると、いつの間にか眠ってしまった。しばらくして、飯だぞと起こされた。祖父はバケツから黒くて長い毛のようなものを味噌汁の鍋にぶち込んでいる。「なにそれ?」「これか。これは陸にゃあねぇ、海でしか食えねぇもんだ」海藻だろうか。長い黒髪にしか見えない。ずるずる、ずるずる。祖父の箸は止まらない。「じいちゃん、それ、どんな味がすんの?」「うまかねぇな」

 種々雑多な実話怪談が載っていますが、怖いと感じたのは上記「漁師汁」くらいでした。
 

「鬼のうみたりければ」澤村伊智(2018)★★★★☆
 ――旦那と結婚したんは十年前。二年前、お義母さんがくも膜下出血で倒れはってん。おかしなったんはその一年後、旦那が会社クビになった日からや。不採用ばっかりで旦那は家におるだけになった。仕事も介護も家事も全部やったろ、旦那が再就職できるまでの辛抱や、そう思たら頑張れたわ。「兄貴が九歳の時、神隠しに遭うてな……きっと疫病神の行列やったんやろな」輝さんっていう双子のお兄さんがおったと、旦那がそんな話をした一ヶ月後や。行方不明やった輝さんが帰ってきてん。白い山みたいなとこでずっと暮らしてたと普通に言わはる。輝さんは次の日から、旦那の名前で履歴書を書いて働くようになった。

 神隠しから帰ってきた双子の兄が人ならざる「鬼の子」になってしまったのではないか――。そう疑う旦那が働く気もなく暴力的で精神的に脆い人物として描かれているだけに、はなから信用できません。おかしいのは旦那の方だと、その時点では思うはずです。果ては旦那がおかしいのか、輝さんが鬼の子なのか、二つに一つの状況に巻き込まれた末に、語り手がおかしかった可能性すら示唆される、藪の中な結末が待ち受けていました。

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