『エクトール・セルヴァダック 〈驚異の旅〉コレクションⅢ』ジュール・ヴェルヌ/石橋正孝訳(インスクリプト)★★★☆☆

『エクトール・セルヴァダック 〈驚異の旅〉コレクションⅢ』ジュール・ヴェルヌ/石橋正孝訳(インスクリプト

 『Hector Servadac』Jules Verne,1877年。

 〈驚異の旅〉コレクション最終配本。

 恋敵ティモシェフ伯爵との決闘を間近に控えたエクトール・セルヴァダック大尉は、突然の悲劇に見舞われる。崩壊した家から這い出したエクトール・セルヴァダックと従卒ベン゠ズーフを待ち受けていたのは、西から昇る太陽や驚異的な跳躍力や近すぎる水平線といった不可解な現象だった。

 時としてヴェルヌの欠点の一つともなる退屈な性格描写もあっさり済ませて、登場人物ともどもわけのわからない世界に放り込まれるテンポの良さが魅力です。そこからしばらく、エクトール・セルヴァダックたちが状況を調査する面白さがあるので、出来ればあらすじは知らずに読むべきでしょう。

 実際、全篇通してSFというより探検小説です。理由は何だかわからないけれど飛ばされた地球の欠片の上にいるみたいだぞ――というところから先、やっていることはほとんど無人島の探検と変わりありません。

 これが面白いのは、ヴェルヌ得意の国民性ネタがほとんどないことが大きいと思います。あのステレオタイプが毎回鬱陶しいんですよね。本書でも調査をしていくうち様々な国籍の人間が見つかり、イギリス人ネタやスペイン人ネタやユダヤ人ネタが繰り広げられるものの、うざいのはイギリス人との対立くらいでした。規則第一の国民性が戯画化されているのとは別に、英仏はライバル同士なので互いに無駄に挑発し合いますが、イギリス人は仲間にならずにあっさり退場します。ロシア人(伯爵たち)やイタリア人(少女ニーナ)はネタにすらされていませんでした。

 国民性ネタが少ないことに留まらず、おしなべてキャラが薄い人たちが多いです。タイトルが『エクトール・セルヴァダック』の割りにはセルヴァダック大尉は活躍しません。探検するのは主にセルヴァダック大尉とティモシェフ伯爵(+従卒ベン゠ズーフと一等航海士プロコープ)なのですが、主人公というより物語の水先案内人とでもいうくらいの透明感でした。道化役のベン゠ズーフですら控えめです。

 個性的なのはいかにも頭コチコチの学者パルミラン・ロゼットと、守銭奴というステレオタイプユダヤイザーク・ハーカブートくらいでした。

 彗星の衝突によって地球の一部とともに彗星もろとも宇宙に飛ばされて軌道に乗ったとして、現実であればどちらも無事で済むわけもないので、原因を明らかにせずに探検に終始するのは小説としてよい判断だと思います。帯に「パラレルワールド」とあるのは、現実の世界とは違う物理法則の地球という意味のようです。ジャンプ力が上がったり、沸点が下がったり、火山が静かに噴火したり、微動だにしない水は凍らないが衝撃を与えるとたちどころに凍ったり(p.222)、虚実入り混じった不思議の国の探検が楽しい作品です。

 大尉たちが見知らぬ場所にいた理由は第二部に入ってようやく明かされますが、「彗星は、核が非常に硬い物質でできており、至近距離から窓硝子に撃ち込まれた銃弾と同じ結果をもたらしたのだ。なにも破壊せずに地球を通り抜けたのさ」(pp.294-295)などというもっともらしい(?)譬え話が傑作です。

 原因がわかってからも、どうやって地球に戻ろうかという試行錯誤やサバイバルは起こりません。軌道に乗っていれば自動的に再び地球にぶつかるのです。だから状況の割りにはのんびり探検したり、諍いとも呼べないようなドタバタがあったりと、面白さのタイプ的には『気球に乗って五週間』に近いでしょうか。

 戻り方も凄かった。なんでしょうこの、落ちるエレベーターがぶつかる直前にジャンプすればセーフ、みたいな理屈は。

 この邦訳は現行版がもとになっていますが、最終章だけはエッツェルに没を喰らった草稿バージョンも併録されています。草稿版を読むと、ヴェルヌはこれをファンタジーではなくSFのつもりで書いてたのかなと思いますが、これだけ荒唐無稽な物語だと煙に巻いたような現行版の方が合っていると思います。

 第七章にある「|そこから怒りが《インデ・イラエ》。」(p.63)というのがわからなかったので調べてみると、ユウェナリス『諷刺詩』第1歌168行「Inde iræ et lacrimæ.」からの引用のようです。直訳すると「そこから怒りと涙。」、岩波文庫の国原吉之助訳では「そのあげくに相手は腹を立てて仕返しをし、あなたは惨めな目に遭うことになる。」(p.87)とあります。「罪人を批判してもやり返されるので黙っとけ」くらいの文脈でした。

 [amazon で見る]
 エクトール・セルヴァダック 〈驚異の旅〉コレクションⅢ 


防犯カメラ