『The Glass Key』Dashiell Hammett,1931年。
ハメットの第四長篇。サム・スペイドでもコンチネンタル・オプでもなく、それどころか探偵でもない男が主役を務めます。つまりはこのネッド・ボーモントなる賭博師、誰かの依頼で動くわけではなく、表向きは横取りされた競馬の儲けを取り返そうとするのがきっかけです。
賭博師ネッド・ボーモントは友人でありボスでもある町の顔役ポール・マドヴィッグから呼び出される。選挙の後押しをしている上院議員ラルフ・ヘンリーの娘ジャネットに贈るプレゼントの相談だった。持ちつ持たれつの政略的な意図もあるが、どうやらマドヴィッグはジャネットに惚れているらしく、結婚する気のようだ。一人娘のオパールとヘンリー家の長兄テイラーとの交際を禁じたのも、そこに理由がありそうだった。
ところがその夜、オフィスの近くでテイラーの死体が発見される。奇妙なことに死体は帽子をかぶっていなかった。
競馬の儲けを持ち逃げしたノミ屋のバーニー・デスペインを探すために、コネを使って特別捜査官に任命してもらったボーモントは、バーニーがテイラーに金を貸していたことを知る。バーニーがテイラーを殺して逃げたとすれば平仄は合う。
だが轢き逃げ事件の証人が殺されたことで事態は一変した。容疑者として勾留されているティム・イヴァンズが釈放されるよう働きかけて欲しいと訴えていた兄ウォルトの懇願を、マドヴィッグは選挙前にごたごたは起こしたくないと退けていた。諦めきれないウォルトは、マドヴィッグと敵対する組織のボス、シャド・オロリーに泣きついていたのだ。証人が死んだことでティムは起訴されない可能性が高くなった。
世間は身内を救うためにマドヴィッグが殺させたと思うだろう。組織に近い人間は、マドヴィッグに代わってシャド・オロリーが手を差し伸べたと思うだろう。アリバイのあるウォルトが捕まれば、世間はマドヴィッグがアリバイをでっちあげたと思うだろう。
マドヴィッグはボーモントの意見も聞かず、強硬な手を打った。だが収入を絶たれ追い詰められたシャド・オロリーは反撃するだろう。そうなって犯罪が増加すれば、現政権のイメージは悪くなり選挙には負ける。
さらには、マドヴィッグの犯罪を匂わす怪文書が関係者に送られて……。
三人称客観描写が徹底されているため、ボーモントの行動はときに行き当たりばったりにも見えます。初登場のシーンにしてからが、その時点ではボーモントとマドヴィッグが気の置けない仲だとはわからないため、二人のやり取りが冗談なのか何なのかもわからず当惑してしまいました。この「?」の状態からだんだんと友情が明らかになって来るのがいいところです。
誰かを訪問するのも理由はわからないまま突然場面が変わったりもします。頭が回るという設定通り実は先を読んで行動していたことが、読んでいくうちわかるようになっているのですが、なかには思った通りに行かずに失敗してしまったことが明らかになったりもして、そこら辺の緩急が非常に上手でした。
しかしいくら優秀だからといってすべてをコントロールできるわけではありません。そもそもが当初から政治の話なのでした。
現代以上に力がすべての、選挙で勝てば犯罪も揉み消せる世界とは、つまりは負ければすべてを失う世界です。
気づいたときにはがんじがらめになっていました。「真実がどうであるか」よりも、「『真実と思われること』がどうであるか」を信じる世間に対して、打てるすべはありません。
ここからの各人の思惑のすれ違いに読みごたえがありました。
真犯人の非情さ――残虐とかではなく、飽くまで損得で動く情の無さに対し、逃げは許さないネッド・ボーモントの非情さがぶつかります。
勝てばチャラの世界ならば罪だってかぶれるのか――というのは目から鱗でしたが、そりゃ相手も政略だよねというのもわかっちゃいても哀れです。友人からは人殺しなど出来ない人間だと信じられているのに、娘や想い人からは人殺しだと決めつけられているだけでも哀しいのに、最後には……。ある意味マドヴィッグこそ裏主人公でした。スキャンダルがあっても次の選挙を狙うタフさと、真実を知って身を引くやせ我慢が印象に残ります。
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